翠虎の章 4
控室に入ると、アーノスとデイザーの二人がいた。
西側の控室。昨日の一回戦で、偶数試合目の勝者がこちら側の部屋ということになる。いまごろ東側控室では、アザラックが入場の準備を終え、そろそろシャイの対戦者であるトーチャイ・ギャッソットが到着したころだろう。
「悪いが、オレが倒すぜ」
アーノスは、それだけをシャイに告げると、部屋をあとにした。
* * *
客席がわいた。
もはや、たった一人となった地元テメトゥース勢――ヨシュ・アザラック。
《炎鷲を継ぐ者》――アーノス・ライドス。
ともに、闘場の中央へ。
デイザーも、導友者席についている。
ヨシュのほうは導友者席が空いているが、彼はつねに一人で闘っている。導友者をつけてはいないのだ。
戦闘準備はととのった。
「はじめ!」
声とほぼ同時に、ヨシュが長剣をひらめかせた。
この試合も、アーノス側が真剣を認めたため、ヨシュの刃に皮革は巻かれていない。
アーノスは、大きく後方にさがった。
それでも鼻先すれすれで、刃が通りすぎていく。
この勝負、これでヨシュのほうが圧倒的に有利となった。先手を取り、なおかつ自分の攻撃範囲が広いことを相手に思い知らせたのだ。
ヨシュは、その後も連続で打ち込む。
アーノスに届くことはなかったが、むこうの出足を封じるということにおいて、充分に効果を発揮している。
これでいい。
これでアーノスは、蹴りの間合いに入ることができない。つまりは、すべての武器を奪ったことになるのだ。
逆にアーノス側から見ると、この戦況は非常にまずかった。先手を取られたことが、とにかく痛い。踏み込もうと思ったときには、すでに白刃が飛んできた。
ミリカ・バラッドとの試合で主導権を握っていたのは、先手を確保していたからだ。確保していたからこそ、むしろ剣を持つミリカよりも、素手であるアーノスの距離で終始、闘いは展開していった。
いまのままではアーノスにとって、もっとも遠い距離から放てるアーマ・パーサですら打てない。
ミリカ戦よりも困難なことは、先手後手の問題だけではなかった。
単純な武具の長さにも問題がある。ミリカの使用していた剣は標準の長さだったが、アザラックのものは通常よりも長い。身長や腕の長さといった、持って生まれたものについても、男と女とではちがう。
すべての要素が、アーノスの負けを意味していた。
アーノスのこめかみから、一筋の汗が。
だが闘教師であるデイザーの顔色は、試合前とまったく変わっていなかった。
「ならば、飛び道具を使うまで」
飛び道具……?
デイザーがなにについて語ったものかさだかでないが、アーノスはどうやらその意を察したようだ。
ヨシュが連続の攻撃を打ち終わった直後、まさしくアーノスは飛び上がっていた。
ヨシュは、虚をつかれた。
一気に間合いをつめるための飛び込みではない。
この飛翔が、攻撃そのものなのだ!
「もらった!」
アーノスの膝に、重い感触があった。
逆転の飛び膝蹴りが、ヨシュの側頭部にめり込んでいた。
一撃必殺とは、このこと……いや、ヨシュは倒れなかった。
「くっ」
苦しまぎれに剣を振った。
しかし、標的を大きく外す。
脳が波濤のようにゆれていた。意識が飛ばなかったことは、奇跡に等しい。
「オレの勝ちだ!」
アーノスの勝ち誇った叫びが、入退場口から観戦しているシャイにも届いた。というより、そのシャイに向けて、アーノスは放ったのだ。
とどめのロブ・パーサを狙った。
右足が跳ね上がる。
「待て!」
デイザーの制止がなければ、形勢は再び一気に変わっていただろう。
ふらつきながらもヨシュ・アザラックは、アーノスの蹴りに左拳を合わせていた。
動きの止まったアーノスの側頭部を、大振りの拳がかすめていく。
左の曲突き。
拳打には、直線に打つ『直突き』、弧を描くように放つ『曲突き』、下から上へ突き上げて顎を狙う『昇突き』の三つがある。本来の曲突きは、もっと小さい軌道で鋭さを重視するものだが、レックを狙うのに一番適している打撃といえるだろう。
アーノスは、通りすぎていくその一打に戦慄をおぼえた。
蹴りを途中でやめていなければ、確実に倒されていた。
偶然に放たれたものではない。
そのまえの、右手に握られた剣による一振りは、たしかに苦しまぎれのものだった。ヤケクソになった無様な剣筋だった。
しかし、いまの曲突きは、そういう目茶苦茶なものではない。
大振りではあったが、的確な一撃だった。
それはつまり、アーノスがロブ・パーサを放つことを察知して、アザラックは拳を打ち込んでいたことになる。
頭はふらふらのはずだ。
冷静な思考が残っているとは思えない。
「本能……か!」
アーノスは、わきおこる警戒感に距離をとった。
客席からは、なんで攻めねえんだ!、と野次が飛んだ。だがデイザーからも、攻めたてろ、という指示はない。
アーノスは、遠距離からの打撃を選択した。
アーマ・パーサで、足を狙う。
それで様子を見るつもりだった。まだ、どの程度の余力が残されているのかを。
ヨシュは防御することもなく、足に強烈な蹴りが入った。反撃は、やはり無様な剣の空振りだった。
アーノスは、チラッとデイザーを見た。
その眼が、懐に飛び込んでみろ、と告げていた。
その指示が、アーノスの迷いを断った。
右のアーマ・パーサの直後、接近して左の牽制打を放つ。命中した。続けざまに右拳。体重の乗った直突きだ。
これが決まれば、オレの勝ちだ!
ゾク――。
ちがう……ダメだ!
背筋が凍りつくような悪寒に、アーノスは頭を沈めた。
今度は、頭頂部を擦っていく。
「またか!」
ヨシュは二度までも、とどめの必殺打に左の曲突きを合わせてきた。
「こいつの拳……飾りじゃねえな!」
距離を取り直したアーノスがそう実感しているころ、客席ではゾルザードがつぶやいていた。
「もともと、拳術最強を目指していた男だ」
メリルスから渡ってきた当初は、そうだった。だが、その新人時代にメユーブに負けて剣を取るようになった。
いまでは剣のほうが主戦力とされているが、闘者を志した理由は『拳』のほうだ。
「ま、結局、それでは大成しなかったわけだが……あの曲突きだけは、本物だった」
アーノスは攻められない。
ふらふらのヨシュ。
観客から戸惑いのざわめきがわいた。
アーノスは、なにをやっているのだ?
いや、ヨシュの左拳は死んでいない。不用意に打ち合わないのは得策だ。
二発続いたということは、まぐれではない……それを理解したいまとなっては、無責任に「攻めろ」とは、言えなくなっていた。
拳でも、蹴りでも合わせられたのだ。それはつまり、アーノスの打撃すべてに合わせられるということだ。得意の膝で攻めても、曲突きは直突きとちがい、近距離でも威力のある打ち方だ。
(なにでいく!?)
アーノスは、脳裏で自身に問いかけた。
さきにこちらが当てればいいのだが、捨て身の踏み込みで、むこうは打ち込んでくる。危険だ。
一か八かの賭にでるか!?
「ならば、むこうのさらに上をいくまでだ」
そこで、デイザーが声をあげた。
「蹴術にこだわるな。アーノス、おまえの得意技は、もう一つあるだろう」
指示は届いた。
アーノスは意を決すると、アーマ・パーサ――右の下段蹴りから左の牽制打へ。
さきほどと同じ攻め手だ。
そして、とどめの右直突き。
変化のない攻撃。当然、ヨシュは左の曲突きを合わせてくる。
肩から入り込むように、遅れて左の拳が大きく弧を描いて飛んでくる。アーノスの伸ばした右腕の外側から。
アーノスは、右腕の軌道を上にあげた。
ヨシュの左拳が、その右腕にからみついた。
右の直突きは、相手の顔面に当てるためではない。防御のためだ。
ヨシュの左脇があいたその瞬間を逃さなかった。右手の剣に注意して、抱きつくように密着した。
しかしこれでは、相手の打撃を防ぐかわりに、自分の打撃も放てない。いやむしろ、普段ここの闘規で闘っているヨシュのほうが、組技を知っているだけ有利だ。もし倒されたら、立ち技しか知らないアーノスに勝機はない。
観客のだれもが、そう思った。
そのとき、ヨシュの身体が宙に上がった。
「!」
アーノスの肩書を忘れてはいけない。
蹴術の注目株という陰に隠れた、もう一つの栄光。
蹴投王者!
あまり日の目をみない競技だが、蹴り・拳のほかに『投げ』がある。
足にきているヨシュでは、とどまることはできなかった。
人形のように、アーノスの背後に投げ飛ばされていた。
自分の腰に乗せるようにして、背後に投げる。相手の状態が正面を向いているときに、それを『胸投げ』と呼び、背中を向けているときは『背面投げ』と呼ぶ。投げられたヨシュの体勢は斜めだったので、いまの投げは『胸投げ』と『背面投げ』の中間の技ということになるだろう。
ここまできれいな投げは、本場の試合でも見られなかった。実際の蹴投とは、蹴術でやっていけない闘者たちの救済競技のようなものだ。本当に投げを使う者自体が少ないうえに、使ったとしても客からの反応は薄い。
デイザーは「得意技」と言ったが、アーノスの投げも例外ではない。ほんの少し、リフステル(投げと寝技の競技)をかじっただけのものだ。正直、武器になるとは考えていなかった。
ここまできれいに決まったのは、幸運が味方してくれたとしか思えない。おそらくヨシュのほうも、投げ技などくらったことはなかったのだろう。ここの土を踏みしめてみても、投げを想定していないことがわかる。
寝技の攻防は多いだろうから、立ち技のみの競技よりは、たしかにやわらかい。力のある者ならば、相手の身体を持ち上げて倒すこともあるだろう。それを「投げ」と呼ぶことも多い。だが本来、それは「投げ」とは呼ばない。投げ技とは、いまのように自分の体重も乗せて、相手の身体を地面に叩きつけることだ。
ヨシュは、左肩から地面に激突していた。
頭部も打ちつけていよう。
この土の硬さでは、まちがいなく必殺の一撃だ。このまま立てなければ、アーノスの勝ちになる。
アーノスは、すでに立ち上がっていた。
もしこれが寝技を知っている選手だったならば、関節にもちこんで瞬時に勝負は終わっていたはずだ。
ヨシュにとっては、わずかばかり敗北が長びいたということになる。
「立てるか!?」
主審が、ヨシュに呼びかけた。
ダメルの闘規では、倒れてからの時間は数えられない。拳術や蹴術の試合では、完全に失神していた場合などを除き、ガルント行為──十数えるうちに立ち上がらなければ、そこで『レック負け』が宣告される。
だがここでは、主審の眼で起き上がるのが無理だと判断されたら、即勝敗は決してしまうのだ。
「立てるか!?」