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ライジン  作者: てんの翔
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雷狼の章 5

 オルダーンの闘技場に上がるためには『ギル』と呼ばれる養成所に所属しなければならない。そこで『闘教師』という名の師範に技術や戦術を教わる。その闘教師が、サルジャークで言うところの導友者となる。

 シャイは、オルダーンでも下から数えたほうがはやいほどの、パッとしない弱小ギルに入門した。そういうところでないと、外国人をとってはくれない。

 入門して、わずか数日で、シャイは闘場に上がることになった。いかに下から数えたほうがはやいといっても、そこに所属している選手全員を、その数日間でおこなった練習試合で打ち倒してしまったのだから。

 急遽、試合が組まれることになった。

 対戦相手は闘者階順ローガにこそ入ってはいないが、かなりの実力者だった。オルダーンの階順は、サルジャークやメリルスとはちがい、闘技場ごとの順位ではなく、国全体で統一されている。そのため、階順に入っていなくとも、強者は腐るほどいるのだ。

 オルダーンは体重別制度を設けている国だった。選手は、重さによって九つの階級に分けられる。王者も、その階級の数だけいることになる。シャイには馴染みのうすい制度だったが、体術しかおこなわれない国では一般的なものだ。

 シャイの階級は、ちょうど真ん中にあたる『ルースン級』だ。

 ルースンとは、イシュテルの公用語である瑛語で「曖昧なもの」という意味がある。重くも軽くもないからだろう。ちなみに、旺州諸国で体重別制をとっている国では、その数と定められた体重はすべて同じで、階級の呼び名も、一部地域を除いては、瑛語からつけられた名で統一してある。

 無差別の試合しかしたことのないシャイにとって、身体の大きさがかわらないということは、精神的にだいぶ有利にはたらいた。身体の小さな強者もたしかにいるが、やはり生まれ持っての巨体にはかなわない。

 それに、剣での勝負なら、刃がふれさえすればそれでいい。身体が岩のように大きくても関係はない。だが拳や蹴りでは、そうもいかない。

 相手の戦歴――一四戦して、一二勝二分・七レック。『レック』とは、相手を打撃で倒し、審判が一〇数えるうちにその相手が立ち上がれなかった場合の勝ち方をいう。つまり判定ではない、完全なる打ち合いでの勝利のことだ。

 一二の勝利のうち、七回もレックで勝っているというのは、中量級のルースンにおいては、高いレック率といえた。

 初っぱなから手応えのある対戦者というのは、メリスルでもそうだが、外国人の宿命のようなものだろう。

 しかも、シャイは右拳が使えない。

 左右の蹴りと、左拳だけで闘わなくてはならない。

 蹴術や蹴投シュウトウでは『肘あり』の闘規マニュでおこなわれることもあるが、ほとんどの場合は『肘なし』だ。とくに重量級になればなるほど、肘での攻撃を禁止する傾向にある。すぐに額や目尻が切れてしまうからだ。メリルスのような闘う者の人権を無視した国からみれば、うらやましがられるほどの選手よりの闘規といえる。

 その試合も、肘打ちなし、だった。

 たとえ「あり」だったとしても、肘の技術を知らないシャイにとっては、手持ちの武器が増えるわけではない。

 そのほかの攻撃手段の制約としては、急所への攻撃、膝関節を狙った蹴り、後頭部への打撃。特殊なものとして、身体を回転させて拳の裏側で相手を叩く『裏拳』――エルッズ・グルーもその試合では禁止されていた。膝での攻撃はほとんど禁止されることはなく、その試合でも自由に使うことができた。

 それと、原則として対戦者同士は向かい合ってかまえていなければならず、そういう状態でないときには審判によって「イグナス」と宣告され、体勢を立て直さなければならない。身体を密着させて膠着状態が続いた場合なども「イグナス」が宣告される。

 当然、倒れた相手への攻撃も禁止。打撃で相手を倒した場合にはその選手から離れ、審判のガルント行為(一〇数えて戦闘をおこなえるかどうかを判断する――レックかどうかを判断すること)を待たなければならない。たとえば、ガルントで一〇数えるうちに立ち上がったとしても、かまえをとれなかったり、あきらかに戦意喪失していたり、審判の裁量でこれ以上続けるのが危険と判断した場合などには、試合が止められる。

 その初戦――結果は、シャイの圧勝だった。

 シャイ自身にとっても、予想外のことだった。負けるつもりはなかったが、蹴術の本場にやって来て、まさか苦もなく一勝をあげるとは思ってもみなかった。

 勝つにしても判定、しかも、かなり押され気味に試合をはこばれるだろうと覚悟していた。引き分けでも合格だろうという気持ちでいた。とにかく「レック負け」だけはしないようにのぞんでいたのだ。

 それが、わずかの打ち合いの末、対戦者はあっけなく闘場に沈んだ。

 右足だった。

 右足の甲が、相手の顎をとらえた。

 相手から見て、顔の左側を、弧を描くように飛んだ右足。おそらく、視界のすみをわずかにかすめただけだろう。その足が、顎を、左斜めから突き上げるように蹴りあげた。この角度で打撃が入ると、くらった相手は、ほぼ確実に脳がゆれる。

 意識がぶっ飛び、倒れる。

 メリルスで覚えた、もっとも効率のいい勝ち方だ。

 基本的に判定のないメリルスでは、戦闘不能状態になるまで闘いつづけなければならない。殺し合いをよしとするメリルスの戦闘不能とは、怪我を負ったり、戦意喪失したりというたぐいのものでは、むろんない。

 怪我をするにしても、だれが見ても、もう動ける状態にはないというほどの重傷。戦意喪失するにしても、死への恐怖のために発狂してしまうような精神状態。

 だが実際には、体術の試合でそこまでいくことはない。なぜなら、相手を殺さず、再起不能にもしない「安全」な戦闘不能状態に追い込む方法があるからだ。

 それが、意識を飛ばすということだ。

 脳をゆらされれば、どんな巨体の主であろうと脳震盪をおこす。鋼のように身体を鍛えようが、頭の中身までは鍛えられない。

 シャイは、メリルスの奴隷闘者から、この蹴り――ロブ・パーサを習得した。ただの上段回し蹴りでない。どうやったら脳がゆれるか、相手の意識をなくせるかにこだわった、安全に勝つための蹴り技だ。

 そのためには、強烈な打撃はいらない。

 もちろん、あるていどの力はいる。

 だが、あるていどでいい。

 問題は角度だ。

 顎を斜め下から、逆方向の頭部斜め上に突き上げるようにして衝撃を伝える。

 拳でも蹴りでも、理屈はおなじだ。しかし手より足のほうが力が強い。どちらが有効なのかはあきらかだ。

 真横でもいいが、それだと首が強い闘者にはきかない可能性がある。もう一つ、側頭部を狙って平衡感覚を狂わせるという方法は、一般に耳のすぐ裏だといわれているが、当たりどころが狭く、確実性が低い。たんに脳をゆらす効果もあるが、顎より大きな衝撃が必要となる。

 この脳をゆらす打撃は、強く相手を叩くということには、まったくこだわっていない。もし、この蹴りを腕で防御すれば、素人でもうけきることは容易だろう。

 狙うには、いきなりロブの位置へ蹴り込むだけではダメだ。下段の位置――アーマ・パーサや、中段のスクルに蹴りを散らしながら、相手の視線を下に向けておかなければならない。

 不意をついてこそ、効果がある。

 さらにそのためには、普通にロブ・パーサを放つよりも、もっと近い間合いで蹴りを放ったほうがいい。こんな距離、こんな体勢で顔の位置まで脚が上がることはないだろう、そう思い込ませることが重要だ。そして、速さも必要になる。せっかく不意をつけたところで、相手に見えてしまったのではかわされる。過剰な力はいらないが、風さえも切るような鋭い一撃。

 それらのすべてが、脳をゆらすという一点のために集中したときにだけ、芸術の域にまで達するほどの『レック』が見られる。

 オルダーンの人々は、シャイの一蹴りだけで、熱狂していた。

 メリルスとはちがって、制限時間も設定され、判定での勝敗もあたりまえになっているこの国では、そこまでレック勝ちにこだわる必要はない。選手は、一撃必殺の技よりも、いかに点数を稼げるかのほうを重要視する。だから無謀な打ち合いには応じない。まず防御を固めようとする。その防御の間隙をぬって、攻撃を当てなければならない。

 だが、それでは力をこめた強烈な一撃は放てない。大振りしたのでは、簡単に避けられてしまうからだ。ならば、力を抜いた軽い攻撃を何発も量産するようになる。

 シャイが放ったような軽い打撃でも相手を沈めることは証明されたが、それとは異質の点を取るための打撃だ。重量級であるならば、それでも充分かもしれない。しかし軽量になればなるほど、それだけでは有効打としてとぼしいから、防御の上からでも手数を多くだし、審判に積極さを表現するようになる。

 点を取り合うという意味においては、オルダーンの技術は眼を見張るものがある。だが相手を完全に打ち倒すということにおいては、この国の蹴術は退化してしまっていると言わざるをえなかった。

 一撃に命のかかったメリルスとくらべれば、すべての面において、緊迫感が欠けていた。現に、メリルスでおこなった試合では、この蹴り技はまったく決まらなかったのだ。

 シャイは、その後も五試合消化したが、みな同じようなものだった。一試合だけ判定にもつれこんだが、あとは圧勝だった。

 これ以上、オルダーンにいる必然を感じることのできなかったシャイは、わずかの滞在でそこを去ることにした。

 得るものがまるでなかったわけではない。

 かつてオルダーン王者にまでのぼりつめた男――《炎鷲シャリーク》と呼ばれた過去の勇者と知り合うことができたのは、シャイにとって大きな収穫だった。その男は、かつての王者だというのに、シャイの所属したギルよりも、もっと格の劣るギルで闘教師をしていた。

 落ちぶれた王者の成れの果て……そう国内ではバカにされていた男だった。

「こわい眼をしてるね」

 オルダーンでの最後の闘いとなった試合を終えたばかりだった。彼は、控室に戻ったシャイにそう声をかけてきた。

「どこまでいくつもりだい?」

 答えに窮したシャイに、彼はこう続けた。

「このままいけば、ここでは一番も夢じゃないよ」

「……」

「やっぱりその眼、べつのものをめざしてるんだね」

「点の取り合いには興味がないんだ」

「まあ、それもいいだろう……。でもそこは、こことは異質の世界だよ。キミのロブでは、まだまだ甘い――」

 そう言いおわるよりもはやく、かつての王者は動いていた。

 信じられなかった。

 その男との距離は、ないに等しいはず……ほとんど密着した状態で、彼は話しかけてきたはずだった。

 自分の得意技の、さらに上をいかれた。

 鞭のようにしなった右足が、空気をえぐるように襲いかかってきた。超至近距離のロブだ。

 思考では、なにがおこったのか理解できていなかった。

 ただ、身体が反応しただけだ。

「よく、かわした」

 彼は言いながら、次の攻撃へ。

 左のスクル・パーサ。

 防御した右腕が痛い。

 防御で阻んだはずの左足は、床に着地することなく、続けざまに舞い上がっていた。

 左の爪先が、頬をかすっていった。

「なんのつもりだ!?」

 スクルから、ロブへの連続の蹴りをなんとか避けたシャイは、そこでやっと言葉を発することができた。

 だが――!

「うぐっ」

 苦しみの呻きをともなって、シャイは屈み込んでいた。

 右の膝蹴りだった。

「もしキミが、本気で異質なる世界へ行こうとしているのなら、ムマへ渡れ」

「うぐぅ……、ム、ムマ……!?」

 シャイは呻きまじりに、彼を見上げた。

 落ちぶれた?

 過去の王者だって!?

 そこから見下ろしていたのは、まぎれもなく《炎の鷲》だ!

 赤い鷲が、獲物を見下ろしていた。

 スクルを防いだ右腕が、痺れて動かない。シャイのルースン級より、彼は一つが二つだけ重い階級のはずだ。それほど力がちがうということはない。まして、現役ではないのだから。

 速いのに、重かった。判定を狙うような男なら、こんな蹴りを持っているわけがない。シャイの体得した、脳をゆらすための蹴りとも根本的にちがっていた。この男は、こすい技術なんかじゃなく、力だけでレックを狙える。いや、おそらくこの男が闘うときは、レック勝ちしか考えていなかっただろう。

「こ、これが王者かよ……」

 やっと立ち上がることができたシャイは、重く言葉を吐きだした。まるで、負け惜しみのような響きがあった。

「落ちぶれたのは、フリか」

「フリじゃないさ。いままでは落ちぶれていた。キミが、また熱くさせたんだ」

「……オレが?」

「ああ、そうだ。この国の蹴術は、いつのまにか大切なものを忘れてしまった。いつから格闘とは、技術の品評会になったんだ? ちがう……闘いとは、技と技のぶつかり合いのまえに、人対人の存在を賭けた殺し合いのはずだ! キミもいたことがあるというメリルスのように、本当に殺すことがいいとは思わない。だが、このオルダーンでは、大切ななにかが欠けてしまったんだ」

「……それに失望して、弱小ギルで、なあなあと日常をすごしてたっていうのか?」

「そうだ。この国の若者に未来はない。そんなアホどもに教えたところで、時間の無駄だ」

 落ちぶれたとバカにされていた男が、そのバカにした者たちを、すっぱりアホと断言するとは……。

 思わず、シャイはこみあげてくるおかしさに、口許をゆるめた。

 膝をくらった腹部は、まだ激痛に焼けただれていた。右腕も、まったく動かない。たが、この男のあまりの爽快さに、笑いをこらえることができなかった。

「いいか、ムマだ。ムマ島だ。そこで、一試合だけでもいい、本場の蹴術を観てこい。ムマの国技『ムサンマ』だ」

「ムサンマ……」

「それを観れば、いまの攻撃の意味がわかる……そして、それを眼にしたら、リュウハンへ行け。ソン・リョウメイという男に会うのだ」

「リュウハン? あそこは外国人が入ることはできない」

「テメトゥースからなら入れる」

「オレは、市民じゃない」

 シャイは、当然のごとく言った。オルダーン人の彼よりも、同じサルジャークの王都に住んでいた自分のほうが、そのあたりの事情はよく知っているつもりだ。

 リュウハンに入国できるのは、テメトゥース栄華連が市民であるということを保証した者だけに限られている。その審査は、リュウハン側の意向で、かなり厳しいものとなっているはずだ。

「これを持っていけ」

 そう言って彼は、シャイに丸めた紙を渡した。いまの攻撃のさいにも潰すことなく持っていたようだ。

「その書状があれば、入国できる」

 そんな話は信じなれない――とでも言いたげに、シャイは紙を広げてみた。

「ダメル闘技場に上がったことのある人間ならば、常識として知っている」

「あんた、テメトゥースに?」

「何試合かやっただけだ」

「勝ったのか?」

 彼は肩をすくめるだけで、その問いには答えてくれなかった。

「ダメルに上がるときに、栄華連のお偉いさんたちから、その話をされる。テメトゥースは唯一、リュウハンと交流を結んでいる都市ということは有名だが、ではなぜ、そういう交流を結ぶ経緯になったのか、わかるか?」

 と、彼は問いかけた。

 考えあぐねたシャイは、言葉を発しない。その無反応をどう解釈したのかはわからないが、彼は説明をはじめた。

「……リュウハン側の事情は、いたって簡単だな。経済的な理由しかない。長い鎖国により、あの国の懐事情は苦しいらしい。他国と国交を結ぶのは、西の大国として体面がたたないだろうから、一都市と結んだ。地理的にもすぐとなりだから都合がいい。――ではテメトゥース側の思惑はなんだ?」

 試すような視線をおくったが、シャイの表情に変化はなかった。

「経済的な理由ではない。たぶん、世界で一番金を持っている都市なんだからな。では、ほかになにがある? 軍事同盟という思惑か? それもない。もっともテメトゥースに攻め込むおそれのある国が、ほかならないリュウハンなのだからな。では?」

 そこで、いまではシャイの手のなかにある一枚の書状に、彼は眼を向けた。

「その理由が、それだよ」

「格闘家……ってことか?」

「そうだ。テメトゥースの利益はそれしかない。栄華連は、自分たちの闘技場に全世界の闘者を上げようとしている。そのための交流だ。それに、リュウハンは体術・武術ともに、最古の歴史をもつといわれる国だ。その技術を世界の格闘家たちに伝承させるという意図もある。そのことが、いずれは自分たちのめざす理想に通じていると考えているのだろう」

「むずかしいことはいい。つまり、この紙切れがあれば、入国できるんだな?」

「そうだ」

「で、そのなんとかって人は?」

「ソン・リョウメイだ。キミには、右の牙が不足している。その男は、拳を握ることなく打撃を繰り出す達人だ。わたしも闘ったことがあるが、恐ろしく強い。いまは、リュウハンの東のはずれにあるコウタイという町にいると、手紙には書いてあった」

「そんなところから、ここまで手紙が届くものなのか?」

「それはわたしも不思議に思うが、現に届いている。これまでに五通もな。残念なことに、こちらから返事を出す手段はないのだが……」

「親しいのか?」

「ああ。最大の友だ」

炎鷲シャリーク》は、晴れやかに答えた。

「……あんたは、もうやらないのか?」

 少し間をおいて、シャイはそう問いかけた。

「おれは、もうオイボレだ」

「嘘つけ、オレよりも強いじゃないか」

「ま、キミのおかげで、育てるほうなら本気でやってみてもいいと思うようになったがね。いずれ、キミと王者をかけて、私の弟子が闘うことになるかもしれん」

 シャイは、興味さなげにその言葉を受け流し、怖いことを口にした。

「あんたとなら、本気で闘ってみたいがね」

「おや、キミがその気なら、いますぐにだってやってあげるよ」

 真剣なのか、冗談なのか、彼は意味ありげに眼を細めた。

「もし、いまやったら……やっぱりオレは、勝てないか?」

「教えといてやる。強いか弱いかは実力の優劣だから、すぐにわかる。はっきり言ってしまえば、私のほうが強いし、キミのほうが弱い。だが、勝つか負けるかは、べつの問題だ。それは、だれにもわからない。どんな最強の王者であろうともな……」


       *  *  *


『なぜなら、勝敗の行方は、時の運なのだから――』

 気がついたときには、もう敵は、だれ一人立っていなかった。

 警備武擁団の男たちが全員束になってかかっても、この青年にはまるで歯がたたなかったということだ。

 剣を持っていたときよりも、剣が折れてからのほうが、シャイの動きは、より研ぎ澄まされていた。

「おい、おまえさん! なにしとるんじゃ、はやく逃げるぞい」

 その声に、シャイは振り返った。

 あの老人だった。

「逃げるつもりはありません。オレには、会わなければならない人がいる」

「つれてってやる」

 あたりまえとばかりに、老人は言った。

「梁明じゃろ。おまえさんがこの町にきた理由は」

「知ってるんですか……!?」

「知らんとは言っとらんぞ」

 老人――孔仁コウジン老は、さらりとそう答えた。

 たしかにそのとおりだ。それに武擁団の男たちも、老人とソン・リョウメイの関係をほのめかしていたではないか。

「はやくしたほうがよい。逃げた仲間たちが仕返しにくる」

「それならば、返り討ちにするまでです」

「そんなことでは、このさき、命がいくつあってもたりんぞ。『災厄の幸』もほどほどにせねば」

 孔仁老は、杖の力を借りて歩きはじめた。

「じいさん……」

「おっと、そうじゃ」

 シャイが追いかけようしたときに、老人が振り返った。

「そこまでは、遠い。おいぼれの身ではちと大変じゃ。おぶってくれ」

 こうして、シャイは老人をおぶりながら、コウタイの町中をあとにした。騒ぎに野次馬と化していた町人たちは、その姿を好奇な眼で見送っていた。

 災厄の幸――。

 シャイは、これからのめぐり合わせに幸運を感じるのだろうか、それとも……。

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