終章
意識を取り戻したときには、もう世界は夜をむかえていた。
生きている?
ここは、どこだ?
シャイは、周囲の様子をさぐった。
「気がついたか」
梁明の声がした。
どうやら、木の根元で眠っていたようだ。
焚き火の明るさが届く範囲のことしかうかがい知れないが、どうやらテメトゥースの街からは離れているらしい。家や建物は見当たらない。
「どうして、オレは生きてるんだ?」
シャイは、上半身を起こしながら言った。
自分の右手首を見た。
布が巻かれていたが、その上からでも、出血が止まっていることはわかった。
そんなはずはない。たしかに動脈を切断したはずだ。
「君の死ぬべきときは、まださき……ということだ」
「リアンは?」
重いものを吐き出すように、シャイはたずねた。
「もういない」
梁明の答えは、予想どおりのものだった。
「この人、気がついたんですか?」
女性の声がした。
シャイの瞳が、安堵の色に染まった。
「リアン!」
まちがいない、彼女だ!
生きているじゃないか……!
シャイは、歓喜のあまり立ち上がった。
「人が悪いな! 無事なら、そう言ってくれれば……え?」
言っている途中で、そうじゃないことがわかった。
そこにいた女性は、莉安だ。
しかし、莉安ではない。
「あなたは、だれ?」
莉安が、そう口にした。
「わたし、初めて会うんだけど……」
「どういう、ことなんだ……!?」
「彼女は、莉安ではない」
「莉安、莉安って、さっきから……わたしの名前は、永菜よ。なに言ってるの?」
莉安が……いや、永菜がそう主張した。
言われてみれば、顔形も微妙にちがう。
いや、同じ顔ではあるのだが、あきらかな相違点があるのだ。
美しさ……。
永菜という女性も、たしかに美しい。だが莉安の、人の域を超えたような美しさはなかった。
彼女の美は、あくまでも人間のものだ。
「彼女は、ただの人だ。その彼女に、莉安が……《名砿》が、とり憑いていたのだよ」
梁明の説明が、虚しくシャイの心を素通りしていく。
「ねえ、その話、本当なの? わたしにはよくわからないんだけど……気がついたら、こんな場所にいたのよね」
永菜は意外なほど、あっけらかんとしている。性格も、莉安とはちがうようだ。
「自らの刀を託すべき者がみつかるまで、彼女は《名砿》だった。そして、託すべき者が現れたいま、彼女はもとに戻ったのだよ」
「……」
「『覇王の刃』の力を使い切ることが、その合図なのだ。君は、使い切った。だから、莉安はもういない……」
梁明は、木の幹に立てかけてあった《雷塵》に視線をおくった。
シャイは、その刀を手に取った。
莉安の生命力が弱っていったのは、そういうことだったのか……。
「もうその刀は、ただ刀だ。神がかり的なことは、もうおこらない」
シャイは、わずかだけ刀身を抜いた。
焚き火の色に染められた自分の顔が反射していた。
無意識だったが、気づいた。柄を握っていたのは、右腕だ。
「そんなものに頼らなくても、もう君は一人でやっていける」
梁明の声を耳にしながら、刃を鞘のなかに戻す。
「次に《名砿》がこの世に降りるのは、何百年後か、何千年後か……そのときになれば、まただれかのなかで目覚めるのだ。男かもしれない。少女かもしれない。老人かもわからない……そのときが来なければ」
「本当に、人間じゃなかったのか……」
「そういうことだ」
と、そこに二人の気配が――。
「あ、シャイさん!」
どこに行っていたのか、ファーレイと王牙だった。
「追手はいないようです」
王牙が、梁明に報告した。
「ほかのみんなは?」
シャイは問いかけた。サーディや、ミリカのことも心配だった。
「みな散り散りになってしまった。街から脱出するので、精一杯だったからね」
「そうか……」
「心配はないだろう。強者がそろっているのだから」
「ん?」
そこまで会話が進んだところで、もう一人、この場にいることを知った。
「この子は?」
見知らぬ少女だった。
いや、知っている。
アザラックとの闘いのさなかに見ているような気がする……。
斑民族の少女だった。
少女は、梁明の後ろに隠れるようにして、シャイのことをうかがっていた。
「ラリュースの妹さんらしいですよ、義理のですが」
答えたのは、ファーレイだった。
「これから君は、どうする?」
梁明からそう問われたが、シャイに考えはなかった。
「あんたたちは?」
「私は、もう一度、瀏斑に戻る。こうなってしまった以上、世界は乱れる。私にどこまでできるかわからないが、少しでもまともな世の中に変えていきたい」
それはつまり、梁明が歴史の表舞台に立つということを意味していた。
無論、王牙もそれに従うだろう。
「あ、わたしも帰りますよ!」
《名砿》の呪縛から解き放たれた永菜が訴えかけるように言った。
自分の国に帰りたいと願うのは、当然のことだ。シャイにも彼女の気持ちは理解できる。が、同時に、莉安はもういないんだと、心の奥がしめつけられた。
「じゃあ、オレは、オレの故郷に……オザグーンに戻ってみるか」
さまようように、シャイはつぶやいた。
「ボクは、シャイさんについていきます」
聞いてもいないのに、ファーレイが明るい声で宣言した。
「一〇七のなんとかは、いいのか?」
「シャイさんと旅していれば、それもみつかるかもしれません」
シャイは、ため息をついた。
拒否するつもりはないが、また厄介事に巻き込まれそうだ。
「あの……」
か細い声が、そのとき流れた。
ファーレイの妹だ。
「わたしも……いっしょに行きたい」
少女とシャイの眼が合った。
「家族はどうする?」
シャイの問いに、少女は答えない。
「いいんじゃないですか? テメトゥースは占領されちゃったし、お父さんのゴルバ・ウィルドや、ラリュースも、どうしているかわかりません。彼女を一人にするわけにもいかないでしょう?」
ファーレイが、かわりに発言する。
「いっしょに、行くか?」
あらためて、少女に確認した。
少女は、瞳を輝かせてうなずいた。
「名前は?」
「レノン」
──これが、二人の運命的な出会いだった。
翌朝、一行は日の出とともに出発することになった。
シャイの怪我も、思いのほか悪くはなかった。まだ長距離は無理だが、少しずつの移動なら問題ないだろう。こちらには少女もいるし、ちょうどいいかもしれない。
梁明たちとは、見晴らしのいい平原で別れた。
「天鼬、このさき世界は、必ず君を必要とする。いずれ、表舞台で再びあいまみえることになるだろう。そのときまで、精進を忘れるな、わが弟子よ」
こうして、梁明と王牙は、永菜をつれて瀏斑へ――。
シャイとファーレイは、レノンをつれてオザグーンへ――。
* * *
それはまだ、夜が明けるまえのこと――。
三人の影が闇夜に溶けていた。
八嵐衆――。
蝶碧。
菠鵜。
猛群。
生き残った藍鳳隊の三人だ。
「これでよかったのだな、蝶碧?」
「はい。《名砿》と『覇王の刃』のこと、梁明や孔仁老も、すべて把握はしていなかったようです」
「本当に、手に入るのか?」
「ぬかりありません。《名砿》をよみがえらせる方法があるのです」
「邪魔だった鵺蒼も死んだ。あとは『覇王の刃』を掌中におさめるだけだ」
「そうなれば、瀏斑はあなたのもの……いえ、その言い方は、鵺蒼のようで嫌ですね。あなたのもとに戻ってくると言ったほうがいいでしょうか」
「そうだ。瀏斑を正しい方向に導かなくてはならん」
「そうです。それができるのは、新しく《藍鳳》となったあなたです。猛群様。いえ、帝室の血を継ぐ正統の帝と呼びましょう」
蝶碧は、猛群に頭をさげた。
菠鵜もそれにならう。
「これより、この菠鵜とともに、永遠の忠誠を誓います」
* * *
「まちがいない……」
旅立ったシャイたち一行を監視する二人組がいた。
ともに赤い鎧姿の女だ。
「紅蘭様に知らせなければ」
ついに、みつけた。
瀏斑の真の帝になるべき、少女――。
遥琳様を……。
* * *
のちに出版されることになるディアセシソスの書物には、今回のことが次のように記されている。
──この第一回世界大会が、後世の格闘技界にあたえた影響は大きい。残念ながら不測の事態で中止となってしまったが、大変に歴史的価値のある大会といえるだろう。その後の格闘技大会は、すべてこの大会を参考にしたといっても過言ではない。
記録上、第一回大会の優勝者は、中断となった時点で準決勝を勝利していた《翠虎》となっている。しかし真の優勝者は、《雷狼》と呼ばれた闘者ではないだろうか。侵略のさなかにも《白鮫》と《雷狼》は闘い続けた。その死闘が、いまも筆者の心から離れることはない。おたがいの存在をかけた最後の打ち合いで、《白鮫》の剣が折れ、彼らだけの闘いは《雷狼》の勝利で幕を閉じた。
第一回大会を総括するときに浮かぶのは、この言葉しかない。
雷撃、塵の如し――。
ファーレイ・ディアセシソス著
『格闘見聞録』より抜粋――




