砕牙の章 四/5
四
籠のなかで腐りゆく小鳥。
飛ぶことも忘れ、世界も知らないままに果ててゆく……。
それが、わたし。
わたしを救い出してくれるのは、だれ?
だれでもいい。
ここから出してくれるなら……。
「レノン、レノン」
お父さまの呼ぶ声が、わたしを窮屈に縛りつける。
血のつながらない父と娘。
この家に引き取られたのは、三年ほど前でした。それ以前の記憶は、わたしにはありません。わたしはどこのだれで、どういう家に生まれたのかもわからない。
気がついたときには、すでにわたしはこの家に引き取られたあとでした。過去に、ずいぶん怖い思いをしたようです。この家に来てからも、しばらくは、ずっと震えていたということでした。
なにも覚えていないのです。
記憶を無くすほどの恐ろしい体験とは、どんなものなのでしょうか?
この家に来たときの思い出すら、断片でしか覚えていないのですから……。
大きなお屋敷。
二人の男性が出迎えていました。
一人はお父さま。
そして、もう一人は……。
まぶしい、と思いました。
その男性は、わたしを見ると微笑んでくれたのです。
まるで、太陽のようでした。
「こんなところにいたのか、レノン。お父さまが血相かえてさがしてるぞ」
隠れていたわたしは、その声に驚いた。
でも、それは伝わらないのでしょう。
わたしは、感情を表現することができないのです。自分ではわからない。感情はあるはずなのに、おもてには出ない。これも、怖い思いをした後遺症らしいのです。
「さあ、いこう」
わたしは、首を横に振りました。
部屋には戻りたくなかった。
お父さまは、とてもわたしにやさしくてくれるけど、それはわたしを娘としてではなく、愛玩動物として見ているからなのです。
レノンという名は、もちろん本名ではありません。
わたしの顔は、お父さまやお兄さまとはちがう。瀏斑という国の人間なのです。だからお父さまにとっては、ものめずらしい人形と同じなのでしょう。
わたしは、お父さまに飼われている小鳥にすぎません。
心のなかで、わたしがこんなことを思っているなんて、だれにもわからないでしょうね……。たとえ、なんでも見透かしているようなお兄さまでも――。
「どうしたんだい、レノン?」
わたしをここから救い出してくれるのは、この人だと思っていました。
まぶしい太陽のようなお兄さま……。
でも、お兄さまには、わたしよりも大切なものがあった。
わたしは、それに耐えられない。
そう気づいたとき、この人ではないと悟りました。わたしを救ってくれるのは、この人ではない。お兄さまは、ただ勇気をあたえてくれるだけ。
「さあ、戻ろう。もうすぐキミに、おもしろいものを見せてあげるから」
わたしは、お兄さまに手を取られて、帰ってゆく。
飛び立つ翼もない、さえずることもできない哀れな小鳥。
籠のなかで、死ぬことを待つだけの……。
5
熱い情念の塊が、円形の闘場にふりそそいでいた。
世界大会に向けてのダメル予選――。
参加選手は、一〇名。
五試合が組まれ、勝った五名が本大会への出場を決める。
招待選手八名。そして、今日の五名と推薦出場のガルグウッド。さらに、自由予選で勝ち上がるであろう二名を合わせた一六名が、世界大会の出場選手ということになる。
ただし、まだ招待選手のほうが本決まりではないので、予定より増えることも、減ることも考えられる。もし増えた場合は、今日の五名のうち、階順の低い者から削られていく。減ったさいには、今日の闘いで負けたとしても、内容のよかった者が選抜されて出場できるようになる。
すでに、三試合が消化されていた。
階順二二位のアネルド。
一九位のロワンダーダ。
一七位のストルガデラ。
その三人が、本大会出場を決めていた。
次が四試合目。
進行するにつれて、階順が上がっていく。
一六位のマスールに対するは、一四位のヨシュ・アザラックだ。
ここまでは波乱なく、階順の高い者が勝ち進んでいる。
《轟剣》マスールか、《砕牙》アザラックか?
観客はまず、マスールの巨大な武器にどよめいた。
《轟剣》と呼ばれるほどだから、大型の剣を使うことはわかっていた。──が、本日手にする武器は、ちがう。
戦斧!
ここまで巨大な斧は、そうないだろう。
長い柄に、圧倒的な断頭の刃。
頑丈な兜で守っていようとも、必ず首を落とすために存在する絶対の武器だ。
(オレは、なぜここにいる?)
ヨシュは、自問した。
出場するつもりはなかったのに、どうして自分はここにいるのだろう。
ラリュースにのせられたからか?
いや、そうじゃない。
なぜかはわからいが、今日の闘いを選んでいた。
世界最強の称号など、興味はない。
だが、試したい自分がいる。
このまま、闘者を続けていくべきなのか。
それともすっぱり、やめるか。
「!」
巨大な斧が襲いかかってきた。
ヨシュは、後方へ思い切り飛んだ。
風圧が顔を叩いた。
〈うおおお〉
たった一振りで、観客は度肝を抜かれたようだ。
轟きが、闘技場を支配した。
「あらら、凄い武器を持ち出してきたわね」
《麗拳》メユーブ・モノリュトの喜々とした声は、となりの席につくゾルザードにしか届かなかった。
「なるほど……《砕牙》潰しか」
「どういうこと?」
「マスールは、典型的な剣士型だ。総術も使えるが、それほど得意とはいえない。つまり剣を折られたら、分が悪い」
「ふ~ん、だから折られないように、あんな重そうなのを振り回すわけね」
ゾルザードの解説を聞き、女王様は感心したように闘場を見下ろす。
二撃目が放たれようとしているところだった。
同じようにヨシュはかわした。
「どうした、ヨシュ? 逃げているだけでは闘いにならんぞ!」
マスールは、不敵に言葉を投げた。
ヨシュは、それには応えず、右足に力を込めた。地を強く踏みしめる。
自慢の長剣を振り上げたところで制止させた。
好機は、一度きり。
「来ないのなら、このまま終わらせてやる」
マスールは、巨斧を薙ぎはらう。
その直前、ヨシュは踏み込んでいた。
長剣を振り下ろしながらだ。
「なに!?」
断頭の刃が届くよりさきに、懐に飛び込めた。だが、長剣をぶつけた太い柄は微動もしなかった。
「あれを折ることはできんだろう」
観客席では、ゾルザードがそうつぶやいていた。
「それじゃあ、勝てないわね」
「《砕牙》だったらな」
メユーブは、その意味深長な物言いに、首をかしげた。
かわりに、べつの人物が教えてくれた。
「《白鮫》に戻れば、あんな男は相手ではないよ、女王様」
「ラリュース……」
「なにも、武器を壊す必要はないのだ。彼がそのことにこだわらなければいい」
「こだわるだろうがな」
ゾルザードが、そうつけ加えた。
ラリュースはそれには無言で、死闘を視野に入れた。
間合いは、すでに離れていた。
マスールが頑丈な巨斧の柄で押し戻したのだ。
「無駄だ、無駄だッ!」
傲然たる嘲笑。
階順では下だが、完全にヨシュのことを軽く見ていた。
ズキッ!
ヨシュの左肩に痛みがはしった。
(まただ……)
あの男――ゾルザードにやられた個所が悲鳴をあげている。
ヨシュは、闘いのさなかであるにもかかわらず、観客席に眼を向けた。
「どこを見ている!?」
これだけの人数のなかにあっても、すぐにみつけられた。身体から放たれる力場のようなものが、一般人と分け隔ててくれる。
瞳が合った。
『所詮おまえは、その程度か』
そう蔑まれたようだった。
痛みに対抗しようとするように、右腕が動きだした。
長剣を右腕一本で、振るった。
狂ったように!
「うおおおお――ッ!!」
武具では有利に立つはずのマスールのほうが、後方へ退いてしまった。
「な、なんだ、おまえは!?」
えも言われぬ恐怖が、マスールの背筋を駆け上がった。つられたように、マスールのほうも、必死に戦斧を打ち込んでいた。
観客は、信じられないものを目の当たりにした。
「バカな……」
それまで冷静に見守っていたゾルザードでさえ、腰を浮かせていた。
巨斧の柄ではない。
極太の刃。
断頭のための幅広い鉄の塊が、砕けていた。
「なるほど……《砕牙》も、すてたもんじゃなかったということか」
満員の客席で、おそらくただ一人、落ち着きを忘れずに眼を向けられていたであろうラリュースが、そうつぶやいた。つぶやいてから、となりで言葉を失っていた女王様に視線を移した。
まるで、私の眼は節穴ではなかったろ――そう語っているようだった。
「このままでも充分、優勝できるかもしれないね」
「で、でも……ここからよ!」
負けじと、メユーブは声をあげた。
「ここからが、いつもダメなのよ!」
しかし今日に限っては、それは当てはまらなかったようだ。
闘場では、すでに戦意喪失したマスールが茫然と立ち尽くしていた。
ヨシュは、いつものように、自ら剣を投げ捨てている。そして、拳術のかまえをとっていた。
ふいにマスールが、刃が砕け、もはや役に立たなくなった戦斧を地面に放り投げた。武器に頼らなくても、総術――ラドムンクンを使えるということだが、そういう素振りはみられなかった。
それから少しの間もおかずに、審判からの裁定がくだった。
「そこまで!」
闘いの意志がないとみなされ、ヨシュの勝利が決まった。
* * *
「あれが、君の標的かい?」
「そうだ……」
「凄かったですね~! あんな斧を砕くなんて、人間業じゃない!」
「大丈夫ですわ、天鼬さまのほうがお強いですよ」
「リアンさん、それは気休めですよ」
「まあ! 失礼な方」
「いや、ファーレイの言うとおりだ。なあ、オレはあいつに勝てるか?」
「勝てますわよ、ねぇ、先生?」
「彼がいまのままだったら、勝てる。だが」
「だが?」
「いまの彼は、本当の彼ではないような気がする。その彼に勝ったとしても、君は満足しないだろう」
「あいつは、もっと強いと?」
「強い」
「その本当のアザラックとだったら?」
「負けるかもしれないし、勝つかもしれない……やってみなければわからないよ」
「負けのほうがさきってことは、やっぱり分が悪いってことか」
「ふふ、考えすぎだよ」
五
また、だれかが闘っている。
大きな斧を振り回し、対戦相手を殺そうとしている。
わたしは、残虐なものは観たくない。
でも、どうしてでしょう?
なぜだか、いつも眼がはなせないのです。
最初にここへ来たのは、いつだったでしょうか。
感情をおもてに出せないわたしを気づかって、お兄さまがつれてきてくれたのです。
残虐な光景……。
でも、それだけではありませんでした。
いえ、それだけのものもあるけれど、それだけでないものもたくさんあるのです。
はじめは怖かった。
わたしのできる限りで、それを表現しました。
それは、お兄さまに伝わったのでしょうか、伝わらなかったのでしょうか。
『大丈夫、次の試合はおもしろいよ』
そうお兄さまが言ったあとの闘いは、必ず素晴らしかった。
わたしは、眼を奪われました。
そして闘いのおもしろさを知ってから、たびたび闘技場に来るようになったのです。
それからです。
わたしは、だんだんと確実に、わかるようになりました。
闘いの技術、攻防の凄味、闘者の精神論。
わたしのなかの世界では、いくつもの競技の知識や情報が飛び交っている。冷静に分析し、学問として受け入れている。
だれも、信じてくれないでしょうね。
そんなわたしの一面を……。
熱く、濃い、闘いを求める心。でも、それを満たしてしてくれる試合は、けっして多くはありません。
大半の試合が、空虚に心を素通りしてゆく。
今日ここまでの闘いも、そうでした。
だけど、この四試合目はちがう。
あの銀髪の人のせいでしょう。
巨大な斧に立ち向かう勇者。
そしてなんと、その斧を砕いてしまったではないですか!
斧にくらべれば、ずっと細いあの刃で――。
でも、あの銀髪の勇者は、本当の姿をまださらけ出していないはずです。いまのままでは、わたしの心の奥にまで響かない。
きっと、この心のすべてを満たしてくれる人が、わたしの救い主にちがいありません。
この人でもないのでしょうか。
わたしをここから連れ出しくれる人は……。