砕牙の章 7
ついに世界大会が三日後に迫った。
テメトゥースの街は、次第に熱気を帯びはじめてゆく。
七日間――。
最初の三日で自由予選をおこない、一日空けて、五日目から本大会がはじまる。
一六人が出場する勝ち抜き戦。
一回戦が八試合。六日目に、二回戦――準々決勝の四試合が組まれ、最終日に準決勝二試合と、決勝戦が予定されている。
ここまでの日数をついやす大会というのは、過去例をみない。
まさしく、ダメル闘技場最大の闘いが幕をあけるのだ。
当然、栄華連としても莫大な資金をかけているし、それに見合うだけの観客動員も予想している。
闘うのは、選手たちだけではない。
富豪たちにとっても、勝負の時なのだ。
テメトゥース独立市の存亡をかけた死闘は、あと三日ではじまる。そしてこの日、正式に招待選手の発表がなされた。
メリルス代表、リーゲ闘技場サーディカル王者『サーディ』
エンプス代表、猛獣戦王者『グダル』
ムマ代表、ムサンマ・セドゥルディック級五位『トーチャイ・ギャッソット』
オルダーン代表、蹴術クザードル級七位、蹴投同級王者『アーノス・ライドス』
サンソル代表、フェルス一二位『ロド・ハーネル・エスダナル』
ギルチア代表、槍術ベルス闘技場階順外『ブリニッチ・シゴク』
イシュテル代表、競技戦歴不明『ファーレイ』
瀏斑代表、四門将『《翠虎》の渦響』
以上八名。
これに、地元ダメル闘技場からの推薦で、階順一三位の『ガルグウッド』が、さらにダメル予選で勝ち上がった五人――。
一一位『ウルメダ』
一四位『ヨシュ』
一七位『ストルガデラ』
一九位『ロワンダーダ』
二二位『アネルド』
この六名が、迎え撃つ形となる。
そして、残り二つの席をめぐり、これから予選が繰り広げられることになるのだ。
開催三日前となる本日夕刻をもって、自由予選の申し込みが締切りとなった。招待選手のほとんどは、いまだこの地に降り立ってはいなかったが、予選の参加者は、すでにこの世界最大の歓楽街に足を踏み入れていることになる。
自国の闘技場でならしている者。
一攫千金を目当てに、命をかける者。
おもしろ半分で申し込んだ者もいる。
だが、もっとも多いのが、盗賊まがいの荒くれ者たちだ。
闘技場での試合など、喧嘩と同じに考えている。自分が負けることなど夢にも思っていないし、自分より強い人間が砂漠の塵ほどもいることなど知るよしもない。危なくなったら殺せばいい。逆に自分が殺されることなど、想像もしていないのだ。
そういう「ならず者」であふれかえったその夜の酒場の治安は、ひどく悪かった。
「おい、なんか文句でもあんのか!?」
「いえ……ちゃんとお金を払ってもらわなければ困ります……」
メユーブを先頭に、いつもの三人が『芳林酒家』の扉をくぐったときには、すでに満席の店内でいくつかのもめ事がおこっていた。
客同士のいざこざが大半のようだが、三人の眼についた男は、どうやら料金を踏み倒そうとしているらしかった。
「俺は、大会で優勝する男だぜ! そんな人間が金を払う必要なんてねえだろう」
不条理なことをぶちまけて、店員を困らせている。
「痛えめにあわせっぞ、こらっ!」
「ぼ、暴力はやめてください」
そのやり取りの滅茶苦茶さを目の当たりにしたとあっては、ゾルザードとしても手を出さざるをえなかった。
しかし、不条理な客に一歩近づこうとしたときに、一人の男が仲裁に入ろうとしていることに気づき、その一歩をとどめた。
「お客さま、それでは困ります」
そう一言めを口にしたということは、彼もこの店の従業員のようだ。ゾルザードにしろメユーブにしろ、はじめて見る顔だった。
「なんだと、てめえ!」
「優勝しようとしまいと、ここでは関係ありません」
「殺すぞ、こら!」
どうやら彼は、こういうことのために雇われた用心棒のようだ。
この店では出資者の明堺源の方針で、瀏斑や北西海国の人間――つまり西方人の顔だちをした者しか雇わないことで知られていたが、彼は例外らしい。典型的なサルジャーク人だ。
「俺から金とろうなんて、身の程をわきまえろってんだっ!」
「……そうですか」
ふう、とため息をつくと、用心棒は不条理な客の鼻先まで近寄った。
「なんだ、おう!?」
静かに事態を見守っていた三人は、恐るべき技に視界を釘付けにされた。
用心棒の右足が跳ね上がった。
え!?
それは、信じられない間合いだった。
蹴りが、こんな至近距離から放てるものなのか!?
回し蹴りが、客の側頭部にきまっていた。
倒れることはなかった。用心棒が蹴りと同時に、左手で客の胸ぐらをつかんでいたからだ。
「もう一度、確認させていたたきますが、料金はお支払いしてもらえるんですよね?」
意識の朦朧とする客に、用心棒が静かに訊いた。
「は、払い……ます」
その答えを耳にして、用心棒は左手を離した。
滑るように、客は崩れていた。
「みなさん、お騒がせをしました」
用心棒が一礼しても、店内の喧騒は戻らなかった。それまで客同士でいざこざをおこしていた連中も静かになった。自然に仲直りができた。
「なかなかやるな」
ゾルザードが声をかけた。
「新入りか?」
「はい。昨日から働かせてもらってます」
「蹴術のようだが、キミも今度の大会に出るのかい?」
「いいえ」
用心棒は、素っ気なく答えた。
「もったいないな。キミなら、いいところまでいけるぞ」
「……」
沈黙のあと、用心棒は言った。
「私の興味は、一人だけですので」
「?」
用心棒がそのとき、どこを見ていたのか……ゾルザードにはわからなかった。自分を見ているようで、少し視線がズレていたような。
後ろにいるメユーブか。
それとも……?
「それでは、ごゆっくり」
用心棒は、あくまでも接客態度を崩すことなく、持ち場にかえっていった。
「へえ、なかなかいい男だったねえ」
「あの男」
「どうしたの、ゾルザード?」
「いや、どこかで会っているような……」
* * *
三人は、しばらく店で過ごしたあと、夜更けとなってから家路についた。
酔いのためか、三人の猛者がそろっていたにもかかわらず、すぐにはその気配を察知できなかった。
「だれ?」
声をあげたのは、メユーブだった。
「あんた……」
振り返ったそのさきには、一人の男が立っていた。
「用心棒が、なんの用?」
男は無言だった。
スッ、とゾルザードが一歩前に出た。
「おれに用か? やはり、過去に会っていたか」
すると、男の気配が消えた。
!?
いや、見える。男は眼の前にいる。
だが、いない。
「なんだ!?」
戦慄が駆け抜けた。
酔いのためではない。
この男は、完全に殺していたのだ、気配を。
自分たちに気づかせるために、わざと開放した。
たまらずに、ゾルザードは身構えた。
男が、気配のないまま迫ってくる。
しかし男が襲いかかろうとしていたのは、自分ではなかった。
疾風のような左拳。
それを突然あびせられて、銀髪の戦友は腕で防御するほかなかった。
男の標的は、ヨシュだった。
「恨まれるような覚えはないぞ!」
そういう言葉が口からもれた。
だが、男は声をあげない。左拳同様、風のように後退して間合いをとると、右足を跳ね上げた。
さきほどの蹴りだ。
いや、あのときより遠い距離から放っているからかわしやすい。
そうだ、だから避けられた。
左の突きも、いまの蹴りも、本気ではなかった。
「なんなんだ、オレがなにかしたか!?」
たまらずに、ヨシュは叫んだ。闘者である以上、逆恨みされることもあるだろうが、なにしろ男の顔に見覚えがない。
「やっぱり、眼中になかったか」
そこではじめて、男がそうつぶやいた。
「だれだ!? おまえなど知らん!」
「そっちが覚えてなくても、オレはおまえと闘うために何年も生きてきたんだ!」
「まて!」
男の追撃を止めたのは、ゾルザードの鋭い声だった。
「おれは、おまえを知っている。いま思い出した。ヨシュ、おまえは本当に、この男を知らないのか?」
「ああ、知らない」
「おまえは、この男と闘ったことがある。オザグーンの遠征だ」
「オザグーン? ナーダかい?」
そう問いかけたのは、メユーブだ。
「そういえば、四、五年前にあったね、そういうのが。ナーダ聖技場と、わたしたちの交流試合だったね。わたしは興味がなかったからついていかなかったけど、たしかにヨシュは、そこでナーダの王者と闘ったんだよ」
「……」
ヨシュは、記憶をめぐらせた。たしかに、その遠征のことは覚えている。だが、おかしい。その遠征で、自分はいったいなにをやったのか……思い出せなかった。
オレは、この男と闘っていたのか!?
「そんなことも忘れちゃったのかい? あのころは、売り出し中だったからねぇ。そういう役回りをやらされたのさ。いまでいう、ガルグウッドだねぇ」
むかしはよかったと言いたげに、しみじみとメユーブは語った。
「そのときの王者が、おまえだな?」
ゾルザードの問いには、男はやはり答えなかった。
「名は、たしか《雷狼》と」
「ふうん、カッコイイ名前じゃない。でも、弱かったんだよねぇ。このダメ男に完敗しちゃったんだろ」
女王様らしい遠慮のないその台詞にも、男は表情を崩すことはなかった。
「そうか……だから、オレのことを恨んでるってわけか」
「恨んじゃいない」
男は、静かに言葉を返した。
「ただ、もう一度、闘いたいだけだ」
「おまえ、蹴術士か? ナーダなら、剣士しかいないはずだが」
ヨシュは言ったが、しかしそれは正確な知識ではなかった。ナーダでは、あまり有名ではないが、槍術もおこなわれている。
とはいえヨシュの疑問は、剣にしろ、槍にしろ、武器を持っていないのはおかしい――そういうことなのだ。この男は、拳と蹴りの達人ではないか。そんな闘者が、ナーダにいるわけがない。
疾風のような左拳。
酒家でもみせた、近距離からの右足。
そんな技を出せる者が存在するのならば、蹴術の本場オルダーンか、ムサンマの聖地、ムマ島以外にありえないだろう。
「オレは剣をつかう。だがおまえと闘うために、ほかのも覚えた」
「馬鹿な……」
「ダメルじゃ、こういうこともできなきゃいけないんだろ?」
「なるほど……あのときは正統派の剣士だったはずだが、すいぶんの変わりようだ。だから、すぐには思い出せなかったのか……あんな蹴りをみせられたからな」
ゾルザードが、そう二人に割って入った。
「正統派って、ただつまんない、ってことだろ、ゾルザード?」
そんなメユーブの台詞には、言われたゾルザードが笑みをみせただけだった。肝心の二人は、眉も動かさない。
「でも、見物してただけのゾルザードが覚えてて、なんであんたが覚えてないんだい?」
「……」
どちらも言葉が出なかった。
「それだけ、印象が薄かったのかねぇ」
そう言って、用心棒の男にイタズラな視線を投げかけた。
「それとも、心がそこになかったか」
今度は、ヨシュに向けた。
どちらの胸にも突き刺さったようだ。
「天鼬!」
その声で、四人はいっせいに振り向いた。
三人の男が立っていた。そのなかの、五〇歳前後の男が声をかけたようだ。ゾルザードは、その男の顔を知っていた。
「ソン・リョウメイ!?」
「え!? リョウメイって……あの、伝説の男かい!?」
めずらしく女王様まで驚きに支配されている。
「ほう、シャイ・バラッドか……」
むこうからも、驚きとまではいかないが、感情のこもった声がもれていた。
「おまえの『土産』は、これだったか」
「なんだ、知ってたんですか、彼のこと」
ラリュースと、ファーレイだった。ゾルザードたち三人は、文官が被るような帽子をのせた少年のことは、もちろん知らない。
「どういうことだい、坊ちゃん? なんであんたが、伝説の男といっしょにいるんだよ。それに、その坊やはだれだい?」
坊ちゃんに、坊や。
言われ慣れている坊ちゃんのほうは気にしていないようだが、坊やのほうは少し気分を害したようだ。
それも仕方ない。「坊ちゃん」の意味するところは、金持ちの御曹司だからと推理できるが、「坊や」のほうは、どう考えても見た目の感想だからだ。ガルグウッドのような若手にも「ボウヤ」という呼び方をするが、それとは根本的にちがう。
「ゴホン! ボクはこれでも、ラリュースとは同期なんですけどね……」
「こいつは、ファーレイだ。留学さきでの親友でね」
「ファーレイ?」
ゾルザードが、その名に反応していた。
「知ってるの?」
「イシュテル代表の名といっしょだ」
メユーブの問いに、戸惑いながら答えていた。
こんな子供のような男が!?
「まあ言いたいことはわかるが、この男をあまり軽く見ないほうがいい。イシュテル一の使い手だ」
なんの『使い手』なのかは、あえてラリュースは語らなかった。
「じゃ、そっちの偉い先生は?」
「それは、私も驚いてるんだよ。まさか、ソン・リョウメイが再びこの地にやって来るなど、夢にも思っていなかったからね」
「いやあ、わけあって、ボクたちはリュウハンから逃げてきたんですよ」
代表して、ファーレイが説明をはじめた。
「そちらのシャイさんとボクたち……それにもう一人、女性がいるんですが、とにかくわれわれは追われる身でしてね」
なんの緊張感もなく、そう続けた。
「大規模な大会も開かれることですし、ここなら都合がいいでしょ、一時避難には。ボクは招待選手でもあることだし……」
そこで、チッ、という舌打ちが聞こえた。
「ここで闘えりゃ、すべて終わったのに」
酒家の用心棒――シャイの落胆だった。
店で出会ったのは、偶然だった。
こんなこともあるだろうと予想はしていたが、べつにアザラックをさがすことが目的ではなかった。梁明の弟子・荘鶴の紹介で、明堺源の店で働くことになった。闘者も飲みにくるかもしれないが、もし標的の男に会ったとしても、まだ闘う時でないと自分でもわかっていた。梁明からは、まだ技を習得できたわけではない。まだまだやるべきことも残っている。
だが。
夢にまで見た男の顔が、そこにあった。
身体が、いうことをきかなかった。
彼らが店にいたときから、何度も殴りかかろうとしていた。店から出たのを見たら、追いかけずにはいられなかった。
「おまえがやる気なら、オレはかまわない」
ヨシュは言った。
その一言で、ファーレイたちの登場で冷めかかった感情が、再び燃え上がった。
「まて、天鼬!」
「そうだ、こんなところで闘う必要はない」
梁明の制止よりも、そのあとの喜々とした声のほうが、視線を集めた。
「ここは、闘いの街だ。決着をつけたいなら、闘場へ上がりたまえ」
「ここで闘えるなら、そんなまどろっこしいことはごめんだね」
ラリュースの言葉に、シャイは噛みついた。
「何年かかる? オレがこいつと闘えるようになるまで、何年だ!?」
「ヨシュは一四位。対戦するためには、最低でも階順三〇位ぐらいまで上がらなければならない。一からはじめれば、勝ちつづけても二年はかかる」
「だったら、ここでいい」
「まあ、聞きたまえ。一からはじめればだ。いまから三日後……いや、もう二日後か。これからおこなわれる大会に出れば、一からじゃない。百からはじめられる。予選への出場資格は不問だ。だれでも出られるんだ」
「まってよ、坊ちゃん」
メユーブが異議をとなえた。
「だれでも出れるっていっても、もう締め切っちゃったんじゃないの?」
「それは大丈夫だ。私の推薦枠がある」
「なんだい、それ?」
「今大会、私が出場選手を三人ほど選ぶことができたんだ。一人はギルチアの槍使い。もう一人は、ムサンマの猛者――」
そこでまでラリュースが口にした段階で、やっとシャイは思い出すことができた。
「あんた! ムマの闘技場で……」
シャイにいろいろムサンマのことを解説してくれた、あのときの青年。
「本当なら最後のもう一人が、キミになるはずだった。ラザ・グリテウス――《雷狼》シャイ・バラッド」
ラリュースは、あえてメリルスでの闘名をさきに出した。
「もう二年ほど前になるか。私は見た、あの『メリルスの夢』を」
「夢?」
「みな、そう呼んでいる。《剣童》との死闘だよ! 私は、その感動が忘れられなかった。ムマ島でキミをみつけたとき、絶対にうちの闘場へ上げると心に誓ったのだよ」
ラリュースの熱い台詞に、メユーブが補足を入れる。
「この坊ちゃんは、ここの主催者の道楽息子なんだ」
「だが、残念なことに――」
そんな揶揄などなかったことのように、ラリュースの語りは続く。
「私の意見は、聞き入れられなかった。キミには世界的な知名度が欠けていた。それに、ムマ島を離れてからの行方も不明だった……それでもなんとか、予選の出場権だけは確保できたんだ。だからキミには、締め切りはない。本番当日でもよかったんだ」
「……何人倒せばいい? 何回勝てば、闘えるんだ!?」
「予選の出場者は、四一二人。キミを入れて四一三名だ。実際には当日怖じ気づいて逃げる者も出るだろうから、四〇〇を切るだろう。そのなかで残った二人が本戦に出場できる。まあ、六回から七回勝てば、予選突破だ。決勝大会の対戦は抽選で決められるので、いまはまだわからないが、全部で一〇回ぐらい勝てば、いずれ闘える」
「つまり、勝ちつづけりゃいいってわけか」
「自信ないかね?」
シャイは答えなかった。
かわりに、伝説の男が口を開いた。
「私の弟子だ。もちろん優勝を狙うよ」
ファーレイ以外の人間が、その言葉にあらためて驚いた。
「そうか! ムマを出てから、リュウハンであなたの弟子になっていたのか」
「優勝に興味なんてない」
シャイは一同をよそに、つぶやいた。
「あるのは……」
ヨシュ・アザラックを好戦的にみつめた。
ヨシュも、その視線を静かに受け止めていた。




