溶ける者
気付けばクリオネになってから長い年月が経ってしまった。こんなはずじゃなかった。早く見つけなくては。
最近リオさんちょっとおかしいよと声をかけたのはクラゲのゼフだ。ついこの間に長と遊戯をした新参で、いわゆる2代目だ。記憶を取り戻せないまま溶けた者は、もう戻ってこないはずなのに、ゼフは少し前回のクラゲに似ている。クラゲに関わらず、同じ種になる者は性格が似ているのかもしれない。私が溶けた後の次のクリオネは私に似ているのだろうか。
ゼフになんと返したのかは覚えていない。
ふよふよと移動していると、いつの間にか街の外れに来てしまっていた。この辺りはクルムモルンの群生地になっている。もこもことした手触りが特徴のサンゴだ。一休みしようと下りると、見慣れたヒトデがいた。そういえばここは前回のクラゲが溶けた場所だ。
「やあリオ。最近見なかったけどどうしたの?」
いつも通り能天気な声色で尋ねるヒトデが、実は人一倍聡明なのを知っているのはこの街にどれくらいいるだろう。
「溶けた後、どうなると思う」
質問に答えずに返した言葉は自分でも繋がりが見えないと思ったが、賢い友人は口外の意味を察したらしい。
「……そうだなあ。案外どこか別の場所で楽しく暮らせるのかもしれないね。そもそも、記憶とやらが本当に取り戻せるのかも分からないし、取り戻した後も、溶けた後と同じようにどうなるか分からない。あまり気にしない方がいいと思うけど?」
「そうか」
「でもリオは記憶が欲しいみたい」
「自分の知らない自分があるなんて、気分が悪い」
「そうかもね」
あっはっはーと笑うヒトデを放って次の場所へ向かう。去り間際に「水と記憶の加護がありますように!」と聞こえた。いつもは何も感じないただの別れの言葉だが、記憶なんて信じないと言っていたヒトデ自身が記憶に加護を頼るのかと思うと少し笑えた。もっとも本人、本ヒトデは何も考えていないだろうが。
街に戻ろうと移動していると、巨大な水の流れに飲み込まれそうになった。この地域の主、長と呼ばれているジンベエザメだ。
『大丈夫か』
「問題ありません。……なんです?」
普段はそのまま去って行く長がこちらをじっと見ていた。
『お前は……そろそろなのか』
「そうらしいです。……ひとつお聞きしても?」
不思議と焦りは消えていた。諦めにも似た清々しさが心のどこかに現れ始めている。
『落ち着く場所に移動しよう。乗れ』
広い背に捕まるとゆらりと景色が動き出した。遠目から見ていると結構なスピードで泳いでいるように見えるが、実際はそこまでの速さは出ていないようだ。私が戻るはずだった街は点となり消えて、クルムモルンも遠い彼方へ流れていった。
着いたのはこの世界の端と噂される谷の前だった。谷と言っても向こう側は見えない。ここまで来れるのは長のような大型の者でも数少ないと聞く。谷の吸い込まれそうな深い青に目が眩みそうになる。
「なぜここに?」
谷を覗き込むのをやめてこんなところまで連れて来た張本人へ尋ねる。
『ここが果てだからだ。溶けた者や記憶を取り戻した者、2代目も、その次も、すべてが生まれそして帰る場所だからだ。憶測も混じっているが』
「どういう意味です?」
『聞きたい事とはなんだ』
長は一度目を伏せて質問に質問で返した。腹は立たなかった。
「記憶とは何ですか」
『……我が新しい者が来る度にひとつの遊戯をしている事は知っていると思うが』
「……しりとり、ですね」
『そうだな。お前としたのはもう随分と昔の事になるが。あの試合は白熱した』
くつくつと笑われ少し照れくさくなる。まだ若かったのだ。先を促すと笑うのをやめて再び話し出す。
『そうしたしりとりの中で、ここに来る前の知識までは消えていないことがわかって来た。皆が皆同じ場所から来たわけではない事も。お前が話した地名を他の者達とのしりとりで使っても、理解ができていないようだった。聞いたことがないと言う。反対に、知っている者もいた。クルムモルンにいたヒトデもそのうちの一人だ。おそらく同じ場所から来たのだろう』
長が話すごとに何故かは分からないが行き場のない不安がこみ上げる。だが、それを無視できるほどに好奇心が勝っていた。
『何故、知識があるのに記憶がないのだろうと考えた。そもそも知識と記憶は同じものではないのか。考えれば考えるほどに深みにはまっていく気がした。……我はこの谷に目をつけた。この谷以外に何かがありそうな場所は他になかった。この一帯は街があるだけの、驚く程閉鎖された空間だった。それまで気がつかなかったことがおかしいくらいに。……そして、度々足を運んでは調査をしている』
長は一旦言葉を切った。私はまだ長の言葉を消化しきれていなかった。知識と記憶。あやふやな概念同士がぶつかり合う状況に、頭がおかしくなりそうだった。
さっき長は皆が皆同じ場所から来ているわけではないと言っていた。つまり、長と私も違う場所から来た可能性が高い。それなのに言葉は通じているし、言葉の指す意味も通じている。長の考える「記憶」と私の考える「記憶」の言葉の意味は同じだ。そういえば、私はここに来て始めてクルムモルンというものを知った。私が持っていた記憶にクルムモルンは無かったのだ。
続けてもいいかと聞かれてどうぞと返す。
『そして、ひとり溶けた。丁度その時我はここにいた。それが溶けたのを知ったのは街に戻ってからだった。だが、何かが起きたというのは分かった。谷から気泡が出て来ていたからだ。そんな事は初めてだった。気泡の数はだんだんと増えていき、目の前が真っ白になるくらいになった。少しして気泡が無くなった後、新しい者が生まれた。2代目だった。溶けた者は記憶を取り戻していなかったらしい。……この間、クラゲが溶けただろう。その時も同じようにここから気泡が出た』
「記憶を取り戻した者はどうなるんです」
声が震えた気がした。
『残念ながら我はまだ記憶を取り戻した者に会ったことがない。故に我にも分からない。だが、予想するなら気泡は出るが次の代が生まれないといったところか』
「そうですか……」
『ここにお前を連れて来たのには訳がある』
嫌な予感というものは結構な割合で当たるらしい。
『この谷の底に向かってほしい』
◆
下っていくにつれて体が薄くなっていくのが分かる。溶け始めているのだ。まるで捨て駒のようだが不満はない。どうせ溶けるのなら、少しでも役に立って溶けた方がいい。ただ、これでは谷の底に着いても戻る前に溶けきってしまうと苦笑いを零す。また気泡が出るのだろうか。次のクリオネはどういう奴だろう。
さいご、溶けきるさいごに、暖かい家庭が見えた。私の、記憶。こんな最後に見つけても遅いと思った。だが後でそこに戻るという確信に近いものもあった。
あの水の世界は、ただの箱庭だったのではないだろうか。いくつもの世界を跨いだ、想像と、知識と、記憶でつくられた箱庭。気付いてしまえば戻れない。溶けるのは、時間が来た合図なのだ。
もっとも、伝える術は無いのだが。
お読みいただきありがとうございました。