名砿の章 1
荒れた岩肌をさらす山道は、それほど険しくはなかった。
たしかに老人の足では困難であろうが、それでもなんとか行き来できる程度の道だ。目的地までの距離も、若い者にとっては遠いというほどではなさそうだった。
「なるほど、さっきの話の護衛官ってのが、ソン・リョウメイか」
「そうじゃ。だから隠れておる」
その道中、シャイは老人――この国の元摂政官であり、前摂政官・孔苓の父である孔仁老に、ことのいきさつを詳しく聞いていた。
いつしか、言葉づかいも砕けたものとなっていた。
「あやつらが無能者の集団でよかったわい。こんな近くに梁明がおるのに、まるで気づかんのじゃからな」
あやつら──とは、さきほどシャイがぶちのめした警備武擁団のことだ。
「いつごろから、この山に?」
「わしが、流刑で吼戴にやって来てから、まもなくじゃ」
「そういえば、あの町を出て平気なんですか? 流刑ってことは、監視とかされてたわけですよね」
「なにを言うておる。おまえさんが、あんな騒ぎをおこしたから、どのみちあそこにはもうおれんわ」
「そりゃ、悪かったですね」
それほど反省しているようには感じられないシャイの口調だったが、孔仁老のほうも、そんなことは期待していないといった素振りだった。
「ところで、じいさんとソン・リョウメイは、なにを企んでるんですか?」
シャイは、背上の老人に顔を向けた。
正面でとらえるとはできないが、視界の隅には入っている。
「企む、とは?」
「この国と敵対する気なんじゃ……」
ははは、と老人は笑い飛ばした。
「そんな力は、もうわしにはないよ。朝廷もそれをわかっておるから、わしを処刑しなかったのじゃ。まあ、人質に使えるということもあったのだろうがな」
「そうか、じいさんの息子……なんていったっけ……コウレイでしたね。そのコウレイが謀叛をくわだてたら、じいさんを殺すってわけですか……」
「ほほ、ものわかりがいいようじゃな」
「いっしょにいるんですか、あなたの息子も?」
シャイは、そう訊きながら、再び視線を前方に向けた。
荒れた山道のさきに、わずかな緑が見える。
「いや、孔苓はいない。やつの弟子が一人と、もう一人べつの人間がおる」
「ほんとに何人も弟子がいるみたいですね」
「ああ。おまえさんも、おそらく会うたじゃろ?」
「関所で会いました」
「梁明の門下生は、みな優秀じゃ。結束も固い」
「やっぱり強いんですか?」
「梁明か?」
「ええ」
「世界最強かもしれんのう」
「どんな法術を?」
シャイは、期待をこめてたずねた。
『法術』とは、ここリュウハンでは、たんに『拳術』と呼ばれているものだ。しかし、リュウハン以外の国々でおこなわれている拳術とは異質のもので、拳のみで闘う体術格闘技とはちがう。東方拳術とも呼ばれているそれは、身体のすべての箇所を使う体術であり、流派によっては多種の武器を使いこなす武術でもある。
その動きは、苛烈な自然現象を模したものもあれば、獣の奇抜な挙動を真似たものもあるという。
その他の国の人々が『法術』――《全闘術の法》と呼びたくなるのもわかるほどの完成された闘技であり、数千年の歴史のなかで累々と積み重ねてきた、人を倒すための……人を殺すための技術の集大成なのだ。
「それは自分の眼で確かめるがよかろう。ほれ、あの小屋じゃ」
山に残っていた緑のただなかに、一軒の小屋があった。実際に小さいのだろうが、まだ少し距離があるために、それはほんのわずかな影でしかない。
「だが、これだけは覚えておけ。生き方がちがえば、人と闘う技術など、な~んの役にも立たん」
孔仁老は、気持ち良いぐらいに言い切った。なぜだかシャイは、そんな老人のことをうらやましく感じた。勝敗や技能の優劣による、強い、弱い、という価値観に惑わされない、真の強さをもっているような気がしたのだ。
「おいぼれの世迷い言と聞き流してくれても結構じゃ」
「いえ、勉強になります」
そう殊勝な返事を口に出したシャイは、そこでようやく、前方の小屋が一軒だけではなく、二軒並んでいるということを理解した。
二軒とも、簡素なつくりだ。その小屋に挟まれるように、こちらも慎ましやかな小川が流れていた。
そのうちの一軒――シャイが、さきに存在を認識したほうの小屋は、静かな清流がなかまで入り込んでいく構造になっている。
「もうよいぞ」
背から降りると孔仁老は、それまでずっと手にしていた杖をつきながら、シャイを先導するようにあとわずかな行程を歩きだした。
〈カチンッ! カチンッ!〉
鉄を打つ音?
小川の水を引き入れている小屋のほうから、甲高い響きが聞こえた。
「なんだ、本職は鍛治師ですか。ちょうどいい、一本頼んでみます……」
「おい、これっ」
「さきに行きますよ」
シャイは老人を残して、小屋へと早足で向かった。
近づくにつれ、響きはより大きくなっていく。
「邪魔します」
扉を開けると、ゆるやかな蒸気がシャイの顔を撫でた。
一瞬、視界がさえぎられていたが、すぐに、おそらく刃になるであろう金属製の細い板を、正座で焼き入れしている後ろ姿があらわれていた。
一歩、二歩……小屋に足を踏み入れた。
急激に汗を誘う熱気。
炉が、ごうごうと炎をやどらせている。
その後ろ姿は、シャイのことに勘づいていないのか、引き入れている水で冷ました刃の原形を炎のなかにさらすと、赤く膨張したそれを再び槌で叩きはじめた。
その神々しいまでの美しい響き。
さきほどからの変わらぬ音が、寸分も狂うことのない律動を刻む。まるで赤子の産声のように、その響きは生誕の喜びに満ちていた。
神聖で、初々しい玲瓏な音――。
しばし、その作業に眼を奪われていたシャイだったが、あるおかしなことに気がついた。
後ろ姿を見せる鍛治師の長い髪。
黒一色のあでやかさ。
その髪質から推測できるその人物の年齢は、シャイの予想よりもずっと若いものだった。
摂政官の護衛をしていたという話や、オルダーンの《炎鷲》と闘ったということから、どんなに若くても三〇代後半、おそらくは四〇代……いや、五〇ぐらいはいっているだろうと予想していた。
それが、眼に映るその人物の年齢は、どう見ても自分と同じぐらい……いや、自分よりも若いかもしれない。
髪質だけではない。
歪みのない姿勢。
槌をにぎる手の美しさ。
後ろ姿から漂う、濁りのない精気。
そのどれもが若々しい。
「ソン・リョウメイさん……?」
シャイが、戸惑いをそのままつぶやきにかえたときだった――。
「!」
なにもないはずの空間から、いきなり強烈な気配が叩きつけてきた。
殺気!?
これまでに体感したことのあるような、禍々しい殺意ではない。
殺気とは、もっと精神を焦がされてしまいそうなほどの、煮えるような熱い情念だと思っていた。メリルスの闘技場では、それをイヤというほど味わった。山賊などに襲われたときも、そうだ。
だが、これは!?
冷たくて、鋭利な――。
「……!」
シャイは、自分がどうやってその攻撃を避けたのかわからなかった。われを取り戻したときには、外へ出ていた。
開けられたままの入り口に、一人の若い男が立っていた。鍛治をおこなっていた人物とはちがう。年齢は、シャイよりは少し上だろうか。二〇代半ば……三〇にはなっていないだろう。
髪が一本もなかった。
故意に剃りあげているようだ。
見事なほどの光頭。
精悍な表情が、シャイを睨んでいた。
入り口の脇にでも潜んでいたのだろうか、シャイが小屋に踏み込んだときには、姿はおろか、そんな気配はなかったはずなのに。
だから無警戒だった。
気配を殺す――という域を大きく超えた消し方だった。
例えれば、空気と同化していたような……大気のなかに溶け込んでしまったような……。
おさえこむ、封じこめる、という方法ではこうはいくまい。それで消していたのだとしたら、小屋のなかという狭い空間では、確実にとらえることができる。シャイも素人ではないのだ。わずかでも漏れた気配を察知することができたはずだ。どんな達人であろうとも、気配を完全に消し去ることなど不可能なのだから。
そういう殺し方は、逆に気配をそのままにしておくのではないだろうか。下手な細工をせず、自然に存在する。消す、殺す、というのではなく、なんの変哲もない気配として、そこに漂う。
シャイは、気づかなかったのではない。
その存在に気をとめなかっただけなのだ。
悔しいが、自分にはできないことだった。その理論がわかったとしても、どうやったらそれを実践できるのか、まるで方法がわからなかった。
「……」
言葉も出ないまま、シャイは光頭の男を凝視していた。少しでも眼をそらしたら、やられる――と思った。
だが男の眼光は厳しかったが、それほどの敵意は、不思議と伝わってこなかった。気配と同様に、そこに自然体として立っていた。すぐに飛びかかってくる、ということはなさそうだ。
それにその気なら、いまの好機に仕留められていただろう。
わざわざあんな殺気を放った理由は知らないが、ここまでの男なら、気配のないまま攻撃に出ることもできたはずだ。仕留める直前に、かすかな殺気が迫ったとしても、正直、いまの自分の力では防ぎようがなかった。
男は、試したのだ。
どんな人間かを観察するために――。
「おまえ、弱いな」
しん、と冷たい声だった。
「な……」
男の無遠慮な一言に、シャイの体温が急激に熱くなった。
左足に重心をかけた。
無造作なかまえだが、相手に隙はまるでない。正攻法でいってもかわされるだけだ。
右足から踏み込んで、一歩。左で二歩、右で三歩。四歩目の左足は、大きく飛ぶように。そして右足は着地せず、そのまま相手に膝をたたき込む。瞬速の一撃――それでいく。
左足にかけた体重を移動しようとした寸前に、男はシャイの攻撃を読んでいたのか、右の掌をシャイに見せるように差し出した。
「いや、すまん」
シャイの機先は、巧みにそらされた。
「悪い意味でのことじゃない。刺客かと思ったのだが、その実力ではちがったらしい」
「なんだと……!」
やはりここでも、「おまえは弱い」ということを、遠回しになったとはいえ、繰り返された。シャイの闘争心に火がついたとしても仕方ないだろう。
作戦は変えた。
相手に飛びかかって、膝をたたき込むような奇襲はやめた。もっと正攻法でいく。そうでなくては、馬鹿にされた借りは返せない。
シャイはジリッと、小屋の入り口で立ったままの男に向かって擦り寄った。
「弱いかどうか、試してみるか……!? ハゲ野郎!」
「もう試したさ」
静かに、重く、男は応えた。
「おれの攻撃をかわせたと思ってるのなら、大間違いだ。おれが逃がしてやったんだ。わかるか?」
「……」
シャイは、反論できなかった。
「小屋に入った時点で、おまえは死んでいた。おれの存在に気づけなかったのだからな」
「オレは闘者だ! 気配を察知したとか察知できないとか、気づくとか気づかないとか……関係ない!」
あくまでも、シャイはやる気だ。
「闘場では、敵と向かい合って闘う! いまのようにな……」
「ほう、次は『試し』じゃすまないぞ」
「望むところだ」
圧倒的な緊迫により、両者間の空気に磁力のような、たがいに引き合う不可思議な力が生じていた。
この力場こそ、闘いの空気。
シャイの擦り寄りは止まらない。
あと少しの距離を詰めれば、戦闘がはじまる!
「どうしたのですか?」
再び、シャイは攻撃の時機を見失ってしまった。小屋のなかから声がしたのだ。
だれの声?
小屋のなかにいたのは、あの鍛治師だけだったはず。いや、この光頭の男と同様に、気配を殺していたのだろうか。
そんなはずはない。
この声には、そういうことを仕掛けるような、したたかさはなかった。もっと無垢で、穢れを知らない声。
「いえ、あやしい男が近寄ったものですから……」
「あやしい? 邪な思念をもった者であれば、鍛治のさなかには、わたくしに拒絶があるはずです」
光頭の男が、一歩前へ――小屋から出て、声の主に道をあけるように、入り口のわきへ退いた。
そのあいた空間に、声の主が姿を現した。
「刀を鍛えるということは、生きとし生けるものの寿命をわけてもらうということです。このあたり一帯の生けるもの……草や樹、虫や鳥たち――その命を少しずつわけてもらうことで、刀を創造するのです」
シャイは、自分のまちがいに気がついた。
先入観で、鍛治師がソン・リョウメイであると決めつけてしまっていたが、正面からこの姿を見れば、おのずとそれが誤解であったとわかる。
差し込んだ陽射しに照らされた黒髪のなんと美しいことか。透き通るほどの白い肌。西方の民族は一般的に肌が黄色いとされているが、その常識も通じないほどの純度をほこっている。
女だった。
自分より、確実に若い。
西方の女性は、東方の女性にくらべて若く見えてしまうものなので、一見だけで年齢を推測するのは困難だが、いっていても二〇歳だろう。
まさか、こんなに若い女性が、オルダーンの《炎鷲》と闘ったというソン・リョウメイのはずがない。
「いただいた貴重な命を炉に集め、そのなかに刀身をさらします。それは、とても……とても神聖な儀式です」
そこで、その女性は微笑んだ。
煤で顔が汚れているはずなのに、まるで美しさが曇っていない。なんという完璧な造形だろうか。西方美人は、東方の人間にとっては神秘とされているが、シャイにもそれがよくわかった。
このリュウハンの山深い秘境には、不老不死の法を極めた仙女と呼ばれる、とても人間とは思えないほど見目麗しい美姫が住んでいるという。
この女性こそが、伝説の仙女だろうか。
それとも、やはり山中に潜み、旅人を妖術で化かし、喰い殺すという物の怪『三蟯子』であろうか。物の怪とはいえ、人間ばなれした美しさは仙女に勝るとも劣らないという。
仙女か、物の怪?
どちらにしろ、人の域を超えているのだけはたしかだった。
「生命の弱くなったこの周辺には、一種の結界のようなものが自然の摂理として形成されます。微弱な生命だからこそもつ、種族延命の力――」
女性は一歩進み、小屋から外へ出た。
着ている白い衣装は、リュウハン中部より西の地方で多く見られる『袖衣』と呼ばれる着衣だが、むろんシャイにとっては、はじめて見る服装だった。普通のものは、もっと色とりどりの模様をあしらった衣装なのだが、彼女の言うところの神聖な儀式のために、白一色にしているのだろうか。
なお、このような『袖衣』などの西方独特の衣装のことを、この国では『着物』と呼んでいる。
「もし結界に、生命の危機につながる――邪悪なる思念をもつ者が侵入すれば、たちどころに炉のなかの生命は主のもとへ飛散し、炎は消えてしまうことでしょう」
「お待ちを! まだ何者かわかりません。これ以上、近づくことは――」
男の忠告に微笑みで応えると、女性は、なおもシャイに近づいてゆく。
「大丈夫。なによりも、神聖な場を穢された裏切りの代償として、このわたくしにも、それ相応の報いがふりそそぐはずなのです」
シャイのすぐ間近まで寄った。
じっと、シャイの顔をみつめる。
「おもしろいお方」
女性は、華やかな笑顔のまま言った。
「刀を使うのですね」
凄絶な美貌に臆してしまったのか、まるで氷結したように、シャイの口からは、なんの言葉も出てこなかった。
チラッと、女性は光頭の男を振り返った。
「わたくし、決めましたわ」
すぐに、シャイをみつめなおす。
「?」
「この方に、わたくしの刀を託します」
「な……! それは……」
光頭の男が、表情を変えていた。
さきほどからの冷厳な法術使いの顔からは、想像もできないほどの驚きようだった。
「そうです……わたくし、この方の『もの』になります」