とこしえに
一歳上の幼馴染は、今日大学を卒業する。来月からは晴れて、警察に所属する。今までは、登下校を共にしたり、部活に励む様子を見たりと、会う機会が多かった。けれど、それも今日で最後。
卒業式を終え、彼に呼び出された。いつもなら、一緒に帰ろうというメッセージが来るはずなのに。屋上に来て、とだけ書かれている。特別な日の呼び出しに、胸がざわつく。熱湯に浸かるように、全身が熱くなる。
「付き合ってほしい」
「ごめんなさい」
頭を下げ、彼を見ないようにした。高揚しているのに、心は嬉しいと叫んでいるのに、断った。
「……どうして?」
「怖いの」
彼には、何度も悩まされた。高所の物を代わりに取ってくれたり、逞しい筋肉がちらりと見えたり、満面の笑みを見せてくれたり、頭を撫でてくれたり。ちょっした仕草をされるたびに、心をかき乱される。だからこそ、恐れていることがある。
「死に別れることが、怖いの」
この国の平均寿命は、性別によって大きく異なる。男性は平均八十五歳に対し、女性は五百二十八歳。事故にでも遭わない限り、男性の約6倍も長生きする。つまり、男性は女性よりも短命。結婚ともなれば、女性が男性の最後を看取るケースが殆どだ。
「死に別れても、君は新しい男性を見つければいい」
この国では、それが常識だ。夫が亡くなれば、新しい男性を見つける。多くの女性は亡くなるまでに、十回以上は結婚するのだ。
「そうじゃない……」
私は、両親を強盗事件で亡くした。だから、大切な人を失う悲しみを、誰よりも知っているつもりだ。それは、時間が経てば解決するものじゃない。その悲しみは、新たに大切な人を作って過ごしても、埋まらない。少なくとも、私の場合は。
「もう、苦しみたくないの……」
大切な人ができれば、いつかはその人との別れを味わわなければならない。彼の職業柄と、この国の平均寿命からして、私は彼の最後を看取る可能性が高い。もう、これ以上の悲しみを背負って生きることはしたくない。
「確かに、君より早く死ぬかもしれない。でも、僕だって怖いよ。君を失うことを考えたら」
事実、私の母親は事件で死亡した。だから、彼より早く亡くなることだって十分にあり得る。
「でも、そのことばかりを考えながら過ごして、つらくなかったか?」
「うん」
「じゃあ、寂しくなかったか?」
「……うん」
嘘だ。学校の行事などで、友人の親が来校する姿を見るたびに、空虚感に苛まれていた。人恋しく思うことなんか、数え切れないほどあった。
「そうか……」
彼が、私の両手を大きな掌で包み込む。
「残酷だけれど、人間生きていれば、別れの時は必ず訪れる。だから、死別の悲しみは避けられないと思うんだ。でも、それまでの過ごし方は自由だ。どうせなら僕は、好きな人と共に、とことん楽しく過ごしたいと考えてる」
真剣な眼差しが、私に向けられる。
「だから、もし僕を好きだとか、付き合ってもいいと思ってくれるなら」
その瞳に、吸い込まれそうになる。
「付き合ってほしい」
私も、彼を好きだ。彼と一緒に過ごせるなら、幸せになれると思う。もし、彼の告白を断ったとしても、彼との死別は避けられない。それなら、彼の恋人として、互いに楽しく生きられたらいいと思う。だから、
「……お願いします」
彼は緊張していたのか、顔を緩ませた。そして、頭を下げる。
「ありがとう」
「うん」
私を引き寄せたと思えば、大きな胸板に顔を埋められた。背中に腕を回され、がっしりと抱きしめられる。
私たちは結婚し、子供が生まれた。彼は四十歳で、私は三十九歳。子供は今年で、三歳を迎える。忙しいけれど、幸せだと思える毎日を過ごしていた。そして、念願のマイホームをローンで購入し、引っ越した翌日。ゴミを外に出しに行った。
「あら、貴方一人目?」
近所のお姉さんに声を掛けられた。と言っても、何年生きているのかは外見から見当がつきにくい。この国の女性は十八歳を超えると、身体の成長が著しく遅くなるからだ。
「一人目です」
それは、夫の人数だ。不躾な質問ではあるが、女性は夫の人数を競い合い、自分より少ないと優越感に浸ることがある。自分のほうが経験豊富で年長者なのだ、と。この人は、その典型的な例だ。
「あらそう。貴方、若いものね」
この世に生まれてから、三十九年経っている。けれど、肉体的な年齢は十八歳だ。つまり、誕生日を迎えるたびに、外見に関して言えば彼だけが年をとっていく。だから男性は、妻との外見の差に負い目を感じることが多いらしい。
「ここだけの話……そろそろ、二人目を考えているの?」
「いえ、考えられません」
「あら、だって旦那さん、40代でしょう? 私だったら、次の旦那さんを捜すわ」
「すみません、子供が待っているので……失礼します」
お姉さんの会話から、逃れるように家に入る。すると、玄関で靴を履いていた彼と目が合う。
「ゴミ出し、僕がするのに」
「ううん、大丈夫。今日も気を付けてね」
「うん、早めに帰れるように頑張るよ」
彼は、私の頭を撫でる。彼が傍にいると実感できる、この時が幸せだ。
「……パパ、もう行くの?」
「うん、行ってくるね。ちゃんといい子にしてるんだよ」
「うん! 行ってらっさーい」
子供と一緒に見送り、私は幼稚園の準備を始めた。
「ママ、お腹おっきくなったね」
「ね。妹か弟、どっちが生まれてくるかな」
「あたし、弟がいいー!」
「そっかあ」
大きなお腹には、彼との子供がいる。性別はまだ分からないが、正直、女の子がいいと願っている。男の子なら、親より子供が先に死ぬ可能性が高いからだ。そんなのきっと、耐えられないと思う。一度考えると、止まらないのが私の悪い癖で。あのお姉さんの話を思い出し、気分が悪くなる。
二人目の旦那なんて、考えられない。私には、彼だけだ。けれど、正直に話せば非常識扱いされるのが目に見えている。この家で過ごしていくなら、多少の協調性も必要なのだと、自分に言い聞かせた。
それから三十年が経った。彼は七十歳で、私は六十九歳。長女は三十三歳、長男は三十歳を迎えていた。けれど、私の肉体年齢は十九歳、長女は十八歳と、生きた年齢にそぐわない。この年になると、彼は私とのデートを遠慮するようになった。外見の差が、彼を億劫に変えた。
「すまない、いろいろと」
「なんで? 夫婦なんだから、迷惑だなんて思ってないよ」
私は、彼に告白された当時と変わらない。けれど、彼は白髪を生やし、定年退職し、今は歩くのに介護が要る。
「もう、新しい男性を――」
「その話はしないでって言ってるでしょ」
「でも……」
「私は、あなたが好きなの。あなたは、私にとって最初で最後の旦那さんだから」
それは、胸を張って言えることだ。ずっと、彼だけを愛すると決めたから。彼と同じくらい愛せる人は、子供以外に存在しない。今までも、これからも。
「……僕は、幸せ者だね」
「あなただけじゃない、私もよ」
彼の頬に、口づけをした。こうやって触れられる時が、幸せだ。それを噛みしめながら、毎日を大切に過ごしていた。そして、別れの時は唐突に来る。
病で亡くなった、彼の身体は冷えている。あの時の温かみはもう、感じられない。私は、彼が体温を取り戻すようにと手を握る。けれど、私の手が冷たくなるばかりで。両親を亡くした時のように、どうしようもない悲しみに暮れる。
私は狼狽えるばかりで、ずっと泣くことしかできなかった。そんな私を、娘が隣で支えてくれる。息子は喪主となり、主体的に葬儀の手続きなどを行ってくれた。
葬儀は、家族葬の形式で行った。けれど、彼の親戚が参列したいと言い、彼らも遠くから来てくれた。葬儀は順調に進み、火葬場で彼が焼かれるのを待つ間。休憩室で、彼の親戚のおばさんたちに声をかけられた。
「大変だったわね」
「いえ、そんなことありません」
大変だなんて、考えたことはない。確かに、彼の介護は体力的に疲れたことはあるけれど、そこまで苦痛に思ったことはない。むしろ、最後まで傍に居られて幸せだった。
「けど、なんで最後まで彼といたの?」
「そうよ、二人目の旦那は? 貴方、若いんだから幾らでも見つかったでしょうよ」
「でも、彼が亡くなったのだから、ようやく第二の人生を過ごせるわね」
彼女たちは、私を慰めるために言ったんだと思う。けれど、
「私には、第二の人生なんてありません!」
つい、怒鳴ってしまった。だって私は、彼を愛している。そして生涯、彼を愛する。再婚が常識の世の中だけれど、私にとってはあり得ない。私の人生は一つで、そこには彼と子供たちがいる。第二や第三なんてない。
葬儀が済み、お仏壇に彼の遺影が飾られた。もう、あの時のように触れられないことが、こんなにも悲しいなんて。両親を亡くして以来、久しぶりに味わった感覚だ。彼の好物をお供えし、線香をあげると、自然と涙が溢れてくる。
「……あのとき、告白してくれてありがとう」
彼の返事はない。それは当たり前のことで。分かっているけれど、どうしても声が聴きたくて。
「あれから今まで、楽しかった。とっても幸せだった」
彼に向かって、話しかけ続ける。今、何処にいるのだろうか。
「あと、残してくれてありがとう。私たちにとって、かけがえのない宝物を」
娘と息子が生まれたのも、彼がいたからだ。彼が働いて、私たちを養ってくれたから、今がある。
「ずっと、愛しているから」
この気持ちは、変わらない。平均寿命を迎えるまで、四百五十五年もあるけれど。いや、私が死んでも変わらない。
「とこしえに」