翠虎の章 7
剣の勝負は、シャイの圧勝だった。
やはり剣を手にすれば、ナーダ王者の実績がものをいう。
観客も、シャイの剣さばきに酔いしれた。
ナーダ聖技場を馬鹿にしていた者も、一回戦のシャイ対グダル戦を観てから皆無になっている。いまでは素直に、その妙技に喝采をおくっていた。
二つの刃ではたりない。
だれもが、そう驚嘆せずにはいられなかった。
トーチャイは、さきほどのように、剣技に蹴り混ぜるようなこともできなくなっていた。そんな余裕などない。そういう闘いを日頃から鍛練でもしていればべつだが、付け焼き刃では、しょせん無理なことだ。
さきに右の短剣が弾き飛ばされた。
次いで左の長剣が、まさしく《雷の塵》のように砕かれる。
トーチャイは、絶体絶命。
シャイにとっては、最大の好機。
だがシャイは、再び《雷塵》を地に突き刺していた。
「これで文句はないな?」
「バカなヤツだ」
こうして、蹴術対ムサンマの闘いが実現することになった。
身構える二人。
同競技ともいえる二つだが、その体勢からもちがいがわかる。
上半身の姿だけ見ると、拳術とそうかわらない蹴術。ムサンマのほうは、それよりも伸び上がった姿勢で、利き足をやや大きく引いている。腕は、利き腕のほうを顔前で防御にあてて、片方を一直線に伸ばしている。
これは、拳のあとに足を打つことが一般的な蹴術と、あくまで蹴り中心の組み立てとなるムサンマのちがいでもある。
蹴術において、拳は重要だ。だから、拳術とまではいかないが、すぐ拳を出せるよう前屈みになっている。両腕は防御のためというよりも、拳をいつでも打てるように顔前にもってきているのだ。
ムサンマのほうは、拳を打つかまえ自体になっていない。片腕は距離を計るためと牽制のために伸ばしているし、顔の前の拳は開きぎみに相手のほうを内側に向けている。そもそも拳は、蹴りの攻防のさい接近したときに使うだけだ。
そのかわり、蹴りはいつでも打てる。
「おお!」
場内がわいたのも、トーチャイの突然の蹴りに驚いたのだ。
とくに、このトーチャイという男は、利き足の蹴り一本で押してくる極端な闘い方をしてくる。拳での攻防など、想定していないはずだ。
蹴る、蹴る、蹴る!
シャイは、いずれも大きく下がってかわしていくが……。
「なんだ……ありゃ?」
思わず客席で、サーディが声をあげる。
そこから少し離れた場所でも。
「なんですか、あれは!?」
医師の診断を終え、自分たちの席に戻ったアーノスとデイザーだった。アーノスは、自身の悔しさと痛手も忘れ、苦い表情になっている。
とにかく、シャイの避け方が、とても素人臭かったのだ。
わざわざ剣を捨て、ムサンマに挑んだというのに、拍子抜けしてしまうほど様になっていなかった。
シャイのことを好敵手と信じきっていたアーノスにとっては、衝撃的な光景だ。実際に闘ったことのあるサーディならまだしも、アーノスには「師匠であるデイザーが認めている」という事実でしかシャイの蹴術の実力はわかりえないのだ。
「はじめてなんだろう」
デイザーは答えた。
はじめて? なにが?
アーノスには意味がわからなかった。
あまりにも初歩的な問題だったからだ。
「ま、まさか」
その初歩的な問題に、考えが行き着いたようだ。
「ひ、左!?」
* * *
なんだ、この違和感は!?
シャイの胸中に、明確な焦りが広がる。
なにかが、ちがう。
トーチャイの蹴りに、うまく身体が反応できない。なんとか避けてはいるが、とても無様な格好だ。というより、おたがいに身構えたときから、なにかがおかしいのだ。
「おまえ、試合する気あるのか!?」
業を煮やしたトーチャイが、声をあげる。
「逃げるだけでは、闘いにならん!」
そんなことを言われても、シャイ自身どうすることもできないのだ。トーチャイの蹴りを大きくかわすことしかできない。攻撃どころではなかった。
「少しは期待したが、そんなものか!」
失望の一撃が飛んだ。
大きく後方に下がることを見込んで、トーチャイは極端に深く踏み入れている。
潰すための……終わらせるための打撃だ。
「!!」
かわしきれない!
シャイは、咄嗟に右足を出した。
最初から大きく後退しようとしていたから、こういう防ぎ方が成功したのだ。
足の裏。
トーチャイのスクル・パーサを足の裏で受け止めた。
だが、身体への痛手は最小限ですんだとはいえ、その衝撃をすべてを殺すことはできなかった。
空中高く飛ばされる。
落下したのは、導友者席の真下だ。
「左利きは、初めてのようだな」
頭上から声がかかった。
「左利き!?」
そんなはずはない。なぜなら、いまのいままで普通に闘っていたではないか。
「剣士としては闘ったことがあるのだろうが、蹴術では――」
人に指摘されて、ようやく気づいた。
「左利きを相手にするときの基本対策は、敵の右側へ動くことだ。つまり、君からみて左側だよ」
「攻撃は、どうすればいい?」
「自分の攻撃をただすればいい。相手に翻弄されるな。自分を見失ってはいけない」
「それで大丈夫なのか?」
「駄目だったら、また指示を出す」
梁明のその言葉に、シャイは思わず眉根を寄せた。
トーチャイが追い打ちをかけるところだった。左のスクル・パーサが、獲物を屠る猛獣のようにむかってくる。
シャイは、後方ではなく(背後は壁なので、どのみち後退はできない)、トーチャイの右側に動いた。
右の脇腹に腕を添えながら。
そこにスクルがぶち当たったが、距離が遠のいたことで威力が半減されていた。
すかさずシャイは、左の拳をトーチャイの右脇腹に叩き込む。
トーチャイがそれを嫌って、自分から右へと回っていく。シャイはそれに合わせて、さらに右へ。
ちょうど二人して、右まわりの舞踏を踊っているかのようだ。
トーチャイの左蹴りと、シャイの左拳。
その攻防が、しばらく続いた。
シャイに、いまより技術があったならば、もしくはトーチャイが左右の蹴りを使い分ける技巧派だったならば、勝負はもっとおもしろく展開していたはずだ。
「真正面から打ち合え、二人とも!」
客からの野次が飛ぶ。たしかに、このままでは埒が明かない。それに、トーチャイは利き足の攻撃だが、シャイは正直言って戦力外の左突きだ。あきらかにシャイのほうが負けに近づいている。
シャイは、思い切って足を止めた。
右のロブ・パーサを放つ。
簡単に、腕で防御された。
お返しに、左のスクルをもらった。
右腕が折れたかと思うほどの衝撃。もし防御できなかったら、本当に一発で終わってしまうかもしれない。
トーチャイは、連続で打つつもりだ。
防御の上からでも、それはたまらない。
シャイは左の前蹴りを出した。不慣れな左蹴りだが、スクルを封じたばかりか、それでトーチャイとの距離も開くことができた。
どうにか、ここから建て直す。
とにかく、トーチャイは同じ技しか使ってこないのだ。対処法なら、いくつもあるはず……絶対どうにかなる。
「むこうは左の中段蹴りしかやってこない、と思ったら、彼の術中にはまるぞ」
梁明の声が届いた。まるで心を見透かしているようだ。
「必要がないから使ってこないのだと、頭に入れておけ」
「じゃあ、どうすりゃいいんだ!?」
「とはいえ、その技を破らなければ、なにもはじまらんな……地揺拳の奥義は教えたな」
「一回だけ聞いただけだぞ!」
「ならば、できる」
シャイの口許が歪んだ。
苦笑したのだ。
「どうした、なにが可笑しい?」
唐突に笑みを浮かべたことが癇にさわったのか、トーチャイの声には怒りがこもっていた。
「たしか、こうだったな」
トーチャイを無視して、シャイはかまえをとった。いままでとはちがう。通常よりも低い姿勢だ。
「なんだ、それは!?」
「いいから打ってこいよ、バカの一つ覚えの蹴りを」
シャイは挑発した。
その挑発にのったからとも思えないが、トーチャイは渾身のスクル・パーサを放った。
シャイが低くかまえているので、中段というよりも、上段と中段のあいだ――肩のあたりに激突、
いや……シャイの身体が、さらに沈んだ。
低い、低い。
右足が、地を這うように蹴りだされる。
トーチャイの左足が、シャイの頭上を通過していく。
上段へのロブ・パーサならそういう避け方もわかるが、中段蹴りとなると、常識の外だ。しかも、シャイは同時に下段蹴りを放っている。
相当の下半身の力と、柔軟性が必要だ。
「な、なに!?」
これぞ、奥義『地泳』の蹴りだ!
シャイの右足は、トーチャイの軸足に命中した。
奥足へのアーマ・パーサだけではない。トーチャイが体勢を崩したところに、必殺の一撃がのびてゆく。
右掌!
鍛え上げられた鋼の肉体に、右の掌打がぶちあたる。
トーチャイの身体が弾き飛ばされた。
背中を壁に打ちつける。
「グッ……」
呻きはもれるが、すぐに立ち上がった。驚くほど頑丈な肉体だ。
「おまえ……おれを本気にさせた」
ボソッと口を開いた直後、トーチャイは、それまでとはくらべられないほど速く動きだした。
右の蹴り。
「!」
虚をつかれた。防御する暇もなかった。右足が、シャイの左太股を叩いた。
しまった!、と意識したときには、次の攻撃がもう飛んでくる。
左の拳!?
いや、これは!
〈ピシッ〉
なんだいまのは!?
鮮血が舞っている。
瞼の上が切れた。
ムサンマの真骨頂――肘打ちだ!
(まずい!)
このままでは、一気にやられる。
反撃だ、反撃しなければ!
「クッ」
歯を噛みしめて、シャイは左拳を出した。
当たったのは、防御する腕だ。さらに接近された。首に両腕を巻きつかれた。
「膝がくるぞ!」
梁明の忠告よりもはやく、衝撃がきた。
顎は免れたが、鎖骨を強く打った。
痛いというよりも、熱い。
はやく振りほどかなければ、また打ち込まれる!
必死にもがいた。
どうやったかは覚えていない。
「バカなヤツだ、おまえは! おれに本気を出させるなんて」
間合いがあいているということは、どうにかできたのだろう。
「あの試合……だったらなぜ、《風の使い》とは、しょっぱい闘いしかできなかった!」
どういうわけか、そんな言葉が口から飛び出していた。
「サワルディンが本気じゃなかったからだ」
「なに……!?」
「あいつが全力でくれば、おれも全力でいった! おれにとって、勝ち負けはどうでもいいことだ。勝つために闘うのでない」
「だったら、なんのために闘う!?」
「そんなことは知れている」
トーチャイは、迷いもなく言った。
「熱くなるためだ」
「……!」
意外だった。
そういうことを言うのが、一番似合わないような男だ。勝利至上主義……または、金のため……そんな闘者だと、シャイは一方的に思い込んでいた。
「サワルディンは、おれを熱くすることができなかった。だから、手を抜いた。おまえはちがう」
それは、シャイを認めた、ということなのか?
「バカなヤツだ、おまえは」
心なしか、その台詞を繰り返すトーチャイの瞳が、嬉しそうに輝いているようだった。
シャイは、深く息を吸い込んだ。
頭で考えるのはやめだ。
技術に頼るな。ただ殴り合う。
オルダーンで、デイザーが語っていたことを思い出した。
いまの蹴術は、技の品評会になっている――。
闘いとは、自分が生きているということの主張だ。存在をかけている。闘うことによって、自分を表現している。
だから負けたくない。
表現するものは、『技』ではない。
自分自身だ。
「ふう――」
シャイは、吸った息をゆっくりと吐き出した。
あらためて、かまえをとる。
それに応えるように、トーチャイも全身に力を溜めた。
《雷狼》と《狂犬》――。
ここに、二つの存在がぶつかり合う。