小鳥の章 8/9
8
まだ折れない。
いや、この刀は絶対に折れない!
ヨシュの猛攻を防ぎながら、シャイは強く自身に叫びかけた。
これは、莉安そのものだ。
もし、これが折れるということは……。
シャイは、とてつもない不安に襲われ、アザラックから逃げるように距離をとった。
「どうした?」
「……」
ヨシュは、深くは追わなかった。そもそもこれは、正式な試合ではない。どうしても決着をつけなければならないというものではないのだ。二人のうち、どちらかでも闘いを望まなくなった段階で、成立しなくなる。
二人のあいだに、休息の空気が生まれた。
その絶妙の時機を見計らったように、声がかかった。
「ダンナ――ッ!」
その呼び方で、だれだか確かめる必要もなかった。
シャイの視界に、座席の最前列――導友者席の斜め後ろに座る莉安の姿が映った。それまではいなかったはずだ。いま連れてこられたばかりなのだろう。
彼女に寄り添うサーディは、呼びかけただけで、それ以上、なにも言おうとはしなかった。同じように近くにいるファーレイも……事情はわからないだろうが、ミリカもトッリュもホルーンも、余計な口出しはしなかった。
すぐ斜め前にいる梁明も押し黙っている。
選択するのは、自分だ。
だれにも決められない。
自分で選ぶしかない!
「リアン……すまない」
つぶやいた。
それまで左腕に持っていた《雷塵》を右手に移した。
グダル戦で一時的によみがえった右の握力は、再び奇跡をみせた。
掌に、柄が吸いつくようだった。
剣の超常か、はたまた、すでに治癒しているからなのか?
いや、完治していたとしても、深い眠りについた腕を呼び起こしたのは、まちがいなくこれのおかげだ。
わかる。
右に持ち替えた《雷塵》は、しかしすぐに左手に戻った。
その光景を眼にした者は、みな、わが瞳を疑った。
さえざえとした刃の先端が突き立った。
自身の右手首――。
「に、兄さんっ!」
「ダンナ……」
噴き上がる鮮血。
動脈を確実に寸断するように、その手首を横にずらした。
さらに、鮮血がしぶく。
「どういうつもりだ!?」
ヨシュも困惑を隠せない。
シャイは、いま切り裂いたばかりの右手で、《雷塵》を握りなおした。
とめどなく流れつづける血液。
それでも右腕のなかに剣はある。
「一人では死なせない」
シャイは、言った。
「死ぬつもりか!?」
その問いに答えることはなく、ただ身構えた。
「わかった……おまえの覚悟をうけとめてやる! その傷では、そう長くはもつまい……全身全霊で決着をつける!」
二人の……本当の意味での、死闘が再開された。
* * *
「天鼬……」
「わっはっは! 愚かな男だ!」
敵のことも忘れ、ジッと闘場をみつめていた王牙の耳に、大袈裟なやかましい哄笑が届いた。
王牙と鵺蒼――この二者の対決は、まるで進展していなかった。達人同士ならではの睨み合いで、膠着状態が続いていたわけではない。王牙のほうが、戦闘を避けていたのだ。
どうしても莉安と、闘場で試合を続ける天鼬――つまりシャイのことが気にかかってしまう。
鵺蒼が踏み込んできても、後退して距離をはずしていた。むこうは長刀、こちらは素手ということもある。とにかく、まともに打ち合うということはしなかった。
「これで『覇王の刃』をさずかった男は、勝手に自滅してくれたわ! あの女さえ奪えば、世界はわが掌中におさまる」
「きさまのか?」
「そうだ! この俺の掌中だ! 帝に取って代わってやるのだっ!」
「愚かなのは、きさまだ」
王牙は、冷たく言った。
「なんだと!?」
「天鼬が死んだとしても、莉安は、きさまなどに刀は託さない」
「ならば、あの女も殺すまでだ!」
そこまで聞いて王牙は、ふっ、と口許をゆるめた。
「なにが可笑しい!?」
「そうか、おまえはなにも知らないんだな」
「なんのことだ?」
「蝶碧は、最初からおまえを見限っていたということだ」
「なに、蝶碧が!? どういうことだ!?」
王牙は、混乱する鵺蒼を無視して、視線を莉安に移した。王牙の位置からは、莉安の後ろ姿しか見下ろせない。最前列の席に座ってはいるが、おそらく自我はもうないはずだ。
次いで、天鼬に。
血にまみれた右腕で、『覇王の刃』――《雷塵》を握っている。
彼は、なにも知らないはずだ。師・梁明は、おそらく詳しくは語らなかったろう。そのときがきて、はたして天鼬がどういう道を選ぶのか、それを見極めるつもりだったのだ。
自らの力を取るか、莉安を取るか。
莉安を犠牲にするか、野望を捨てるか。
天鼬が……シャイが選んだものは、そのどちらでもあり、どちらでもない。
王牙には、予想することもできなかった。
梁明や孔仁老ですらできなかったろう。
莉安を犠牲にした。力を選んだ。
だが同時に、自らの命を捨て、莉安との永遠を選択したのだ。
(おれにできることは……)
王牙の決心が凝結した。
自分にできることは、一つしかない。
「ようやく、やる気になったか! おまえがなにを言っているのかは知らんが、世界を手に入れるのは、この俺だっ!」
王牙の身体が、音もなく重さもなく、水が流れるように鵺蒼へ迫った。
それを待ち構えるように、鵺蒼が跳び上がった。
「死ね!」
嵐戒拳奥義『天衝』――。
その動きに刀術を取り入れた。
いわば、無敵の『真・天衝』だ!
王牙の身体が両断される!?
腕。
王牙の右腕が、刃に向かった。
〈パキンッ〉
嘘のように折れた。
素手で刀身が折られた!?
鵺蒼の顔が驚愕のまま固まった。知らないのだ。些愕の円斬も、これで叩き折られたということを。
着地しても、爪を失った蒼き鳳が、余裕を取り戻すことはかなわなかった。
「ば、馬鹿な……」
刃を叩き折ったのと同じように、茫然自失となっている鵺蒼の顎に、王牙は手刀を入れた。
「が……」
首の骨が悲鳴をあげた。
これが、四門将の……《藍鳳》と恐れられた男の、呆気ない最期だった。
「やはり、勝てませんでしたか」
「蝶碧」
美しき天才が、なんの感情も抱かずに、そこにたたずんでいた。
「次はおまえか?」
「いえ、私は負けたばかりで、逃げている最中です」
とても、そんなことは信じられない口調だった。
「おまえは、なにを企んでいる? 莉安のことを……《名砿》のことを、鵺蒼に隠していたな」
「ふ、無能な上官をもつと苦労しますね。あなたのような立場がうらやましい」
その言葉は、どこまで本心なのだろう。
「翠虎軍の策は成功のようですが、われわれ藍鳳部隊は失敗に終わりました。このままおとなしく都に帰りますよ」
結局、蝶碧は、王牙の問いには答えなかった。敗北の言を残して去っていく。
絶命した元上官には、見向きもせずに……。
9
剣を振るたびに、鮮血が飛び散る。
刃を受け止めるヨシュの顔が、赤く染まっていく。おそらく自分の顔にも大量の血が付着しているはずだ。
もう時間がない。
あと、どれぐらいもつ!?
シャイは、右腕を力一杯、振りつづけた。
意識が遠のいてきた。
ダメだ……もうダメだ……。
立っていられない。
ここまでか。
もうちょっと、やっていたかったな……。
でもいいか……ここまでやったんだ……。
「悔いはない……」
そう、あきらめかけたときだった。
薄れていく脳裏に、声が入り込んできた。
「負けないで!」
幻聴かと思った。
大人の声ではない。
まだ幼い少女の声だ。
不思議と、勇気の湧いてくるあたたかい声援だった。
まだやれるのか!?
下半身に力を込めた。
まだ立てる。
まだやれる!
もう一度、声がした。
一度目よりも、ずっと大きく、熱い叫びだった。
「負けないで――ッ!!」
九
このまま終わってはいけない。
あの人は、まだすべてを出し切っていない。
ここからが、本当の闘いなのです!
「負けないで!」
わたしは、自分の声を初めて聞きました。
自然と声が出ていた。
囚われているお父さまたちから、驚きの視線が届いてくるのを感じます。
知らずに、立ち上がっていた。
「負けないで――ッ!!」