翠虎の章 8/9
8
シャイから殴りかかった。
左拳。続けて右の蹴り。
いずれも腕で払われた。
左の蹴りを返される。
中段ではない。足にきた。アーマ・パーサだ。
それだけで倒れそうになった。
トーチャイの闘神のごとき攻撃は、ここからが本番だった。
右の牽制打。右の中段蹴り。左正拳。左膝蹴り。
それで一つの技だ。
そして離れるために、前蹴り。
シャイは、されるがままだった。だが、さきほどのように素人臭さは消えていた。かろうじて致命打も避けている。
とはいえ、一発一発が重い。
このままでは、あといくつかの攻防で、力尽きてしまうだろう。
どうにかしなければ……。
焦りが脳裏にわいた、そんなときだった。
「右だ!」
梁明の声が聞こえた。
トーチャイの拳が、視界の外から割り込んできた。
しまった!
右の曲突きだ。なんとか避けた。
それは紙一重。しかし、立て続けにトーチャイは放っていた。
左拳。下から来る。
昇突き。
ダメだ!
顎に……!!
場内が、大きく轟いた。
シャイの身体が、渇いた泥人形のように崩れた。
「終わったな……」
客席でそうつぶやいたのは、ゾルザードだった。
「次の相手は、あいつじゃない。ムサンマになったようだ」
となりで観ているヨシュに言った。
「ふ~ん、善戦はしたけどねぇ。ま、こんなものだったってことなんだろうねぇ」
メユーブも、好き勝手に感想をもらす。
「あんたとの闘いも観てみたかったけど、しかたないねぇ」
「……」
ヨシュの身体が震えていた。
肩が痛い。
このままでいいのか!?
このまま、あいつと決着をつけなくてもいいのか!?
「……許さない」
「え?」
あまりにもボソッと口にしたので、メユーブにもゾルザードにも、ヨシュがなにを言ったのか最初はわからなかった。
「許さない……オレは、まだ勝ってない!」
立ち上がっていた。
「まだ勝ってないっ!」
「ヨシュ!?」
闘いを望んでいたのは、あいつだけじゃない!
いや、本当に望んでいたのは、オレのほうだ!
行き場のない感情がはじけた。
爆発した。
「シャ――――イ!!」
その声に、広い客席が静まり返った。それだけの声量、執念を感じさせる声だった。
「こんなところで終わっていいのか!? オレたちの決着は、まだついてないっ!!」
* * *
だれかに呼ばれたような気がした。
(オレは、なにをやっている……?)
よく考えられない。いま、なにをやっていたんだっけ……試合?
そうだ、闘いの真っ最中だったはずだ。
(どうしたんだ?)
状況がつかめない。だれかが、眼の前にいる。なにか声を出しているようだ。よく聞こえない。
「……できる……」
なんだ!?
呼んでいたのは、こいつか?
「……立てる……」
(ちがうな)
漠然とそう思った。
ちがうだれかに呼ばれた。
「立てるか!?」
審判?
「まだできるか!?」
(オレは、倒れ……たのか!?)
もとの世界に五感が戻っていく。
音……歓声が聞こえる。
匂い……土と血の。
眼……審判が見下ろしているのが、はっきりとわかった。
肌……ところどころ痛む。
声……できる!
「立てる……まだ、できるっ!」
シャイは、立ち上がった。
「できるか!?」
「できる!」
主審の言葉に、精一杯答えた。
身構える。
呼んだのは、だれだ?
梁明か?
サーディか?
(いや……)
一瞬だけ、視線を客席にはしらせた。
「どうした? どこを見ている? 打ち所が悪かったようだな」
すでに勝利を確信しているトーチャイが問いを放った。
「あいつか……」
シャイは、それには応じず、自身に向けてつぶやいた。
「もうおまえは、闘えない。負けを認めろ」
「オレは、負けられない……あいつと闘うまでは……」
「ならば、終わりにしてやる。来い!」
わああ!、という歓声とともに、試合が再開された。
トーチャイの攻勢は変わらない。
左右の拳。
左の蹴り。
とにかく必死に防いだ。
「打ちおわりに合わせろ、天鼬!」
梁明の指示どおりに、トーチャイの連打の直後に蹴りを出すが、むこうは防御も完璧だった。
「攻撃が読まれている」
だったら、どうすればいい!?
その思いは、声にはならなかった。
声を出す余裕もない。
「読まれない攻撃をするのだ」
そんなことができるなら、もうとっくにやっている!
「無理でもやるのだ、勝ちたければ!」
そのとき、トーチャイの左蹴りが迫ってきた。脇腹を狙う必殺のスクル・パーサだ。
これが当たれば、終わりだ!
また腕でうけるか!?
ダメだ、これ以上は折れる!
出した結論は、下がるしかない――。
シャイの腹をかすめて、トーチャイの左足が通り過ぎていく。
瞬間、ひらめいた。
まえの試合、アザラックとアーノスの闘いが頭をよぎる。シャイは、跳び上がった。
膝だ!
アーノスのやったような飛び膝蹴り。
「甘い!」
真正面から突き刺してくる膝頭に、トーチャイは慌てることもなく、両手を出した。
いや、膝はその手には命中しなかった。
「なに!?」
膝の軌道が変わった。
なんだこれは!?
トーチャイには、それがなにかわからなかった。
膝蹴りではない。
足の甲が、左眼の外側からやって来る。
そんなはずはない!
近すぎる……ヤツと自分とのあいだに、そんな距離はないはずだ!
「なんでもいいから、当たれ!」
シャイは、叫びながら放っていた。
この局面を打開できる技は、これしかない。
超至近距離からのロブ・パーサ!
だれもが、わが眼を疑った。
接近しすぎだ。
もはや、回し蹴りの距離ではない!
だが、シャイの右足は、トーチャイの側頭部に吸い込まれていった。
「グッ!」
頭を射抜かれたトーチャイは、しかし倒れなかった。
踏みとどまった。
「き、きかんっ!」
フラつきながらも、懸命に立っている。
「きめろ!」
梁明の声と合わせるように、シャイは放った。右の掌打。すべてをかけた。全力で打ち込んだ。これできまらなければ、こっちの負けだ。
右掌打は、顔面にぶちあたった。
胸か腹ではない。
初めて顔を掌打でとらえた。
「う……うう……」
すでに蹴りで揺れていた脳が、悲鳴をあげていた。直立は不可能だった。
《狂犬》が――ムサンマの巨星が、沈んだ。
* * *
「これで勝ったと思うなよ……運がよかっただけだ、それだけだ」
勝ち名乗りをうけたシャイに、トーチャイが語りかけた。負け惜しみを言っているのに、不思議と表情は穏やかだった。
「ああ、思ってない」
「次は、負けない……絶対に」
「またやってやる、安心しろ」
そう告げたあと、シャイはつけたすように……。
「もし、ムマに行くことがあったら、今度はおまえに賭ける」
「バカなヤツだ、おまえは」
トーチャイは、最後に得意の台詞を口にした。
その唇には、《狂犬》と呼ばれる男にはまるで似合わない、とてもさわやかな笑みが浮いていた。
八
いやな胸騒ぎがする……。
あの人の勝利だというのに、なぜこんなにも不安を感じるのでしょう。
素晴らしい勝利。ムサンマの強者であるトーチャイ・ギャッソットを倒したあの人の力は、やはり本物だった。しかも、決着は蹴術でつけたのです。
メリルスのサーディ。
瀏斑の渦響。
地元のヨシュ・アザラック。
そして、あの人……シャイ・バラッド――。
この四人のなかから最強の一人が決まる。
それなのに、明日が来なければいいと思ってしまう。
その不安の源は……あの刀?
まるで《光の塵》のような輝きをほとばしらせたあれは、いったいなんだというのでしょうか?
ただの刃ではない……なにか、人知を超えた恐るべき存在のような……。
あの人を……あの刀を中心に、これから世界は動いていく……そんな思いにかられるのは、わたしの妄想でしょうか?
不吉なこの予感は……。
9
試合後の控室に、サーディが駆け込んできた。てっきり、勝利の祝福をしにきたのかと思ったが、ちがった。
「ダンナ……リアンさんが!」
それを聞いたシャイは、まだ頭がフラつくのも忘れて、控室を飛び出していた。
向かったのは、芳林酒家だ。酒家の二階――シャイたちが借りている従業員用の部屋の寝台に、莉安が寝かせられていた。
「試合中からおかしかったが……終わっても、もとに戻らなかった……」
いつものように惚けたような、虚ろな表情になり、そして意識を失った。
「オレがだれだか、わからなくなってた」
サーディからの報告をうけて、シャイは眠っている莉安に近づいた。
それまで看病していたファーレイが、シャイに気押されるように場所をあけた。
「ダンナ……言っていいか? その剣だろう……彼女がおかしくなったのは」
シャイは答えなかった。だが、サーディにわかるものが、いつもいっしょにいるシャイにわからないはずがない。
「なんなんだ、その剣は!?」
「『覇王の刃』……そして彼女は、伝説の《名砿》です。一〇七のこの世ならざるもの……その一つ」
ファーレイが、かわりに説明をした。説明されても、すぐに理解できる話ではない。いや、信じられる話ですらない。
「死ぬのか……リアンは?」
シャイは、ファーレイにではなく、後ろにいるであろう梁明に問いかけていた。
「言い伝えが本当なら……」
ファーレイが答えた。
「刀を使えば使うほど……作り手である彼女の生命力がなくなっていく……そう伝えられています」
言いづらそうに、ファーレイは続けた。
「そんなものを、オレに使わせてたのか!」
憤りを、梁明にぶつけた。
しかし振り返ったシャイに、梁明はしっかりと視線を合わせて、こう言った。
「君に使われることを、彼女は選んだのだ。そして彼女に選ばれた君こそが、それの力を引き出すことができる」
「この期に及んで、まだ使えって言うのか!?」
「それは君の自由だが、それの力なくして彼を倒すことはできん」
「リアンを犠牲にしてまで、勝ちたくはない……それに、もしこの《ライジン》を使って勝ったとしても、それは本当にオレが勝ったことになるのか!? いつのまにか手に戻っていたり、つかめないはずの右手が使えるようになったり、姿の見えない相手の気配がわかったり……実力以上のことができたのも、全部こいつのおかげなんだろ!? 結局、剣の力を借りただけじゃないか!?」
「……」
「こんなものに頼らなくても、オレは闘う! そして、勝つ!」
シャイは、手にしていた《雷塵》を投げ捨てた。部屋の壁に乾いた音をたてて、それは激突した。
* * *
それから莉安は、翌朝まで目覚めなかった。
「う……」
「リアン!」
一睡もしなかったシャイが、瞼を上げた莉安に強く呼びかけた。
「あなた……だれ?」
「リアン!?」
思わず、莉安の身体をゆすっていた。
「オレもわからないのか!?」
「あ……天鼬さま?」
「そうだ、わかるか!?」
「わ、わからない……いえ、天鼬さま……です。わかります、天鼬さま」
まだ頭がはっきりしないようだ。
「このまま休んでろ」
「い、いえ……天鼬さまといっしょに……」
「試合までは、まだだいぶ時間がある」
「……そのときまで、いっしょにいてくれますか?」
「ああ」
シャイは、ぎゅっと莉安の手を握った。




