仕事も新たに新しく
それから、どうにもこうにも、霧島との交流が何もできないまま、彼は記念パーティをぶち壊した責任を取らされて、辞職した。
働かせて責任をとらせる、という方法もあったようだが、霧島のあの時の怒り狂いっぷりに社長令嬢の婚約者がおびえそして、社長令嬢が一目ぼれらしき感情のまま、霧島と接触しようとし始めたあたりで、彼が出て行かないという選択肢はなくなったらしい。
彼はどこにも未練がなさそうな顔をして、颯爽と去ったらしい。
その後ろ姿は誰も止められない物で、そしてその見事な去り方……誰も文句が言えない程完璧に引き継がれた仕事、営業先への挨拶、引き継ぐ相手の力量を見て振り分けられた彼の持っていた、膨大な仕事たちつまり、彼がいなくなった穴が埋まるように文句も言えないほど調整されていた……のため、営業の人間たちは、霧島という存在が実は、自分たちの理想の何かだったんじゃないか、と思うほど彼がいた事は鮮やかなのに仕事でミスが起きないという事が起きたらしい。
しかし彼を知る誰もの記憶に、霧島という男は焼きつけられていた。
そして絃の身の上も、大きく変わったのだ。
あのパーティで跡継ぎが信用を失墜させたため、あちこちから信頼や信用を失った会社は、大きく人員を削減しなければならなくなり、絃もそれに巻き込まれて会社を辞める事になってしまったのだ。
人件費削減とかそういうたぐいの言葉の結果である。
総務課のなかで、一番下だった絃の首が切られるのはある意味、誰もが納得するものだった。
そして絃も、雇用保険などを申請し、現在進行形で求人をあさりまくっている毎日だった。
「それにしても世知辛い世の中だねえ。資格がなければすぐに就職が決まらないなんて」
他人事の顔をしながら、妹のめくる求人誌や、ネットのハローワークを茶化す大鷺である。
「関係ないでしょ」
「いや、家族だし大いに関係あるように思うなあ」
大鷺は言いながら、欠伸を一つした。
「眠そうだけれど、ちゃんと眠ってるの」
「寝てるよ、四時間くらいは」
「もっと睡眠をとった方がいいんじゃ」
人間の睡眠時間は六時間以上がいい、のではなかっただろうか。
なんとなく、言われてから見れば彼の顔にはクマがある気がした。
そんな妹の言葉に、料理の神様は言い返す。
「一人で仕込みをするのは毎日、大変なんだよね」
「自分でやりたい事でしょう」
「そうだよ? だから後悔しないけれど、ほら、朝いちばんに手伝ってくれる人、募集しても時間が時間だからこないんだよ」
大鷺の言う、手伝ってくれる人とは、彼が作った料理などを運んでくれる人間である。
ほかにも、野菜の泥を洗ったりする下働きが多いらしい。
こう言ったものは、ある程度の時間が過ぎてから来る人が多い。
何しろ朝の六時から、マンションの一階のブースに料理が並ぶためだ。
最初から手伝ってくれる人、なんてなかなかやってこない物なのだ。
絃はそこまで考えてから、ある事を思い付いた。
そして多分、自分が言い出すのを大鷺が待っている事も、そこからすぐに予測できた。
兄の手のひらの上で転がされているようで、面白くないのだが、自分に今必要なのは喰いぶちを稼ぐ仕事だ。
「大鷺、わたしを雇わない? 朝一番から」
妹の言葉に、やはり大鷺がにんまりと笑った。
「いつ言ってくれるのかと思って、待ってたよ。絃ちゃんなら、実際に技術見なくても、どこまでできるかわかってるしね。どうする、あいつに言って、ちゃんとした書類作ってもらう? このマンションがつぶれない限り、結構長期で見込める仕事だよ。いざとなったらその経験を生かして、何処かに転がり込めるし。確か絃ちゃん、調理師免許も持ってたよね」
「待ってたのかい」
「待ってたよ? 絃ちゃんが手伝ってくれたらな、って良く思ってた。少なくとも、出汁巻き卵は絃ちゃんの方がはるかにおいしいんだもの」
「大鷺の何かが間違ってるんだと思うけれども」
「間違ってないよーだ」
言った大鷺が、ひょいとおひつに入れられたご飯をよそった。
「さて、明日から早速手伝ってもらおうかな、容赦なくこき使うから、覚悟してね?」
あくる朝から、絃は大体四時ごろに起きだす日々が始まった。
ガス釜でご飯を山のように炊き、それをバイキング用のおひつにいれたり、魚が焼けたらそれもバットに移したり。
味噌汁は出来上がったらそれを、保温機械に入れたり。
なるほど、大鷺にとっては大事な仕事だが、大鷺一人では回らない仕事ばかりだった。
朝の四時から大鷺が調理以外の事もしていたとは、と思うと、最近の大鷺の腕に、力こぶが目立つようになったのも理解できた。
大鷺は、確かに作り立てがおいしいと思っているらしいが。
彼の計算した味噌汁などは、保温機械である程度暖め続けていても、十分おいしいものだった。
そして朝いちばんの準備があらかた終わったあたりの六時ごろから、人は押しかけてくるのだ。
そこからは怒涛の仕事の山である。足りない物を補充したり、食べ終わった食器を回収して食洗器に放り込んで置いたり。
面白いのは、いかにも和食、と言ったものが女性受けがいい事だった。
女性は華やかな物が好きな場合が多く、甘いパンなどに目が向きやすそうだったのだが。
減っていくものの割合で言えば、明らかに米と味噌汁などのヘリが早かった
そして、絃が補充で動いてくれている、という安心感からか、大鷺もこまめに少しずつ補充の料理を作っていく。
まさに出来立てに近い物が、マンションの住人に提供される事になっていた。
そして、あちこちから、
「やっぱりいつ来てもおいしいわ」
「時間がないから、食べられないと思っていたけれど、こうして作ってもらえるなんてありがたいわ」
「朝ごはんの時間だけでも余裕があるって、いいわね」
などという、家事育児に頑張っている女性の声が、ちらちら聞こえて来ていた。
男性諸君はと言えば、言葉なんて言わないで、もりもりと食べたいだけ食べて、出ていく。
「兄ちゃん今日もおいしかった、ごちそうさま!」
高校生や中学生までもが、ここを利用し、そして奥の厨房に声をかけてから学校に向かい始める。
色々な人間があふれかえる、朝食の時間であった。
さらに。
「あれだけ作ったのに、ほとんどなくなる物なんだ」
絃が驚いたのは、モーニングタイムが終わった後の片づけで、残飯がほとんどない事だった。
「最初の三日くらいは、様子見で結構残っちゃったけど、大体予測がつくようになったからね」
予測の分だけ作って、足りなくなったら補充するらしい。
大鷺が、二度目の朝ごはんを食べながら言っている。
絃も、十時までと決まっている朝ごはんの時間ののちに、かなりお腹が減っていたので大鷺と一緒に残りご飯を食べているわけだ。
「それにしても、自分で作るスムージーも多いんだね」
「ああ、野菜凍らせておいて、そこの冷凍庫から材料とってもらって、自分でミキサーにかけてもらうからね」
色々セルフを有効に使っているらしい。
「大体六個くらい代えの容器があれば、食洗器がフル稼働しているから、ミキサー使えないなんて起きないしね」
味噌汁をすすった大鷺が、顔をしかめた。
「水分飛び過ぎだ、味が濃い」
「いや、それでもおいしいと思うけれど」
「煮立たせない程度って温度調整なんだけど、難しいんだよ」
「へえ……」
そんな物なのか、と思っている絃の背後から、声がかけられた。
「ハルさん、このご飯貰ってっていい?」
「こっちの焼き魚も」
なんて、絃の後の時間から入ってきている、近所のおばさんたちが声をかけてくる。
「いいよ、好きなだけ持って行っちゃって」
「自分一人でご飯食べる時は、ここの残り物重宝するわよねー」
「味はかなりいいものね」
「時給ちょっと安いけど、これがある分得よねー。最近野菜高いし」




