栄華の章 7
波乱は、その直後おこった。
本日の三試合目を快勝し、シャイが控室への通路に入ってから、まもなくのことだった。
現ナーダ王者ルッデと、まったく知られていない無名の男との闘い――。
その勝者とシャイが、決勝大会出場の一つを争うことになっていた。当然、ルッデが上がってくるものと、シャイは予想していた。『ボスク』と名乗る巨漢の男は、武器をたずさえるわけでもなく、拳術なり蹴術のかまえをとるわけでもなく、ただ棒立ちでルッデに対した。
選手紹介では《ヨラネスクの喧嘩屋》と呼ばれていた。ヨラネスクとは、サルジャーク東部、タトルに近い港町だ。そこでならしている海賊あがりのごろつきといったところだろう。ここでの闘いを、ただの喧嘩と同じように考えている愚か者だ。
だが、その愚か者に、サルジャーク王者が手も足も出なかった。
一方的な勝負だった。
完敗。
武器を持たない者との対戦だから、シャイの試合と同様の闘規でおこなわれた。
つまり、ルッデの剣には厚手の皮革が巻かれたのだ。
ルッデに同情するならば、まずこの闘規が完全に不利だった。相手のボクスは、ルッデの倍はあろうかという巨体なのだ。斬れない剣での攻撃ぐらいでは、ビクともしなかった。いくら殴打してもきかない。
巨漢のならず者は、強引にルッデの身体に接近し、地面に押し倒した。
生粋の剣士であるルッデにとって、それは負けを意味していた。
なにもできなかった。
馬乗りで、何度も何度も殴られた。
審判の制止にも、ボスクはかまわずに殴りつづけた。
ルッデの顔は血にまみれ、最後のほうは涙さえ浮かべていた。
なんとか数人がかりで引き離したときには、ルッデの顔面は、もとの容姿を識別できないぐらいに腫れ上がっていた。
控室に運ばれたルッデに、シャイは声をかけた。
「災難だったな」
「うう……うう」
ルッデは、ただうめくだけだった。
付き添っていたトレイザも、顔を蒼白とさせていた。
「なんなんだ……あいつは!」
自分たちの王者が負けた悔しさよりも、ボスクにたいする恐怖心が声を震わせていた。
「闘規がまずかったんだ、気にするな」
「ちゃんとした剣でも……あ、あんな化け物倒せるか!」
トレイザは、完全に闘者としての矜持を失ってしまったようだ。ルッデの負けは、自分の負けであると錯覚してしまっていた。
「仇はとってやる、安心しろ」
「ル、ルッデでまったく歯が立たなかったんだ……お、おまえなんか、相手になるか!」
そのとき、ルッデのうめき声が大きくなった。
「うう……!」
手を上げようとしていた。
シャイに向けて……。
「ああ、わかった。まかせておけ」
その手を握ると、シャイは言った。涙のたまった眼を見れば、なにを語りたいのかはあきらかだ。
現王者が、元王者に託したのだ。
シャイは決意を胸に、その場をあとにした。
* * *
「どうだ?」
通路に出ると、真っ先にシャイは梁明に問いかけていた。
「君の試合か?」
「いや、あの大男だ」
梁明は、ふ、とゆるむように笑った。
その反応がよほど意外だったのか、シャイは眉根を寄せて、責めるような視線をおくった。
「そう難しく考えるな。君が言ったように、彼は闘規のせいで負けたんだ」
「そんなこと、心にもないくせに」
さらに、梁明の笑いが深くなった。
「笑い事か!? 次は、オレがやるんだぞ、あいつと!」
「だから、難しく考えるな。君は、剣だけの男ではないだろう」
「勝てるのか、オレは?」
「おや、君まで弱気になってるのか?」
シャイは、梁明の顔を睨むようにみつめた。
「負けるはずがないだろう。あんな素人と君では、勝負にならない」
「ルッデだって王者なんだ! それが、あんなふうに負けた」
「私の言葉を信じようと信じまいとかまわない。だが、自分の力を信じられないようでは、それだけで負けだ」
「ちっ」
その舌打ちは、うまくごまかされたと感じたからだ。
「なあ、もしオレが、むかしのままだったら……剣しか使えなかったら、オレも、あんなふうに無様にやられてたのか?」
「まえにも言ったかもしれないが、勝負とは時の運だ。どんなに強い奴であろうと、負けるときもある。逆に言えば、彼だって、展開によっては勝っていたかもしれない。もしかしたら、次にやったら勝てるかもしれん」
「だったら……オレが勝てるなんて、断言できないんじゃないか?」
「それはできる」
梁明は、自信をこめて言った。
「君は、勝負の怖さを知っている」
「……?」
「もちろん、絶対に勝てるという意志は必要だ。闘う者なら、強気な発言もいいだろう。だが、それだけでは駄目だ。心の隅では、負けることも想像できなければならない」
「……」
「それは、弱気になるということではない。自分の力を客観的に分析し、相手の戦力とくらべて、どうすれば勝てるか、有利に試合を進められるか、戦略をたてる。どういうときに負けることがあるのか? ならば、負けないためには、どう闘えばいいのか? 自分の得意の形にもっていくには、どうすればいい? 相手の弱点を突くには、こういう戦法が有効だろう――それらをつねに考えていなければならない。身体の動きは、本能にまかせればいい。そのために、いつも鍛練しているのだ。頭のなかは、理想の像を思い描く。そうすれば、身体が勝手に動いてくれる」
梁明の瞳が、闘っているときのように熱く光ったような気がした。
「君は、そういう闘い方ができる。一度、挫折を味わい、しかしそれで臆することなく、再び挑戦をはじめた君と、勝負の怖さを知らない、生まれつきの巨体だけで喧嘩をしている、あんな素人とでは勝負にならない」
「……のせるのがうまいな」
シャイも、思わず口許をゆるめた。
通路を歩く二人に、駆け寄ってくる人物がいた。
「シャイさん、決まりましたよ!」
少年のような外見をはずませて、ファーレイがやって来た。
「妹さん、勝ち上がりました」
「……そうか」
シャイは、少し安心したように応えた。
「もう一人は、シャイさんのお友達です」
「マガヌーンか?」
べつに友達というわけではなかったが、そのことは聞き流すことにした。
これで、この左場からシャイとボスクが、右場からミリカとマガヌーンが勝ち上がったことになる。そしてこれから、中央場で予選決勝の二試合がおこなわれることになる。
当初は、左場は左場、右場は右場で、それぞれ別々に決勝をおこなうはずだったが、会場を同じにしてくれという客からの要望が多かったために、急遽そういうことになった。どちらの闘いも観たいというのが、当然の心理だろう。
「ボクは、これから席を確保してきますんで!」
そう残して走り出そうとしたファーレイを、梁明が止めた。
「君にも聞いておいてもらったほうがいいだろう」
「どうしましたか?」
「もうじき、到着するはずだ」
「なにがですか?」
「四門将軍の一人……《翠虎》の渦響」
無論、シャイとファーレイも、八人の国外招待選手のなかに、その名があったことは知っている。
「あのヤソウってヤツの仲間なんだろ?」
「仲間というのとはちがう。四門将は、それぞれが独立した部隊だ」
「でも、仲間のようなものだろ?」
シャイの素朴な疑問に、梁明は小さく首を振った。
「必ずしもそうではない。むしろ、敵対することもあるのだ」
「どういう――」
シャイの問いは、あっさりと制された。
「いや、それはいい。それよりも、瀏斑最精鋭の兵が、この街に入るのだ。より一層の警戒が必要になる」
「でも、その男はこの大会に出場するために来るんだろ? だったら、そんな心配することないんじゃないか?」
「そこが引っかかる。たしかに渦響がわれわれを狙っているとは思わんが、この大会に出るためというのも、おかしな話だ」
「なにか、目的があると?」
「どうだろうな。だが、注意するにこしたことはない。それに、奴の下には一二人の屈強な部下がいる。藍鳳の八嵐衆のようなものだが……」
「だったら、そのカキョウっていうのは、たいしたことないな。弱いから、部下が多いんだろ? すくなくても、ヤソウよりは下だ」
「それはちがう。私の見たかぎり、四門将では最強。鵺蒼よりも、数段上だ。それはつまり、瀏斑で『公式』に一番強いということになる」
「あんたや、オウガよりもか?」
「それは、やってみなければわからん。あくまでも、『公式』にだ。私や王牙は、帝室の職に就いてはいないからな」
「ほお、それは興味がわいてきました!」
ファーレイが、眼を輝かせてしまった。
二人は、それを無視して話を進めた。
「なにより鵺蒼とちがうのは、いかに残虐といえ、たとえ鵺蒼でも自分の親は殺せない。だが渦響は、命令さえあれば、ためらわず親でも殺す」
「……」
「この大会、本当の意味での国や競技を代表した最強の人間は、おそらく渦響と、君の友達の奴隷戦士だけだろう」
梁明の顔が、厳しく引き締まった。
「いいか、君があの銀髪の彼と闘うまえに、渦響とあたってしまったら、不運と思ってあきらめるのだ。また、銀髪の彼があたってしまっても同じだ。今回は、めぐりあわせがなかったと思ってくれ」
「どうしたんだよ、あんたが弱気になってんじゃねえか」
「それぐらい、奴が強いということだ。はっきり言うが、渦響の下の一二人と闘っても、勝てるかどうかわからんぞ。八嵐衆の菠鵜や掏耶と同格とは考えないほうがいい」
シャイはその忠告に、背筋が寒くなるのを自覚した。
菠鵜や掏耶も、恐ろしく強かった。とくに菠鵜という男には、死を覚悟したほどだ。もしあのとき、自分に《雷塵》がなかったら……まだ莉安とめぐり会うまえだったら、おそらく自分はいまここにいないだろう。
勝てたのは、自分の力ではない。
《雷塵》の力だ。
「だが……どんな妨害が入っても、オレはアザラックとやるぜ! なにがなんでもな」
「わかっている。あくまでも『もしも』の話だ……。とにかく、渦響と一二人の部下の動きには気を配ることだ。それに、鵺蒼たちが追ってこないともかぎらん」
「だったら、サーディにも話といたほうがいいな。いまもリアンの護衛をやってもらってるんだし」
うむ、と梁明はうなずいた。