名砿の章 3
闘規は、旺州地方の蹴術とほぼ同じである。拳と蹴りを打ち合う競技だ。細かな部分での相違はあるが、べつの競技というほどの大きなちがいはない。
では、細かな相違点をあげてみると、まず肘打ちがあげられる。旺州諸国――ここではもっとも盛んで、一般的な闘規を採用しているオルダーンと比較してみることにするが、オルダーンでも『肘あり』の闘規で試合はおこなわれている。しかし、必ず「あり」というわけではない。禁止している試合のほうが多い。
その理由は、以前に述べたとおり――負傷してしまう頻度が増えるからだ。眼のまわりやこめかみが切れて、出血する。それで試合が止められる。興行的にも、そういう試合が多いのは困る。だからほとんどの試合で禁止されている。あまり怪我をしないですむ軽量級の試合か、ムサンマ流の技を得意にしている選手を活かすため、稀に「あり」となっているだけだ。
ムマでは、肘での攻撃は、なくてはならない……削ることのできない重要な要素の一つなのだ。
それには、体格の差が関係している。
旺州の選手とムマの選手では、平均的な身体の大きさがちがう。旺州の蹴術――いや、体重別制をもちいているすべての競技は、ほぼ九つにわかれている。ムサンマも同じく九つの階級だ。
たとえば、シャイは旺州では、ちょうど真ん中の『ルースン級』なのだが、それをムマの階級に当てはめてみると、真ん中から一つ上、上から数えると四番目の階級ということになる。ムマでは軽い階級が一つ多くて、重い階級が一つ少ないというわけだ。
つまり、ムマの闘者の平均体重が、旺州よりも軽い。階級が上がれば上がるほど選手も少なく、一番上の階級にいたっては、ほとんど選手がいないらしい。つまり肘打ちを「あり」にしても、怪我をする頻度が少ないということなのだ。
そのほかの相違点としては、拳よりも、蹴りを重んじるということだろうか。ムサンマの闘者は、拳での殴打を多用しない。あくまでも蹴りを連続で放っていく。蹴りと蹴りのあいだのつなぎ技として、または、蹴りを放つには距離が近すぎるときに、拳を使う。
判定までもつれ込んだときにも、拳での打撃はあまり評価されない。蹴りでの有効打が多いほうに、高い点がつけられる。
そして膝の使いどころも、ムサンマの特異点の一つだろう。もしかしたら、これが旺州蹴術との最大のちがいかもしれない。相手との接近時には、必ずといっていいほど、膝を打ち込む。拳での攻撃よりも多いほどだ。
さらに『首獲』という攻撃法がある。これは、相手との接近時に相手の首や肩、もしくは背中を両腕で包み込むようにしてつかみ、密着した状態で膝を当てるという攻撃法だ。密着しているために、直接的な打撃は望めないが、対戦者のわき腹や、腿の外側を削るように当てる。これで倒れるということはまずありえないが、相手の体力を消耗させるには効果的だ。判定での有効点にもつながる。
旺州蹴術では、相手に接近しすぎると、すぐ審判によって『イグナス』が宣告される。そうなれば、離れるしかない。ムサンマではそこからさきに、真髄があるのだ。
シャイは一試合観ただけで、ムサンマの特徴をつかんでいた。
つかんだと同時に、その恐ろしさも感じ取っていた。
最初は、たいしたことはない――と、正直そう思った。たしかに膝蹴りの数や、蹴りの美しさに眼を奪われたのも事実だ。蹴るときの角度が独特で、相手の顔面にロブ・パーサが決まったときなどは、自分もあんなふうに蹴れたら、と願望を胸に抱いた。しかし、わざわざこんな島国にやって来るまでの感動とは、ほど遠かった。それが戦慄に変わったのは、試合が進むにつれてだ。
ゆるやかにはじまった試合が、時間とともに激しく、激しく、限界を知らずに激しくなりつづけた。あとで知ったことだが、ムサンマは序盤をおさえて、終盤に盛り上げる傾向にあるという。
ムサンマも、サルジャークのナーダ聖技場と同じように、賭をおこなっている。だが、ナーダでは試合開始までで賭を締め切ってしまうところを、ムサンマでは試合中も賭が継続されている。客は、試合の展開を見守りながら、どちらに賭けるかを決める。選手たちは試合に勝つことだけでなく、賭を盛り上げる演出もしなければならない。その性質上、ムサンマの選手は、原則的に『レック勝ち』は狙わない。
オルダーンのように、有効点を獲る技術だけに執着し、相手を打ち倒すことに退化した結果ではない。ちがう理由で、判定にもちこむのだ。彼らは、やろうと思えば、やれるだろう。そういう人間同士が、そういう闘い方をわざとやらない。
背筋が、ゾクリ、とした。
恐怖の悪寒だけではなかった。
その背筋を駆け抜けた感情は――。
喜!?
嬉しいのか!?
胸の高鳴りをおさえきれるかどうか、不安になった。こんなものを観つづけていたら、身体が勝手に反応して、どこのだれともわからない……たとえば、となりで観戦している客にでも殴りかかってしまいそうだ。
ああいうふうに美しく、それでいて峻烈に自分は蹴ることができるだろうか?
それを確かめてしまいそうだ。
鋭い膝の一撃をみせつけられて、あの《炎鷲》の膝打ちを思い出した。彼も、このムサンマの猛者と闘ったことがあるのだろうか。
そうだ、独特の角度で蹴りこむ、ロブ・パーサ!
《炎鷲》の、あのときの蹴りだ!
シャイは食い入るように試合を観つづけた。いつのまにか、数試合が消化されていた。結果など覚えていない。どちらの闘者が勝とうが負けようが、どうでもよかった。賭けているわけでもないし、だいたい「どちらの闘者」といったところで、ムマ語の発音はわかりづらく、闘者の名前すらわかっていなかったのだ。
試合を観ているだけでよかった。
結果ではなく、闘い自体に意味がある。
かなりの時間が経過しても、興奮は持続していた。
それどころか、どんどんと闘いに引き込まれていった。
それもそうだ。次の試合、そのまた次の試合……進むにつれて、より格上の闘者が登場してくるのだから――。
それは、シャイが観はじめてから、何試合めだったのだろうか。もう、夜になっていた。あと少しで、その日の興行も終了のはずだった。
場内がざわめいている。
それまでとは、あきらかにちがう客の反応だった。
「《狂犬》のご入場さ」
声をかけてきたのは、シャイよりもいくつか年上の青年だった。事態をのみこめずに、場内をあちこち見回していたシャイをみかねたのだろう。
優雅な気品を従えてはいたが、旺州貴族という感じではなさそうだった。肌の色からすると、オザグーンかテメトゥースに住むお金持ち、といったところか。
「あれが?」
闘場では逞しき褐色の戦士が、すでに臨戦態勢をととのえていた。
「ムサンマでは相手を倒すことは狙わないのだがね、あの《狂犬》だけはちがうよ」
どうやらこの青年は、シャイのように、はじめてムサンマを観戦に来たというわけではなさそうだった。
「だから、上からは嫌われてる。本来なら、とっくに王者になっててもいいはずさ」
「どういうことだ?」
「ムサンマを取り仕切ってる連中から嫌われたら、たとえ実力があろうと、一番にはなれないということだよ。それが立ち技最強にふさわしい姿かどうかは疑問だがね」
青年は、さわやかに皮肉を口にしていた。
「まあ、みていてくれ。いずれ、そんなくだらないものを排除した舞台を創り出して、彼らをそこに上げてみせる」
「あんたは?」
「ただの観客さ」
対戦相手は《狂犬》よりも長身だったが、筋肉の逞しさは劣っていた。肌の褐色にも艶はない。
「セドゥルディック級は、ムサマンでは重量級の部類に入る。旺州基準でいえばエレーダ級と同階級だ。真ん中よりも一つ上……旺州では、もっとも選手層が厚い階級になる。だが、このムマでは重い選手は少なくてね。どちらかといえば、おざなりにされている階級なんだよ」
青年の解説に、シャイは黙って耳を傾けていた。
「この階級で《狂犬》のように均整のとれた肉体をもつ闘者はめずらしい。普通なら、もう片方の選手のように、不格好になってしまうものなんだ。筋肉質だが、背が低い。もしくは、あのように長身だが痩せている、というふうにね。ま、この勝敗、やるまえから決まっている」
そして、付け足すように、
「観に来てる客も、この試合に限っては、賭けが目的ではないのだがね」
と言った。
そこで、試合がはじまった。
これまでの数試合で、ムサンマの選手が、大きく二つの形に分類できることをシャイは発見していた。
それは蹴りを見れば、おおよそ判断できた。
一つは、左右両方の脚で蹴りを放つ、いわば技巧派。こちらは、独特の角度で美しい蹴りを放ち、その蹴る位置も、上中下、ロブ・スクル・アーマを見事に打ちわける。
もう一つは、利き足だけでしか蹴らない、力押しの選手だ。蹴る位置も、スクル――わき腹や肋骨付近しか狙わない。
シャイが好きなのは、前者の技巧派ということになる。だが、注目の《狂犬》は後者の力押し型だ。
試合は、すぐに決着をみた。
《狂犬》のスクル・パーサが、破壊を目的としたかのように、長身闘者のわき腹に襲いかかっていた。腕で防御したが、それを無視して《狂犬》はスクルを蹴りこんでいく。何発かののち、その防御した腕ごと、わき腹を砕いていた。
倒れた長身闘者が、起き上がることはなかった。
「おや、お気に召さなかったようだね」
「……」
シャイは青年の問いかけに答えなかった。
いまの鮮烈な『レック勝ち』に意識を奪われていた。お気に召さなかった、と言われたのだから、あまりいい表情はしていなかったのだろう。たしかに、このときの心境は、衝撃と悔しさが入り混じった複雑なものだった。
悔しさとは、力で押してくる闘者に対しては、ナーダ聖技場で剣術の王者だった時代から、友好的な感情を抱いていなかったからだ。闘いとは、技と技のぶつかり合いのはずだ。それを力だけで強引にもっていくなど、ごろつきの喧嘩とかわらない。
そこで、ハッとした。
オルダーンを去るまえに《炎鷲》が言っていた台詞だ。
『いつから格闘とは、技術の品評会になったんだ?』
頭頂から足の指先まで……すべての神経が張り詰めた。
オレは、まちがっている!?
闘場の真ん中では、《狂犬》が誇らしげに立ちはだかっていた。
まるで、シャイに闘いを挑んでいるかのように!
「まだだよ。彼のための劇場は、まだ終幕ではない」
そんな青年の言葉で、シャイはわれを取り戻した。青年が語るように《狂犬》が主役の劇には、まだ続きがあるようだ。
新たな闘者が入場してきた。
《狂犬》は、そのまま動かない。
「次の試合が、本番だよ」
「二試合ぶっ続けか!?」
「上から嫌われてると言っただろう。彼の試合では、賭けは成立しない。そのかわり、こういう曲芸のようなことをやって、このあとの試合のために、客を寄せておくのだよ」
「どうせ、また弱いヤツだろ?」
「いや」
意味深な笑みをたたえて、青年はシャイの顔を覗き込んだ。
「ついでに教えておくと、さきほどの対戦者も弱くはなかった」
「……」
覗き込んできた青年の顔を、シャイはしばらく睨んだが、なにかを振り払うかのように、瞳を闘場へ戻した。
まるで、自分の眼で確かめてやる――と言わんばかりに。
「だが、安心していい。この相手は、さきほどとはケタがちがう。すぐに終わるようなことはない」
「……? 小さくないか!?」
シャイは観たままの感想を口にしていた。
「そう。階級が二つちがう。ここではちょうど真ん中の階級だよ。ちなみに、ムマではこの階級『ソンウッド』と、その一つ下『シークンチー級』が、もっとも競技人口が多い。旺州基準でいうところの、フィナー級とスラン級だ」
青年の説明も上の空、シャイは《狂犬》と対戦する闘者のことを凝視していた。
「心配ない」
青年は言った。
「なぜなら、彼こそが現ソンウッド級王者、サワルディン・ミッソンチョーク――《風の使い》と呼ばれる最強の男だからだ」
「《風の使い》……?」
「《狂犬》ですら、彼との闘いをごねてたほどだ。いかに二つ階級がちがうからといって、この勝負、どう転ぶかわからない。キミもついてるね。こういう日に来たんだから」
そこで、シャイたちが観ている区域に、大声をがなりたてている薄汚い服装の男がやって来た。
「どうだい、賭けねえか!?」
何事かと、呆然とした様子のシャイに、その薄汚い男が声をかけてきた。
「汚いなりだが、賭の取扱者だ。サワルディンに賭けないか、と訊いている」
耳元で、青年が助言してくれた。
「みんな《狂犬》に賭けるから成立しないんだよ、この賭けは」
「なんでだ? この勝負はわからないんじゃないのか?」
「それは、私だけの意見だ。ほかの人間はそう思っちゃいない。身体の大きなほうが勝つに決まってる、みんなそう信じてる。それに《狂犬》のレックを毎回、目の当たりにしてるんだからな」
「どうするよ、賭けるんなら、はやくしてくれよ! トーチャイの試合だけは、はじまるまでで締め切りだ!」
急かすように、男は言った。
「地元の人間は、みな《狂犬》に賭ける。事情を知らない観光客に損をさせようってわけだ。べつに《狂犬》に賭けたっていい。だがそれで《狂犬》が勝った場合は、ほとんど元金が戻るだけだろうな、いまの賭率じゃ。逆にサワルディンに賭けて、サワルディンが勝てば大儲けできる。それをあてにして賭けるヤツもいるだろう。つまり、サワルディンに賭ける人間は、そういう一獲千金を狙うヤツか素人の観光客か、ということだ。賭金は、ここの連中にならそれなりの額だが、この国にわざわざムサンマを観戦しにやって来るほどの人間なら、安いものだろう」
青年は、試すような視線をシャイにおくった。
「さっきから賭には興味がないようだが、せっかくここまで来たんだ、一回ぐらい賭けるのも悪くないだろう」
考慮についやした時間は、わずかだった。
「いいぜ、賭けてやるよ」
「どっちにだい!?」
期待に眼を輝かせて、男が訊いた。
「小さいほうに」
「おお、いいねぇ!」
シャイの返答に、男は弾むような歓声をあげた。内心、しめしめとでも思っているのだろう。
「だが、この国の通貨はないぞ」
そう言ってシャイは、革袋からテメトゥースダジャ硬化を取り出した。これならば、この国でもなんとか使えるはずだ。
男は一瞬イヤそうな顔をみせたが、すぐに考えをあらためたのか、笑顔で一枚の小さな紙片をシャイに差し出した。サワルディンの賭証だ。
「ほらよ」
紙を受け取り、男が足早でほかのカモをさがしに立ち去っていくのを見届けると、シャイは、ふと闘場に眼を向けた。
「……!」
睨んでいた。
そこには、自分めがけて睨んでいる褐色の闘者が!
《狂犬》の眼光が、あざ笑っている。
おまえは、バカだ!
おれに賭けないおまえは、愚か者だ!
シャイのいる客席から闘場までは、遠いというわけではないが、いまのやり取りを見聞きできるほど近くはないはずだ。人も多く、ざわつきも激しい。なのに、見ている。こちらを睨んでいる!
「どうしたのだ?」
「い、いや」
青年に問われて、わずかに《狂犬》から視線をそらすと、再び戻したときには、もう褐色の戦士は、対戦相手にその眼光を叩きつけていた。