翠虎の章 1/2
1
祭りの余韻は、夜になっても消えていなかった。
闘技場では夜通しで催物がおこなわれ、市場や露店も人々で賑わっていた。昨夜よりも盛大だ。朝まで終わらないこの騒ぎは、決勝戦が予定される明後日の夜更けまで続く。
だが……、街の中心地を離れると……。
「どうであるか、亡?」
「すべて順調に進んでいる。船上のほうでも『双』が手筈を整えているだろう」
暗闇に溶け込むように、三人の男たちがたたずんでいる。
一。
十。
亡。
渦響に従う一二人のうちの三兵士。
「ただ、鵺蒼の馬鹿が目障りだがな」
亡は嘲るように、そうつけたした。
自分の将である渦響と同列に位置する四門将の一人を「馬鹿」呼ばわりとは、この男たちの歪んだ忠誠心と、絶対的な力の自負がうかがいしれる。
「では、時を待つとするか」
三人は、本当に闇のなかに溶けた。
夜が明け、陽が中天まで昇ると、街は昨日の興奮を再現させた。
二回戦、準々決勝の四試合が、ここにはじまる――。
* * *
第一試合、サーディ対、ロド・ハーネル・エスダナル。
第二試合、ブリニッチ・シゴク対、渦響。
第三試合、ヨシュ・アザラック対、アーノス・ライドス。
第四試合、トーチャイ・ギャッソット対、シャイ・バラッド。
「大丈夫なのか?」
「心配すんなよ、ダンナ」
試合前の控室。サーディと導友者のトッリュのほかに、シャイも心配のあまり駆けつけていた。
サーディの腕には、いまだ包帯が巻かれている。
「この腕では、棄権したほうがいい」
「冗談じゃない、忘れたのか!? 決勝は、オレとダンナで闘うんだ」
シャイの説得は、逆にサーディの心に火を点けてしまう。
「はやく席に戻れって! いい席で、オレの勝利を観ててくれ」
サーディは、右腕の包帯を取って立ち上がった。
「こうなったサーディは、だれにも止められねえ」
トッリュが、あきらめたように言った。
* * *
「やはり、無駄だったろう?」
「ああ」
帰ってきたシャイに、梁明はそう問いかけた。答えたシャイのほうも、それはわかっていたことだ。
「君が同じ立場だったとしても、出ると言い張っただろうな」
「……」
シャイには、否定することができなかった。
「結局、われわれは……闘うこと以外に、表現方法をもたない、ってことだ」
梁明のその言葉に、シャイは心のなかだけでうなずいた。
闘いのためなら、なにものをも犠牲にする……そういう生き方しかできない。人間としては最低だ。
自嘲ぎみにシャイは、そう実感した。
となりの莉安をかえりみた。
昨日の試合後、予想どおり異変がおこっていた。
いつもの症状だ。
惚けたような、われを忘れたような、意識のはっきりしない様子がしばらく続いた。夜が明けたら、それまでが嘘のように、ケロッともとに戻っていた。
「どうしたのですか、天鼬さま?」
「いや……なんでもない」
なにものをも犠牲にする――。
「すまない」
すぐ間近の莉安にも、聞き取れないような声で……。
「え? なにか言われましたか?」
「いや、なんでもない」
同じ返事を繰り返していた。
2
サーディの前に、ロド・ハーネル・エスダナルが現れた。
時代遅れの騎士のような風貌に騙されてはいけない。恐るべきフェルスの腕前は、ストルガデラとの試合結果でわかっている。
腕の治療のために、実際に観ることはかなわなかったが、シャイからも話は聞いている。
「おたがい、いい闘いをしようではないか」
エスダナルのほうから声をかけてきた。
「ああ、望むところだぜ、オッサン」
サーディは、剣をかまえた。
エスダナルも、フェーグをかまえる。
「はじめ!」
先手は、サーディが取った。
右腕が痛む以上、さきに攻められては分が悪い。
「ほお、ほお、さすがはサーディ殿の剣筋。見事としか言いようがありませんな」
そんなことを口にしていながら、サーディの剣撃を、ひらりと風に舞う葉のようにかわしている。
「では、私のひと刺しも、ご覧に入れなければならんでしょう」
まったくの無動作状態から、フェーグがのびてきた。
「!」
首をなんとか横に倒したので、頬をかすっただけですんだ。
いつ、仕掛けた!?
サーディは、戦慄をおぼえた。
攻撃を放つさい、だれでも予備動作がくわわる。たとえば蹴りを打つときに、その蹴り足を少し引いてから出す。弦をしぼって矢を射る原理と同じだ。そうしたほうが威力が増すし、なによりも人間は自然にそうするようにできている。拳でも、剣でもかわらない。
その予備動作を読むことによって、技を見切ることができる。
逆の言い方をすれば、予備動作を小さくすれば、技を避けられにくくできるということだ。
だから、達人になればなるほど、予備動作を微小にすることを心掛ける。
しかしいまの一撃は、完全に消えていた。
まえの試合、わずかの時間で勝負を決めたことも納得できる。
常人では……いかに屈強な闘者であろうとも、天賦の才をもっているような最強の部類に属する戦士でなければ、この攻撃をかわすことは不可能だ。
「やっぱり、強えな!」
素直にサーディは声に出した。
「その強い私を倒さなければ、上にはいけない」
「倒してやるよ」
「その心意気だ、若者よ」
サーディは、思い切り左腕を振った。
〈キンッ!〉
だが渾身の一振りも、針のように細いはずのフェーグによって受け止められてしまう。
やはり不慣れな左一本では、きつい。
サーディが仕掛け、それをエスダナルが受け止め、無動作の一撃を返す。それを必死にサーディが防御する。
そんな攻防が、しばらく続いた。
生きた心地のしない、この感覚。
攻撃もきかず、防御もやっとだ。まったく勝てる気がしない。
こんなことは初めてだった。
いや、以前にこういう感覚を味わったことが、一度だけある。
それは、いつだったか?
だれとの試合だ!?
「どうした、なにが可笑しいのだ?」
エスダナルの声で、サーディは、自分が笑っていることに気がついた。
「なんだ……よく知ってるじぇねえか」
つぶやいた。
飛んできたエスダネルの一突きを刃ではらい、大きく距離を取った。
客席に、しばし眼を向ける。
その瞳のなかに、シャイ・バラッドの姿。
「どした、サーディ!?」
突然、動きを止めたことを案じるトッリュの声に、痛むはずの右手で応えると、サーディはエスダネルに向き直った。
「嫌いじゃない、この感覚」
「……? なんのことかわからぬが、戦意を喪失させたわけではないようだな」
「あたりめえだ」
激しい攻防が、再びはじまった。
サーディの動きが鋭くなったように感じるのは錯覚だろうか?
打ち合えば打ち合うほど、キレが増してくるような。観客も、わが眼を疑った。あきらかにエスダナル有利に進んでいた闘いが、完全なる互角に。
ちがう……じょじょにだが、サーディが押している!?
しかし、そこまできた段階で、サーディは……そして客席の何人かは、あることに思い当たっていた。
「なんで狙わねえんだ、オッサン!?」
サーディは、ふいに打ち合いをやめた。
エスダナルも、それにならうように動きを止める。
「なんのことかな?」
「とぼけるな! あんたは、一度もオレの右側から攻撃を仕掛けようとしていない」
「それがなにか?」
「情けをかけてるつもりか!? オレに勝つ気があるのなら、なぜ弱点をつこうとしない? オレが右腕を痛めてることは、知ってるはずだ!」
サーディは言い放った。
これほどまでの攻撃力をもつエスダナル相手に、不慣れなはずの左腕一本で、互角以上の闘いができた理由がわかった。
「それともなにか、オレを倒すには手加減してちょうどいいってのか!?」
「そう怒りなさんな。キミの右腕が弱点だとして、なにもその弱点をあえて狙わずともよいではないか。それが私の持論だよ」
「なんだと!?」
「ついでに言っておくが、べつにわたしは手加減などしているつもりはない」
エスダナルは、視線をそらすことなく言葉を返した。
「全力だよ」
その表情を見るかぎり、勝負をナメているのでも、サーディにたいして同情しているのでもないようだ。
「あんた、甘すぎるぜ!」
「甘い辛いの問題ではない。それが私の闘い方だ」
「それで負けたら、どうするつもりだよ。あんたにとって勝ち負けは、重要じゃねえのか!?」
「もちろん、勝つつもりで闘っている。だがキミの弱点を狙わないことで負けるのだとしても、弱点をついて勝つことより、その敗北は重い」
「……」
「いけないかね?」
サーディには、その答えをもちえていなかった。これまで、命のかかった闘いしか知らない。そういう考えの闘者を理解できるはずもなかった。
だが……。
不思議と嫌いにはなれなかった。
「オッサン、あんたずいぶん、それで損してるだろ?」
エスダナルは、口許をゆるめた。
「どうだろうねえ」
「オレが勝っても、文句は言うなよ」
「当然だ! キミはただ、全力でくればいい」
二人の胸のすくような闘いが再開された。
* * *
観客たちにも、エスダナルの意図が伝わったようだ。
「闘いを冒涜している!」
「いや、彼こそ本物の男だ!」
意見は二分していた。
「天鼬、君はどう思う?」
「甘いね。職業をまちがえてる。すくなくても、闘者にはむいてない」
梁明の問いに、シャイは迷わず答えた。
「フフ、たしかに進むべき道をまちがえたのかもしれん」
べつの方向から、声が割り込んできた。
通路に立ったラリュースだった。
「本来なら、王者の器だ。だが、あれが災いして、いまだに一〇位前後を行ったり来たりしている」
「だろうな」
こうして観戦しながらラリュースの解説をうけるのは、ムマ島以来のことだ。
「私は好きだよ、ああいう男。勝利至上主義が常識となったいまの闘技界において、貴重じゃないか」
「勝たなきゃ意味がない」
「エスダナルという男は、そんなもののために闘っていない。あの男は、自分の美学のために闘っている」
「美学?」
「本国サンソルでも、いまのようなことで物議をかもしたことがある。相手の闘者が足を怪我していたのだが、エスダナルは一切、弱点をつかなかった――」
その結果、エスダナルは負けた。
神聖なフェルスという競技において、賭はおこなわれない。だから観客にとって、それほど一人の闘者の勝ち負けは重要なことではないはずだ。むしろ人々から、エスダナルの紳士的な行動は、賞賛されなければおかしい。
しかし客たちは、いっせいに罵声をあびせた。
甘い! おまえに闘う資格などない! やめちまえ!
エスダナルは、その声を正面から受け止めた。
逃げも隠れもしなかった。
『きれいごとだ』と投げかけられた言葉に、彼は信念をもってこう答えた。
きれいごと?
けっこうじゃないか!
「……」
「どうやら、キミも好きになったようだな」
ラリュースは、そのことだけを伝えにきたのか、背を向けて行ってしまった。
闘場では、サーディが勝ち名乗りをうけるところだった。
フェーグを弾き飛ばしたところで、勝負は終わっていた。
「天鼬さま、どうしたのですか? 涙が……」
なぜだか、胸が熱くなっていた。
* * *
「次は、対等の条件で闘ってもらうぜ」
退場をはじめたエスダナルに、サーディが声をかけた。
「いつでもきたまえ。どんな相手であろうと挑戦は拒まない」
勝者であるはずのサーディ。
敗者であるはずのエスダナル。
しかしそのやり取りを聞くかぎり、まるで勝ち負けが逆転してしまったかのようだ。
サーディにとって、いまの試合は勝ちではない。ならば、いずれ決着をつけなければならないだろう。
それが、闘う男の本能だからだ。