小鳥の章 6
二人のあいだから、完全に音が消えていた。
刃と刃を打ち鳴らす音すらしない。
ただ心臓の脈打つ響きだけが、身体のなかを駆けめぐっている。
激しく動いているというのに、不思議と呼吸も乱れていなかった。
驚くほど、心の深層も穏やかだ。
二人は闘っている。
命を削り合っている。
勝つためではない。
闘いそのものが、目的なのだ。
「!」
ヨシュが、渾身の一撃を放った。
シャイが受け止める。恐ろしい圧力。
一撃だけではなかった。
連続の斬!
これこそが、《砕牙》だ。
《雷塵》を折りにきた。
折れるのか!?
「うおおおおお!」
雄叫びが、鼓動の響きを打ち消した。
叩く、叩く、叩く!
まばゆい火花が散った。
グダル戦のような、光の塵だ。
この刀は折れない。
いや、折る!
《雷塵》対《砕牙》――。
「……」
シャイの胸中で、莉安の安否と、この刀にたいする思いが交錯した。
このまま、これを使いつづけたら……この剣の能力に頼っていたら……莉安は終わる。だがこの刀なくして、この男には勝てない。
強い。
遠回りしてまでも、ここまできた甲斐があった。
それほどの相手だ。
しかし、もしこの闘いで勝つことができたとして、はたしてそれは、自分の勝利と呼べるのだろうか?
これはすべて、この刀剣の……莉安の力ではないのか!?
剣を捨てるか、莉安を犠牲にするか……。
どっちだ!?
* * *
シャイが葛藤に苦しんでいるころ、同じ闘場の上では、アーノスが十の猛攻を必死に防いでいた。
二本の小型戦斧。
剣相手では、ミリカとヨシュ戦で経験を積んでいるが、二刀流、しかも戦場でないかぎり滅多にお目にかかる機会のない斧系の武具だ。
「ほら、ほら、ほら!」
歓喜の呼び声のように、独眼の副将は二つの斧を打ち込んでいく。
アーノスは、その攻撃の届く範囲から、いかに離脱するかで精一杯だった。チラッと、師デイザーに眼を向けるが、すぐに思いとどまった。
これは試合ではない。
大きな戦争のなかの、小さな殺し合いだ。
いちいち闘教師に助言を求めている場合ではない。それに、自分から挑んだ闘いではないか。
「わずかでも動きが鈍れば、この『火齧』の餌食だ! 逃げろ、逃げろ、野鼠め」
二つの戦斧は、そういう名前らしい。まさしく火をかじるかのように、アーノスを追い詰めていく。
「!」
いつのまにか、背は壁だ。
もう後方へは逃げられない。
「遊びは終わりだ。これからが狩りの本番」
それまでの愉悦を感じさせていた片方の瞳が、血に飢えるあまり輝いた。
左と右から同時に斧が滑り込んできた。
反撃に出るならば、技は限られる。
幸い、斧は小型だ。
むこうの攻撃範囲に負けない遠距離に届く技といえば、これしかない。
それでも、ぎりぎり。
さきに当てることができるか!?
信じろ、信じろ!
アーノスは、左足を前に出した。
旺州蹴術では、あまり多用しない技。
前蹴り。
シャイとトーチャイの試合を観ていたからこそ、咄嗟に出すことができた。
アーノスの左足は、左右から迫る斧の狭間を縫うように、十の土手っ腹にめり込んだ。
「う……」
鳩尾を寸分の狂いもなく打ち抜いた。
十の呼吸は、瞬間、止まった。
苦しさのあまり、身体が前屈みになった。
両手の斧は恐れない。大丈夫だ、自分の速度なら間に合う。
アーノスは、十の頭を抱え持った。
下方へ引き込むと同時に、膝を突き上げる。
めりっ!
骨のひしゃげる音。
すぐにアーノスは距離をとった。
強烈な膝蹴りでも、十は倒れない。
鼻から血液が滝のように流れている。
「ぐ……う……」
意地。
本来なら、前蹴りといまの膝で倒れていなければおかしい。それでも立っていられるのは、翠虎軍の副将としての責務か。
「おおおおっ!」
悔しさをぶつけるように、十が右腕の斧を投げた。
近距離での投擲は、ある意味、究極の奥の手だ。
アーノスは、紙一重でなんとか避けた。いや、運良くはずれてくれた。しかし、十の最後の意地は、それだけでは終わらない。
玉砕覚悟の突進。
振り上げる左手の斧。
敵の攻撃を防御しようという気持ちは、微塵もない。
生半可な技で反撃しても、斧の餌食になることは必至。
確実に一撃で仕留められる技――それはなんだ!?
蹴りか、拳か。
足を狙うか、顔面か。
意識を飛ばすなら、ロブ・パーサ。
動きを封じるなら、アーマ・パーサ。
それとも、また前蹴りか。
ダメだ!
一撃という保証はない。
「え……!」
それは、勝手に動いていた。
驚くほどすんなり、身体が反応していた。
頭での判断は、まだついていない。
しかしアーノスの身体は、その場で回転していた。右足を軸に、左まわり。
これは……!
左足が知らずに浮き上がる。
後ろ回し蹴り――。
ドンッ!
アーノスの左の踵が、十の胸部を砕いた。前蹴り以上に突進を止める効果があり、かつ一撃必勝も可能な技。
十の足が止まり、左腕が下がる。
静かに、十が崩れていく。
「よくやった」
デイザーに声をかけられて、アーノスは自分のやったおこないをやっと頭で理解した。
「練習でもやったことない……」
「本物の闘者とは、みなそういうものだ」
そう語ったデイザーの顔が、心なしか嬉しそうだった。
* * *
「どうしたのだね?」
何事もおきていないかのように、エスダナルは口を開いた。
去には、信じられなかった。
いかなる攻撃も、このヒゲの男には通じない。か細い針のような武具で、完封されてしまう。
しかも、相手は息一つ乱していないではないか……。
自慢の『日陽』も形無しだ。回転させた姿が、まさしく天空を統べる太陽のように見えることから名付けられた武器。こんな東方のふざけた騎士におくれをとるわけがない。
なにかのまちがいだ!
「ふ、ふざけおって!」
自分の敵は、あの奴隷闘者だ。渦響様が仕留め損ねたあいつこそが、真の敵なのだ。
渦響……様? ふざけるな!
『様』などつけるか!
渦響すら殺せなかった男を殺すことで、俺が取って代わってやる!
《翠虎》と呼ばれるべきは、自分なのだ!
俺様が、四門将の一人となるっ!
〈ヒュン、ヒュン〉
エスダナルのフェーグが、空を斬った。
「ぐっ、うう!」
くぐもった悲鳴を聞いた。自身の口から漏れ出たものだ。
「性根の悪さが、闘いにもあらわれている。まず、その邪念を捨てねば、私にはかなわない」
去の顔には、血で×の文字が。
「く、くそうっ!」
頭が沸騰した。
殺す、殺す、殺す!
去は、思いがけない行動に出た。
向かい合うエスダナルを無視した。べつの人物に標的を変えた。
さっきの女だ。最初はエスダナルの背後で守られていたが、いくつかの攻防で、いまでは左手後方にいる。
女を盾にして、このヒゲの男を殺してる!
そのあとは、あの奴隷闘者だ!
「ぐわっはっは!」
仰々しい哄笑を響かせて、去はミリカに迫った。
ミリカが、それに気づいた。
いまそのきれいな顔を、ぐちゃぐちゃにしてやるからな!
おびえているな、いいぞ!
去の勝ち誇った顔が、そのままの形で固まった。
もう動かない。
瞳にミリカが映っている。
だが、もう見てはいない……。
額から、フェーグの先端が突き出ていた。
「闘いを汚す下郎! 本来なら殺す価値もないが、これ以上、生き恥をさらさせるのも不憫。迷わず地獄に堕ちろ」
一瞬の殺気で、仕留めていた。
去の思惑など、すぐにわかる。
去の想像を絶する速度で、突いた。
これが、エスダナルの……滑稽な騎士の仮面を脱ぎ捨てた男の、本当の怖さだ。
去は、なにがおこったのかもわからないままに、後ろから頭を刺し貫かれ、あの世へ渡った。
もう帰ってはこられない。
「背後からの攻撃は、いささか卑怯かと思いましたが、あなたのような人間にはお似合いでしょう。そういう死に方が」
穏やかな騎士に戻ったエスダナルは、平然とそうつぶやいていた。