翠虎の章 5
左肩が痛い。
地面にぶちあたった痛みか!?
ちがうぞ……この痛みは、投げじゃない……。
いつもの痛みだ!
ゾルザードに腕を極められたときの激痛。
あの男が負けるなと言っているのか!?
それとも、負けを認めろと言っているのか!?
(ゾルザード……)
ぼやけていた視界が、わずか戻った。
「立てるか!?」
そこでヨシュは、自分が審判に呼びかけられていることを知った。
(た、立てる……)
足に力が入らない。
審判の顔が、ときおり歪む。
〈おれじゃない〉
……?
〈その痛みは、おれじゃない〉
なんの声だ!?
〈思い出せ、その痛みの原因を〉
ゾルザードの声?
いや、そういうものではない。心のどこかで響いている。
自身の声。
心に住み着いている、妄執と化したゾルザードの声だ!
(おれじゃない……だと?)
「立てるのか!?」
「立てる!」
客席からの歓声が後押ししてくれた。
ふらつきながらも、なんとか立ち上がることができた。
「できるか!」
「あたりまえのことを訊くな」
身構えた。
たまにぼやけるが、はっきりとアーノスの姿が見える。
戸惑っているような、うろたえているような、そんな弱気になった表情だ。もう立ち上がることはないと信じていたのだろう。
そのアーノスの視線が、導友者席に向いた。
「一人じゃなにもできないのか?」
無意識に、そういう挑発的な言葉が口から出ていた。
「なんだと!?」
アーノスが、過剰に反応した。
「《炎鷲》だか、ソン・リョウメイだか知らないが、偉い先生におうかがいをたてなきゃなにもできないようなら、闘者なんかやめたほうがいい」
いつも一人だ。
近代闘技において導友者の果たす役割はヨシュも理解しているが、だれかの指示に従うのは性に合わなかった。
だれの命令もうけない。
自分の闘い方は、自分自身で決める。
このアーノス・ライドスも、あのシャイ・バラッドも、結局自分の力ではなく、伝説とさえいわれている二人によって勝ち上がってきたにすぎないのだ。
「ふざけるな! てめえは、もう死にかけてる! 次で終わりだっ!」
「投げは二度と通用しない」
アーノスのアーマ・パーサが、地を這うように迫った。
左足に力を入れる。
すごい衝撃だ。
剣を警戒しながらの蹴りのはずなのに、重い。深く踏み込んでいるかのように、体重がのっている。
しかし、耐えられるほどだ。
もし、自分の手に剣がなかったとしたら、どれほどの重い蹴りが飛んでくるのだろうか? 恐ろしくなる。
立て続けに、左の拳。
攻撃方法は、さきほどと同じ。
わざとだろう。
ならば、こちらもわざと避けない。
顔面に当たった。
これが本当に牽制打かと思えるほどの衝撃だ。素質は認めよう。
このあとは、右の直突き。
こちらは、左の曲突きを合わせる。
むこうも、それはわかっているはず。
ほら、さきほどのように防いだ。
ここからヤツは、密着して投げを打とうとする。
そうはさせない。後ろに下がった。
あいた空間に、剣を突き刺す。
いや、アーノスも、二度同じ攻撃が通じるとは思っていなかったようだ。踏み込んではこなかった。剣を紙一重でかわして、膝をたたき込んできた。
土手っ腹に、めり込んだ。
息ができない。
ダメだ。ここで隙をみせたら、負ける!
左拳。
いや、間に合わない。
右だ!
ヨシュは、剣を手放した。
再びの膝蹴りが、今度は顔面に飛んでくる。
なにもなくなった右拳を突き上げた。
昇突き。
ヨシュの右拳と、アーノスの膝が並んで上昇する。
右拳は、アーノスの顎に――。
膝は、ヨシュの顎に――。
同時に激突した!
世界が歪む。
不思議と気持ちがいい。
倒れたらダメだ!
ダメだ!!
「こらえろ、アーノス!」
むこうも必死に立っているのだろう……。
おい、なにを冷静に相手を分析している!?
この光景が、まるで夢のなかのようだ。自分が自分ではない。
これは、倒れるな。ああ……もう無理だ。
左肩が異常に痛い。
左肩……。
ゾルザードだ……ゾルザード、黙れ!
「アザラ――ック、なにをやってる!!」
本当に、ゾルザードの声がした。
うるさい!
おまえは、友でもなんでもない!
オレの敵だ、いずれ倒してやる!
……?
『アザラック』?
ゾルザードは、オレのことをそう呼ばない……だれだ?
だれの声だ!?
あれは……。
眼が合ったのは……シャイ・バラッド?
入退場口から、覗くように観ている。
なんだ?
左肩……ゾルザードに腕を極められた。だから痛むのだ。
(ゾルザード?)
ちがう……のか?
ゾルザードではない?
この左肩は……!
(思い……出した!)
あいつと、たしかに闘っている。
どうして忘れていたのだ。
まちがいない。
オレは、あいつと闘って……そして『負けている』――。
最初から、勝敗など関係ない試合のはずだった。ただの交流試合だ。それらしく闘っていればいいだけだった。だからそうした。あいつの剣を受け流して、それなりに攻防しているフリをしただけだった。
だが、ヤツは強かった。
むこうは誤解をしているようだが、オレがあいつの剣をすべてうけきったのは、本気で打ち合わなかったからだ。防御に徹していたからだ。
さすがは、ナーダ聖技場最強の男だと思った。だが、オレも負けられなかった。ダメルの……テメトゥースの看板を背負っていたのだ。
だから、反則をした。
接近したときに、左拳を使った。
審判の死角をついた。本人にもわからないように。
普段、剣術しか知らない人間の隙をついて拳を入れるぐらいは簡単だ。曲突きを脇腹に放った。強くは打たない。軽く衝撃をくわえただけだ。さいわい、むこうの導友者にも観客にもバレなかった。
一瞬、不可思議な痛みに気をとられたのだろう。あいつの攻撃がやんだ。その刹那、あいつの喉元に剣を突きつけた。
それで、勝ったことになった。
いや、それでは終わらなかった。
あいつは、審判による終了の宣告のあとに、頭上から打ち込んできた。だが、さきに卑劣な行為をおかしたのは自分のほうだ。
半歩右に動いて、その剣撃を頭からそらせた。それでも左肩に打ち込まれる。必死だった。ヤツの刃を弾いて、逆に斬りつけていた。
どうやったのかは、覚えていない。
身体が勝手にやったのだ。
やらなければ、こちらがやられていた。
あいつの右腕は、かろうじて切断まではいかなかったが、深く裂いた手応えはあった。もう剣を握れなくなるほどに……。
あれは、勝ちだったのか?
いや、負けだ。
勝てなかったから、拳を使った。
すくなくとも、『剣』の勝負では敗れたのだ。
忘れていたんじゃない。
思い出したくなかったんだ!
左肩――。
ゾルザードによる関節技の痛みではない。
あのとき左肩にうけた、あいつの剣圧だ。
再び闘いを挑まなければならないのは、むこうではない。
オレのほうだ!
もう一度……もう一度、闘いたい。
あいつのほうから、こっちの闘場に乗り込んできてくれたのだ。
こんなところで負けるわけにはいかない。
倒れない……。
倒れない!!
「そこまで!」
* * *
「よくやった」
控室に戻ってから、デイザーはそう声をかけた。
アーノスは、返事をしない。
寝台の上で仰向けになっている。顔には、布が被さっていた。
「いまは、あれでいい。これからだ。これからさきが重要だ」
その光景を横目に、シャイと梁明が通りすぎる。
かける言葉を知らなかった。
二人は、無言のまま控室をあとにする。
かすかに、背後から嗚咽が聞こえた。
* * *
「おつかれさん」
医師の診断をうけているヨシュのもとに駆けつけたのは、メユーブとゾルザードだ。
「やったじゃないか」
「……」
だが、ヨシュの表情は冴えない。
「すまんな、ゾルザード」
「?」
言われた本人には、思い当たることがない。
「おまえじゃない……」
静かに、つぶやいた。
「おまえじゃなかった……」