小鳥の章10
シャイとヨシュの対決に重なっている、残り一つの死闘。
菠鵜対、トーチャイ・ギャッソット。
かたや八嵐衆の一兵、かたやムサンマの強豪。『翼爪』の達人に、立ち技最強がどれだけの健闘をみせてくれるのか。シャイには惜敗したが、むしろ主導権を握っていたのはトーチャイのほうだ。立ち技最強の意地をみせるときが、いまここに!
「菠鵜! さがります」
ここからが本番というところで、玲瓏たる声が割って入った。
ここまで、菠鵜の『翼爪』をトーチャイはうまく翻弄していた。手の甲から生える三本の爪。シャイに折られたものとはべつか、いまは一本も欠けていない。だが左右六本の牙でも、《狂犬》をとらえることはできなかった。
逆にトーチャイのほうも、決定打を入れられない。相手の攻撃がやんだ隙に、アーマ・パーサや牽制打を放つにとどめている。
「鵺蒼が死にました。もう、われわれがここにいる理由はありません」
声の主――蝶碧は言った。すでに死者となったからか、鵺蒼を呼ぶのに「様」が消えていた。
それとも、最初から上辺だけつけていたのか。
「少しだけ待て。決着をつけてやる」
菠鵜は、トーチャイを睨んだままだ。
銀光をまとった六本の爪が、空を裂く。
トーチャイは逃げなかった。
なぜだ!?
「死ねぇい!」
気合とともに菠鵜の殺気が吐き出された。
爪は、トーチャイの左右から、胸をえぐろうとしていた。
いや、それよりも高く上がるものがあった。
トーチャイの左足。
前蹴り!?
それはおかしい。
前蹴りにしては、足の位置が高すぎる。
「な!? ぐうっ!」
トーチャイの左足が、菠鵜の顔面をとらえていた。
上段前蹴り!
不意の一撃で、菠鵜は後方に大きく飛ばされた。意識も遠のく。頭の芯にまで衝撃が届いていた。
「菠鵜!」
気がついたとき、菠鵜は蝶碧に背中を支えられていた。ほんのわずかだろうが、意識を失ってしまったようだ。
「どうするんだ、もう終わりか?」
なんの昂りもみせず、トーチャイが口を開いた。
「ま、まだだ……!」
自力で立ち上がろうとするが、菠鵜の足は言うことをきいてくれない。
「あなたの勝ちでいいですよ」
そう宣告したのは、蝶碧だ。
「ふざけるな! 俺は、まだやれるっ!」
「菠鵜、あなたらしくもない。どうやら、あの人たちに影響をうけてしまったようですね……」
必死に闘志をみなぎらせようとする菠鵜を押し止めながら、蝶碧は闘場を見下ろした。
そこで闘いを続ける二人――。
「かく言う、私も同じか」
少し自嘲ぎみに、つぶやいた。
まだ腕が痺れているのを自覚していた。
「止めるな、蝶碧!」
「それはできません。私たちの大願をお忘れですか?」
「……!」
菠鵜は、悔しそうに歯を噛みしめた。
「あなたが勝者で、私たちが敗者。敗者は、おとなしく退きます。王者なら、敗れし者は追わないでしょう」
「わかった」
トーチャイは、そう応じた。そして、つけたすように、
「これは『分け』ておく。おまえの好きなときに再戦してやる」
蝶碧にではなく、菠鵜に対して言葉を投げたのだ。
「逃げも隠れもしない。おまえにその気があれば、ムマに来い。おれは、闘者だ。闘うのに時は選ばない。いつでもいい」
「わかった、必ず闘ってやる!」
蝶碧に肩をかりて、菠鵜は背を向けた。
蝶碧のほうが、歩を止めた。
「あなたも、本物ですね」
トーチャイを一瞬だけ振り返り、蝶碧は言った。すぐに二人は歩みを再開し、トーチャイの前から……闘技場から姿を消した。
トーチャイは、菠鵜たちの後ろ姿から、闘場で試合を続ける二人へと興味を移していた。
「バカなヤツだ」
血をしぶきながら死闘を演じつづけている姿に、トーチャイの口から得意の台詞が自然に出ていた。
それは、シャイとの試合で最後に言ったときのように、相手を本物と認める裏返しの言葉だった。
繰り返す。
「バカなヤツだ、あいつらは」
* * *
「なに立ち上がってるんだ、お嬢ちゃん」
死が、少女に近づきながら言った。
その少女は、それまでなにも感情をもっていないかのように、ただそこに座っていた。それが突然、叫びとともに立ち上がったではないか。
「おとなしく座っているんだ、なあ、おい」
死の顔が、心なしか歪んでいた。
愉悦にはずんでいるような……。
「言うとおり座っていなさい、レノン!」
囚われの重鎮たちの一人が、必死に呼びかけた。
「じじいは黙っていろ!」
あきらかに、それまでとはちがう死の態度だった。
「また悪い虫が出たか……」
渦響が、呆れたようにつぶやく。
「ふふふ、お兄さんが教えてあげようね。手取り足取り、全部教えてあげるよ」
「いい加減にしろ。少女趣味など、軍人としての恥」
「それは誤解です、渦響様。私は、大人の素晴らしさをこの娘にわからせてやろうと……」
この男は、もっとも卑劣な行為をやるつもりだ。この戦乱のさなかでは、だれも止める者はいないだろう。
唯一、阻むことができるでろう上官である渦響も、嫌悪感を剥き出しにはしているが、身体を張ってまで助けようというつもりはなさそうだ。言葉で命令しただけでは、この色情魔を制することはできそうにない。
「さあ、大人の階段をのぼるんだよ」
立ち上がった少女――レノンは、そんな変態などに見向きもしない。闘場を真っ直ぐみつめている。
「あんなものより、おもしろいものを――」
死が、少女の腕を取ったときだった。
その腕が、風になっていた。
ヒュン!
鈍い音をたてて、死の顔面にぶちあたっていた。
「ぐおっ!」
的確に顎を射抜いていた。
力は無いはずなのに、死の膝は崩れてしまった。
信じられない光景だ。
この少女は、なにをやったのだ!?
「なんと!」
さすがの渦響ですら、驚愕していた。
「く、くそ……」
なんとか死は立ち直った。
言うことをきかない足で懸命に身構えた。
「こ、こいつ!」
屈辱と怒りに触発された殺気は、迷わず腰の長刀を抜かさせた。
いや!
柄をつかもうとするまえに、刀は無くなっていた。
小さな影が動く。
その動きを察知したときには、もう斬られていた!
「お、おまえ……いった……い!」
噴き散る赤いもの。
それを眼にした者は、だれしも、これが夢ではないかと疑った。
年端もいかぬ少女の殺戮。
この少女は、表情も変えずに斬り殺した。
《翠虎》の渦響配下、一二の副将の一人を!
死が抜くよりもまえに、刀を抜いていた。
そんなことが、女に……子供に可能なのか!?
「な、な……なに……も……の……」
これほどに悲惨な最期はないだろう。人生で一番大きな謎に突き当たってから、その謎を抱え込んだまま死んでいくのだ。
自身の名前が、そのまま実現化した。
「なにか得体の知れないものを感じてはいたが……こういうことか!」
渦響が、咄嗟に武器をかまえた。
決勝進出を呼び寄せた渦響の代名詞――三節槍。
「!」
その動きを牽制するかのように、少女の腕が動いていた。渦響がかまえおわるよりさきに、刃を喉元に突きつけられていた。
いや、渦響と少女のあいだには距離がある。実際には「突きつけられた」という表現はまちがいだ。だが、そう感じさせるなにかがある。
顔は、渦響を向いていない。
視線は闘場へ。
そこで闘う二人へ――。
「わたしは試合が観たいだけ。邪魔するというのなら、殺します」
少女は、やはり渦響を見ずに、無感情なつぶやきで宣言した。
* * *
少女の秘密を知る男は一人……。
その男は、広い客席の一角でたたずみ、彼女のことを眺めていた。
彼女の才に気づいたのは、もうどれぐらいまえになるだろうか。最初は、感情のない彼女を励ますつもりで、闘技場につれていった。声に出せなくても、嫌いでないことはわかった。
それからというもの、優秀な闘者、多種の格闘技、各国の闘技場──知っているかぎりの情報を話してあげた。
自分の剣技も、惜しみなく見せた。
あれは、忘れもしない。
いつのもように広大な家の裏庭で、彼女に剣舞を披露していたときのことだ。あろうことか、屋敷に盗賊が侵入してきた。彼女を人質にして、莫大な身代金を要求するつもりだったのだろう。
賊は一〇人いた。
自分一人でも充分、対応できる人数だ。
だが、手にした刃を振るう必要などなかった。
彼女が……血のつながらない妹であるレノンが、たった一人で全員を返り討ちにしてしまったのだ!
それまでに見せた闘技、話した戦術、あらゆる競技が、彼女のなかで生きていた。
信じられなかった。
レノンは、格闘技の天才だった。
無くした感情のかわりに、天は不世出の才能をあたえていた。
「レノン……飛び立つときがきたね」
彼女に護衛などいらない。自分の知るかぎり、彼女よりも強い人間など、この世にいないのだから。
渦響たちに占領されながら、レノンのもとを離れていた理由はそれだ。
彼――ラリュースには、彼女自らが、籠の格子を開け放ち、飛び立つ姿が見えていた。
小鳥はいま、大空へ――。