藍鳳の章10
莉安の眼が醒めたのは、もう空の黒が薄れかけてからだった。
「大丈夫か!?」
「天鼬さま……」
強くみつめるシャイの顔を、うっとりと莉安がみつめ返す。
あいかわらずの困った反応だが、安心のほうが上に立った。もとのまま。あの、おかしくなった彼女はいなかった。心配しすぎだったのかもしれない。梁明や孔仁老が言うように、ただ疲れていただけなのだろう。
ほっとする間もなく、シャイたちは、これからのことを話し合わなければならなかった。
「君は、これからどうする?」
はじめに口火をきったのは、梁明だった。
「どうするって……オレは、あんたに教えてもらうために、こんなところまで来たんだ」
「私は、この国を出る」
「だったら、オレもついていく」
「うむ」
梁明は、満足そうにうなずいた。
「ほほほ、わしもいっしょに行きたいんだがな……この歳では無理のようじゃ」
「あなたには、安全な隠れ家をすでに用意してあります。王牙をつけますので、まずはそちらに」
「梁明よ、本気になったのじゃな」
「はい」
「けっこうけっこう、わしもまだ死ねんようじゃな。この国の行く末を見定めるまでは」
こうして孔仁老と王牙は、孫梁明が手筈をととのえた瀏斑国内の隠れ家へ――。
「玖蓮は、四門将の動きをさぐるのだ」
「は」
短く、玖蓮はそれだけを応えた。
いつ合流したのか、シャイにはわからなかった。気づいたら、横にいたのだ。てっきり鵺蒼に殺されたものとばかり思っていたのだが、梁明も王牙も、彼の生還にまったく動じたふうもない。
玖蓮は、単独で諜報活動を――。
「で、どこへ行くんだ?」
「ここからこの国を出るには、栄華連へ行くしかないだろう」
「テメトゥースか?」
「そうだ。この国が、ただ一つ交流を結んでいる都市――」
「どうやって? 関所は大丈夫なのか?」
「関所を突破する必要はない。裏技を使う」
「?」
実際に行ってみればわかる――そう言いたげに、梁明は眼だけで笑った。シャイ、梁明、莉安、それにファーレイの四人は、テメトゥース独立市へ向かうことに――。
移動を開始した一行は、林と呼ぶにはさびしい木々の群れを抜け、見通しのいい丘へおもむいた。追手のたぐいは見当たらない。
暁光が、六人を照らす。
すでに、玖蓮だけが消えていた。
「では、孔仁様を送ったら、おれもあとを追います」
孔仁老をおぶった王牙は、西へ。
残りの四人は、東へと向かった。
* * *
「お待ちしておりました」
山を下り、荒れ果てた野を越えると、あたりの景色は一変していた。ここまで来るのに、二日を要していた。瀏斑というよりも、シャイにとってはよく知っている国土……サルジャークの大地が、そこには広がっていた。
眼前に展開しているのは、砂漠。
黄金色の絨毯が世界を覆っていた。
夕刻を知らせる陽の色が、その絨毯を美しく彩る。
旺州貴族の宮殿に描かれた壁画のような風景のなかで、一人の男と、二頭の駱駝が、シャイたち一行を待ちかまえていた。
「ご苦労だった、荘鶴」
孫梁明は、駱駝とともに立っていた男に、そう声をかけた。
シャイにも、覚えのある人物だった。
「あんたは……」
この国に入るとき……そう、関所で出会っている。
「どうやら先生のもとまで、たどりつけたようだな」
「どういうことだ?」
「おれの使命は、先生が国外に脱出するときのために、栄華連までの逃走経路を確保することだったのさ」
「それで、関所で門番なんてやってたのか」
「そういうことだ。だがまさか、本当にこんなことになるとは思わなかったがね。狼煙を見たときは、さすがにわが眼を疑ったよ」
待ちかまえていた男――荘鶴は、そう説明した。そういえば、山の上でしきりに梁明が炎を焚いていたが、この男に合図を送るためだったようだ。
「この動物は、たしかラクダでしたね」
物珍しそうに、ファーレイが二頭の大きな駱駝を眺めていた。旺州にはいない種の動物だった。砂漠地帯に住む人々によって、家畜として飼われている。
「もしかして、これを使うのか?」
無邪気に駱駝で喜んでいるファーレイを尻目に、シャイは問いかけた。この状況下において、駱駝を準備しているという意味合いは、それ一つしかない。
これに乗って砂漠を越える――。
「この砂漠は越えられないって、言ってなかったか?」
「あれは嘘だ。いや……むかしはそうだったが、こんなときのために、砂漠を通れるようにしておかなければならなかったんだ」
「どうやって?」
「この砂漠は――」
そう言って荘鶴は、背後に広がる砂の大地に手を向けた。まるで巨大な壁画を自慢げに紹介する貴族のようだ。
「暗王国や砂風国中部の砂漠とはちがって、本当の意味での砂漠ではない。雨も降るし、気候も砂漠にしては涼しい。陽光もそれほどきつくない。みんな『砂漠』という呼び名に勘違いしているんだ。なんの小細工をしなくても、たっぷりの水さえ用意できれば、突っ切ることも可能だ」
危険だが……というつぶやきを、小さくつけたした。
「で、小細工をしたってわけか?」
「まあ、聞け。この砂の層は、想像よりも薄い。掘り起こせば、いずれ水脈にあたる。この一体は、南にそびえる咆崙山脈の雪解け水が、ちょうど地下水として蓄えられているんだ」
「掘ったのか?」
「もちろん」
荘鶴は、自慢げに言った。
浅いとはいえ、砂漠は砂漠だ。そこに井戸を掘るなど、かなりの人員と財力が必要となるはずだ。個人の都合でつくれるようなものではない。それこそ国家規模の事業だろう。信じられない、といったシャイの顔色に先回りして、荘鶴は続けた。
「孔仁様と先生の力をなめてもらっちゃこまるよ」
孔仁老の権力と財力。息子の孔苓も政治的な力があるという。
そして、優秀な人材の集う孫梁明。
この二人に不可能なことはない。
シャイは、あることを思い出していた。オルダーンの《炎鷲》に届いた梁明からの手紙のことだ。どうやって、はるばるオルダーンまで配達できたのか、いまわかった。
「では、急ぐとしよう」
梁明が、駱駝の背に跨がった。
「どれぐらいでつくんだ?」
「明日の朝、一つ目の井戸につく。そこで夕刻まで休む。日中の移動は困難だからな。それを数日繰り返すんだ」
「数日……」
「ちなみに、井戸の数は三つだ」
ということは、いまを一日目の夕刻とすれば、第一の井戸に到達するのは二日目の朝。昼間に休み、その日の夕刻に出発するとして第二の井戸には三日目の朝、第三の井戸に四日目……目的地にたどりつくのは、五日目の朝ということになる。
「思ったよりは、はやいな」
「ああ。距離的には、こっちのほうが近いからな。でも、整備された道を行くように、楽じゃない。それは覚悟しといてくれ」
「食料は?」
「安心しろ。たっぷり用意してある」
そう言って、荘鶴は駱駝を指さした。
大きな荷を積んでいるその駱駝の背には、すでにファーレイが乗っていた。
「うぉー、すごいすごい」
外見同様、子供のようにはしゃいでいる。
「まさか、こんな人数がいると思わなかったんで、そっちに三人で乗ってくれ」
ファーレイの後ろに莉安を乗せて、シャイが最後尾に上がった。
「これを着ろ」
厚い布が渡された。
「夜は冷える」
サルジャーク生まれのシャイにとっては常識的なことだったが、砂漠をよく知らないファーレイには、不思議なことだったらしい。
「暑いんじゃないですか?」
「それは昼だけだ」
もう一頭――さきに乗っていた梁明の前に荘鶴が座り、駱駝たちは夕陽のなかを進みはじめた。
「そういえば……招待状をいただいてたんでしたっけ」
ファーレイは、だれにも聞こえないように独り言をつぶやくと、右の掌を上に向けて、口の前に運んだ。
ふう、と息を吹きかけた。
なにもないはずの掌。
だが、なにかが流れていくのがわかる。
「風の精霊《ラルドゥー》よ、かの地に伝えよ」
わが言葉。
風に乗せて――。