お弁当を忘れると、お昼に困ります。
スープジャーで恋を煮る の十三部「波乱の男、登場!」から続いた話になっています。
作者が色々な縛りから解き放たれて、一番書きたいものをご都合主義満載でぶちこみます。
目標と合言葉は『霧島と絃が幸せになるほのぼのと鈍感』です!
この一話目では、霧島はあまり登場しません。
どたばたと駆け回る勢いであるが、パンプスで走るのは限度がある物だ。
絃はそれでも何とか、いつもの電車に間に合い、そこではっと我に返った。
「どうしよう、お弁当作ってなかった」
彼女の小さな独り言は、誰にも聞こえる事はない。
というのも周囲はイヤホンをつけていたり、新聞に熱中していたりと自分の事に、夢中になっているからだ。
「やってしまった」
絃は朝っぱらから思い切り、落ち込んだ。
寝すぎたのだろうか。それとも朝っぱらから、大鷺というあの男の、無駄においしすぎる料理でうっかり時間を、使い過ぎたか。
それともそれとも、意識の下でお弁当を作るのが面倒くさくなってしまったのか。
「いやそれはないはず……」
絃は頭を抱えそうになりながら、それはないと否定した。
そこでさらに記憶を手繰り、はっとする。
霧島が、家のインターホンを鳴らさなかったのだ。
そんな事は滅多にない。
出張がある時など、お弁当がいらない日は別なのだが、そうでなければ絃の家のインターホンを必ず、と言っていいほど彼は鳴らす。
彼女が作らないと、言わない限りは作り続けているのだから、当然である。
毎日鳴らされるインターホンを、絃は迷惑だと思った事などない。
それどころか、この人は本当に自分なんかの料理が好きなのだ、と思うと、嬉しい。
しかしただ一度も、彼に渡しに行った事のない受け身の自分であるのだが。
自分に連絡はなかった。
そして数日の事を思い返してみても、霧島が出張だの遠くに出かけるだのという話はなかった。
彼がインターホンを鳴らさない理由はない、はずだ。
ではどうして、彼は鳴らさなかったのだろうか。
ぐるぐると思考回路を回していっても、残念ながら彼女は彼ではないので理由など、分からなかった。
「たまには、出来合いのものの味の濃い物が食べたくなったとかかな……」
絃はそう言う可能性も、否定はできないだろうと思いながら、電車に揺られて、窓の景色を眺めていた。
揺れる世界は相変わらずの灰色の、ビルディングばかりになり始めている。
それを見ながら絃は、今日は厄日になるかもしれない、とうつうつとしそうになっていた。
「水島、今日はどうした」
課長が心底困惑した顔で、問いかけてくる。怒鳴られない分、いたたまれない部分が大きくなってしまう。
「すみません……」
絃は頭を下げた。数字の入力を打ち間違えてしまったのだ。
たった一つだったが、彼女にはめったにないミスだった。
彼女はタイピングだけは、周りに負けない素晴らしい物を持っていたのだから。
そして間違えない正確なタイピング、と周囲に評価されていた彼女は、そのせいで今日はやけに心配されてしまった。
いつもは怒鳴られてばかりだというのに、さすがに鬼の霍乱扱いである。
「急いで直します」
「昼休みは返上するなよ。お前食べないと顔色悪くなるんだからな」
「そうでしたか」
絃はいくつかの記憶を思い出し、そう言えば入社したての時に食事を抜き、カロリーが足りなくてひどい頭痛に襲われて、倒れかけた事を思い出した。
その時にそれを見ていたのは、ほかならぬこの部長だった。
「そうだそうだ。さっさと終わらせて、こっちのデータに取り掛かれ。お前の速度が一番速いし、ほかの奴らはちょっと出払いそうだからな」
言われて周囲を見回せば、彼ら彼女らは他の部署と連携をとるために、連絡を取っていたりファイリングをしていたりと、何やらずいぶんどたばたとしていた。
「何かありましたっけ」
「水島、せめて創業30周年の記念パーティの事は忘れてくれるなよ……基本的に社員の殆どが関わっている、一大イベントだからな?」
言われて数秒考えて、絃はあ、と思い出した。
これだから鳥頭はいけないのだ、と反省する。手帳にも書いておいたではないかと、また落ち込みそうになるも、慌てて持ち直した。
「お前は裏方の裏方のそのまた裏方だから、基本的に周囲の補佐になるが、お前の凡ミスで周囲に多大な迷惑をかけるんじゃないぞ」
びしりとくぎを刺された絃は、背筋を伸ばして返事をした。
「はい」
「その意気だ、さっさと終わらせて、ほかの奴らが憂いなく仕事を進められるようにしろ」
それがお前の仕事だ、ときっぱり言われた絃は、責任が重いかもしれない、と思いながらも内心で、驚いていた。
自分にもこんな事がまかされるようになるなんて、という意外な物だった。
急いで、正確に、皆のためになる仕事をしなければならない。
皆誰しも、仕事をいくつも掛け持ちしているが、やはり一大イベントの方の臨時の仕事は大変だろう。
自分がする事、それは彼ら彼女らが、無駄な事をしないようにする事、それだ。
絃は目薬を差して、データを睨み付けた。
睨み付け、手元に後付けのテンキーを引き寄せ、がたがたとデータを打ち直し、計算を訂正し、新たなデータを打ち込み始めた。彼女の元には、もしかしたら十人が束になってかかるような大量のデータが詰みあがり始めている。
「水島のブースターが付いた」
「データ系はあれで片付くだろ」
誰かがこそりとそう言って、課長がにやりと笑った。
「当たり前だ、誰が手塩にかけて育てたと思ってる」
「そーでしたね」
部長が苦笑いをした。彼女は偶然、課長がその地位に上がる前に入社してきた子で、課長がある意味教育係をしていたのだ。
「怒られて落ち込んでも、根にもったりする曲がった根性は持っていないからな。あいつは叩いた分だけ、ゆっくりだが着実に伸びる」
課長は小さく部長に言い、己も仕事に取り掛かり始めた。
ふっと意識が浮上したと思った絃は、データの山が半分近く片付いていたので、ふうっと息を吐きだした。
意識したとたんに、目の奥がジワリと痛んだのは、画面を見過ぎたからだろう。
何度か目を開閉させて、それから常備している目薬を差した。
目に潤いがいきわたったあたりで、時計を確認すれば昼休みの時間だ。
五分ほど過ぎているかもしれない。
「あー」
一息入れようと思った絃は、肩を回す。
ばきばきと妙な音が立つが、座り仕事なんてこんなものだ。
彼女は立ち上がり、背中を軽くのばした。
今日の昼ご飯は何にしよう、といまさらのように考える。
お弁当は作り忘れてしまった。
だから社食か、周辺のランチか、それともコンビニ飯か。
どれでもそこまで問題は、ない。
最近は外食のような物をほとんど、していないのだ。
存外食費は少なくなったから、今日何か買って食べても問題は発生しない。
以前給料日前に、お金がないとぼやいた事があったのだが、それもないのだ。
と考えると。
絃はいくつか候補を並べていく。
社食で何か食べようか、と考えた後に、数日前の事を思い出した。
女性陣に囲まれて、なんだかんだと言われて、脅されて無理強いをされた事だ。
社食はまだ、危険かもしれない。ぐるりと考えて、ある事まで思い出す。
「霧島さんのお弁当、もう作らない方がいいんだ」
たしか小曽戸が、これから自分が作ると断言していたっけ。
ならばこれから、彼にお弁当を提供するのは小曽戸の役割となるだろう。
時折休憩室で、彼とお弁当を囲むのも、自分ではなくなる。
そして、彼の分まで作ってしまったら、なんだかしつこくて未練がましい、そう受け取られかねない。
だったら、何か向こうからアクションがあるまで、霧島のお弁当系は作らない方が無難だ。
少し寂しいかもしれない、と思ったのは事実だが、女性の嫉妬は目に見えない狂気であり凶器だ。
そんな物を多数の方向から、大量に向けられてしまったら、おそらく自分は耐えきれないと判断する程度には、自分という物が見えている、絃であった。
そうすると、あと候補として挙げられるのは周辺のお店のランチと、コンビニ飯だ。
「そうだ」
彼女は携帯を開き、何とはなしに周辺の地図を開いた。
夜のワイドショーだっただろうか。
そこで、移動店舗のおいしいランチという物の特集をしていた。
このあたりは会社も多いし、交通量も多い。
更にその他様々な条件が重なっているので、そういう移動店舗がいやすいのだ。
なんか住所がこのあたりだったような……と記憶を探り、それっぽい店舗の位置情報があるのを見る。
「物は試しかな」
小さく呟いた彼女は身軽に財布を小さなバッグに放り込み、一度会社を出てその、特集に会ったような店を目指して歩き出した。
割と繁盛しているんだな、なんて軽い気持ちで、絃はその幾つも並んだ移動店舗を見渡した。
各々立て看板や、店舗の側面にメニューを書いている。
そのメニューから予想できる食べ物があれば、予想できない食べ物もいくつか存在していた。
絃はおいしい物が好きなのだが、そこまで完璧に料理の名前に詳しいわけではない。
そのため、羅列されているカタカナから、絶対に何かを推測できるかと言われてしまえば、首を横に振るしかない。
どこにしようかな。
しかしそれでも、香ばしい匂いや煙、そして呼びかけてくる店員たちなどに心が弾まないかと言えば、否である。
どれがいいかな、と絃は少し迷ったのだが、やはりじゅうじゅうと存在を主張する、匂いを目指した。
その匂いとは簡単だ。
「ハンバーガーなんて久しぶりだ」
そう、ハンバーガーだった。
メニューは決まっているのだろうか。フードトラックの前に来た絃は、ぐいと幾つも書かれているカスタムの中身に、すごい、サンドイッチ専門店みたいと感心した。
最近のハンバーガーはこんなに、進歩しているのか。
なんて思うと歳を取ったのか、流行にうとくなったのか微妙な気分だったが。
「基本は何なんですか」
「こちらの、バンズにシンプルにパティを挟んで、ソースはケチャップですね! それに好きな野菜とかを組み合わせて、お肉を足したりするんですよ」
こちらが追加料金のかかるものです、と元気のいいお兄ちゃんが教えてくれる。
絃はまじまじとメニューを見て、口を開いた。
「では全粒粉バンズに玉ねぎとレタスとトマトとそれからケール追加で。味付けはマヨネーズとケチャップ、それからいっそチーズも」
「お肉は追加しますか? いま焼きたてですよ」
「……」
絃は数瞬黙ってから、重々しく頷いた。
「一枚追加でお願いします」
「ドリンクは?」
「いりません」
「はい、基本料金500円に追加料金を全部で150円ですね。お会計650円です」
直ぐに用意しますね、と朗らかに言ったお兄ちゃんが、見事な手つきでハンバーガーを作っていく。
「ソース多めですか?」
「多めで」
「かしこまりました!」
そうして出来上がったハンバーガーを受け取り、小銭があったので揃えて出す。
それから空を見上げた彼女は、そろそろ日差しが強すぎて、外で食べたくなくなる季節だ、今日をその区切りにしようと決めた。
幸いテーブルは幾つもあるので、そこの一つに座り、包みを開く。
それから、服などに決してつかないように、慎重にしかし大胆に、口を開けて食べ始めた。
バンズは意外としっかりとした物だ。ふわふわを重視していないのか、噛みしめるとその分麦の甘い匂いを感じる。かすかというには主張が強い麦の味と、けちられていないレタスのみずみずしいしゃっきり、とした歯ごたえにかすかな塩分、トマトは熟したものを使っているのだろう。濃厚なうまみと呼ぶべき塩気と甘みと酸味が混ざり、レタスの歯ごたえを邪魔しない具合の柔らかさである。
玉ねぎは手間をかけて下ごしらえをしているのか、手抜きのものだと感じやすい苦みや辛みをそこまで感じない。辛みの抜け具合が程よく、味のなかでぴりぴりとしたさっぱり感をかもしている。
それから驚くべきはそのビーフパティだった。
そこまで期待していなかったパティは、絃の中のハンバーガーパティを覆す味である。
近年もてはやされている、柔らかい、肉汁がたっぷりというものに、若干喧嘩を売るものだ。
柔らかいとは言えない弾力と、程よい肉汁。
肉にこだわりが無かったらやれないだろうし、これはもしかしたらひき肉ではなく、何処かの固い肉を入念に叩いて作ったパティなのかもしれない。
ハンバーガーの肉は肉汁が多すぎると、紙に滴ったり吹き出たりして、女性は食べにくいものだ。そして肉汁が熱すぎて、火傷しそうになる場合もある。
その点この肉は、過剰な肉汁がないのでそう言う心配がいらない。
そうして。
「たぶんこのケチャップとマヨネーズ、自家製……」
絃は若干酸味の強いケチャップと、市販のものに比べると濃厚で若干甘いマヨネーズを分析した。
幾つも幾つも、重なったハンバーガーは信じられない位に、美味しいと思うハンバーガーだった。
味にうるさいと定評がある居候にも、食べさせてみてもいいと感じるものだった。
久しぶりに、値段に吊りあうランチを食べたと思った絃は立ち上がった。
もう一回店を見やり、スマホで店舗をぱしゃりと撮影する。
この店の名前を覚えておけば、外装が変わっても見つけられるからだった。