藍鳳の章 9
家族は、四人だった。
厳格な父に、清楚な母……。
そして、かわいい妹。
なにも告げずに家を出たことを、ときたま悔やむことがある。
あれから四年が経った。
父母、妹は、自分のことを恨んでいるだろうか?
バラッドの名を汚した自分のことを――。
『武』の名門として栄華を誇ったバラッド家は、あの試合を境に没落の道をたどった。父も、かつては王者だった。祖父も、さらにその父も……。
サルジャークに『貴族』というものは存在しない。王族の下は、すべてが平等である。
しかし、唯一の例外が『剣侯』である。
闘者を低い身分とする国々は多いが、逆に崇高な位置づけをしている国もあるのだ。
闘場に立つ者には、王族ですら尊敬の念を抱く――それが、サルジャークにおいての闘者たちの定義だ。
サルジャークの顔――ナーダ聖技場。
その最高位に立った男。
頂点に立ち続けた一族。
剣侯『バラッド』。
思い起こせば、自分はその家柄によって剣を握っていた。
この右腕は、自分の意志で動いていたわけではない。所詮、親からの……一族からの流れにあやつられていただけだ。
いまも、むかしも、この腕は思いどおりには動かせなかった。
動かない腕で、もがいていた。
父の責めるような眼が痛い。
母の哀れみをこめた瞳が心をえぐる。
妹の凍りついた表情。
自分が負けることなど、想像もしていなかったのだろう。
痛い。
痛い。
痛い――。
「おい……おい、天鼬!」
シャイは、その声で意識を取り戻した。
ぼやけた視界のなかに、王牙がいた。
「気づいたか?」
シャイは起き上がろうとしたが、倒れていたのではなく、木の幹に寄りかかっていたのだと、すぐに知った。
脳裏をはっきりさせるため、頭を振る。
林のなかだろうか? はげ山だと思っていたが、こんな木々の密集した場所があるとは……。
「オレは……?」
次第に、記憶がよみがえってきた。
「あいつは? そうだ……リアンは!?」
最初に敵のことが浮かんだが、すぐにもっと大切なものが意識を支配した。
「大丈夫だ」
シャイと目線を合わせるようにしゃがんでいた王牙は、親指を背後に向けた。
シャイは身体を幹から離して、王牙の後ろを覗き込んだ。
そこに莉安が横たわっていた。
孔仁老が寄り添っている。
「様子がおかしいんだ、なんともないか!?」
「ほほほ、眠っておるだけじゃ」
孔仁老が答えた。
シャイは安堵のため息をつくと、背中を幹に戻した。
「よく菠鵜を倒せたな」
王牙が言った。
「オレじゃない」
シャイは、投げ出すように言葉を吐いた。
「──では、だれがやったのだ?」
べつのところから声が聞こえた。
眼前の王牙でも、莉安に寄り添う孔仁老でもない。
シャイは首をめぐらせた。
木々のあいだから生まれるように、孫梁明が近づいてきた。
「先生、ご無事でしたか。鵺蒼たちは?」
「うむ、玖蓮にまかせてきた」
そう答えると、梁明は笑みをつくった。
この達人にとって、他人の力を借りるということは、おもしろい冗談に匹敵する奇異なのだ。
「天鼬よ、それはまぎれもなく、おまえの仕業だろうよ」
「オレじゃない……」
シャイは繰り返した。
「あの剣だ、オレの力じゃない」
そう言うと、シャイは木に背を預けたまま立ち上がった。
足は平気だが、なぜだか右腕が痛む。
もう片方の手で苦痛の箇所をおさえながら、《雷塵》の行方をさぐった。
となりの木に立てかけてあった。
「いや、ならば君の力だよ」
「これは、なんだ!? オレはそんなに強くない! だが、あのハテイという男を倒せた」
それだけではない。
大弓を使う掏耶。
姿を消していた瑙雲と淮真という二人も、瞬く間に打ち倒した。見えないはずなのに、気配が手に取るようにわかった。
軽かった。左腕を、まるでなにも持っていないかのように振ることができた。
死んでいたはずの右腕も、息を吹き返した。
なんだ、この刀は?
この剣は、なんだ!?
「それが、奴らの欲しがる理由だよ」
梁明の言葉が、直接、心に響いた。
『覇王の刃』――一つの国を制することまでは大袈裟かもしれないが、たしかに底知れぬものだということは実感できる。
「……それにリアンだ」
シャイは、意を決したように推測を述べはじめた。
「この刀を使えば使うほど、おかしくなってる……そうだろ!?」
「おかしい、とは?」
逆に、梁明から問いかけられた。
「彼女が彼女でないみたいだ……最初から、ちょっと変わった女性だとは思ってたが、そういうんじゃない。どこか、ぼやけてて……消えてしまいそうに……」
そこまで言って、シャイは自分が恐ろしい想像をしていることにハッとなった。
この剣を使うごとに、彼女が薄らいでいる……このまま使いつづければ、リアンは消えてしまう!?
「ははは、考えすぎだよ」
しかし、梁明は簡単に笑い飛ばした。
「《名砿》とは、そういうものさ。渾身の逸品を世に生誕させたのだ。その疲れがいま出たのだろう」
とても納得できたふうもなく、シャイは横たわる莉安に視線を向けた。
そのときだった。
王牙が瞬発的な動きで、ある一点に駆けていった。
「待て、その男は敵じゃない!」
シャイの制止で、王牙の突進が止まった。
その声がなければ、王牙の蹴りが、近づいてきた男に致命傷をあたえていただろう。
「おっと、危ない」
そう驚いてもいない様子だったが、その男が声をあげた。
まだ一四、五の少年のような姿。
ファーレイだ。
「そんなに、こわい顔をしないでください」
「なにを言う! 鵺蒼たちと手を組んでいるのだろう!?」
「その契約は、さきほどまでで終わりました。ひらたく言えば、『裏切った』というところでしょうかね」
掏耶には裏切ったことを否定したはずだが、ここでは自分から認めてしまった。
「ボクの仕事は、『一〇七のこの世ならざるもの』をこの眼で見届けること。そちらで眠っている《名砿》の女性が生み出した『覇王の刃』を――」
台詞の途中で、王牙がファーレイの胸ぐらをつかんで、ぐいっと引き寄せた。
「やはり、奴らと同じではないか!」
「ちょ、ちょっと……」
息苦しさにむせながら、ファーレイは右の親指と中指をこすり合わせた。
夜の世界が、白昼のように変じた。
一瞬だけ。
「なに!?」
王牙は、信じられない現象を目の当たりにした。
炎!?
この少年のような異国人のまわりに、火炎がまきおこった。
幻か!?
ちがう!
熱さで手を放した。
まちがいなく、炎が発生したのだ!
「ハ、ハア……ほら、火の精霊《ドラルファー》も、怒っていますよっ」
「な、なんだいまのは!?」
「ほほほ、おもしろいことをしおるわい」
眼を見張る王牙をよそに、孔仁老が喜びの感情をあらわした。一番年上のはずが、もっとも子供のような瞳だ。
「勘違いしないでください……ボクは、彼らとはちがいます。べつにボクは、『覇王の刃』を欲しいとは言っていません。見届けたいと言ったのです」
「同じことだ!」
「ちがいます」
ファーレイは、きっぱりと告げた。
童顔とは、かけ離れた迫力があった。
王牙の追及の言も止まってしまった。
「どこに行っていた?」
そう冷静な声をかけたのは、その「見届けたいもの」を左手に握ったシャイだった。不可思議な現象のことは、すでに自分のなかで消化してしまったようだ。
それだけ今夜のシャイは、この世のものでない体験をしているということだろう。
「ええ、ちょっと『まやかし』の術をほどこしてました。どうやらあのヤソウという男は、どんなに離れていても、闇のなかの気配を察知できる能力があるようですので」
「まやかし?」
「ま、しばらくここは発見されませんよ」
具体的にどういうことなのかを知ろうとする者はいなかった。実際に神秘をみせられたあととなっては、聞く必要もないことだ。
「一〇七のなんとか……」
「この世ならざるものです」
「それが、これなのか?」
シャイは、《雷塵》を掲げながら訊いた。
「この世界には、通常の学術では説明のつかない摩訶不思議なことが、一〇七つあるそうです。だれが数えたのかは知りませんがね。……ボクの解釈でいいのなら、一〇七の意味をお教えしますよ」
ファーレイは、独りよがりの語りをはじめてしまった。ほかの者がついてこれるか、これないかは、このさい関係ないようだ。
「このリュウハンをはじめとした西方の国々に当てはめるとしたら、煩悩の数でしょうかね。人間の煩悩は『一〇八』あるといわれています。その煩悩が『この世でないもの』を生んでしまった」
「一〇八? 一つ多いんじゃないか?」
口を挟んだのは、シャイだ。
「あなたはサルジャークの人間だから知らないのでしょう」
「ほほ、一〇八番目の煩悩とは、無我の境地のことじゃ」
「そうです」
孔仁老の説明に、ファーレイが続けた。
「一つは数に入りません……『無』なんですからね。つまり、煩悩の総数は一〇七つなんですよ」
シャイは理解できたのか、できなかったのか……とくに表情を変えることはなかった。
ファーレイの解説は、なおも続く。
「旺州の考え方でいえば、多くの神話を残している国ナシャスに伝わる『ヌリュドゥの忌箱』からきたのでしょう。創世の神から絶対に開けてはいけないと禁じられた、一〇八の『禍々しもの』を封じた箱……その箱をヌリュドゥという人物が開け放ってしまった。すると、箱のなかに入っていた禍々しい群れが世界に飛び散り、この世は災厄に満ちあふれてしまった……というわけです」
「またすまんが、やっぱり一つ多いんじゃないか?」
やはり、シャイからの横やりだった。
「いえ、箱のなかには一つだけ残っていたのです。それが『希望』です。この世界に救いがあるのは、そのためなんですよ。結局、こちらのほうでも、災厄の数は一〇七つだったというオチです」
「救いがある……ね」
どこか不満げなシャイの声だ。
「まあ、煩悩にしろ、災いにしろ、その一〇七つのなんとかってのは、あんまり歓迎されてないもんにかわりないようだな」
「ははは」
屈託なく、ファーレイは笑った。
「そのとおりです」
「それで、あんたの目的ってのは、簡単に言うとなんなんだ?」
「ですから、世界に散らばる『一〇七のこの世ならざるもの』をこの眼で見届け、わが女王陛下に報告することですよ。この国は雄大なだけあって、いくつもの『この世ならざるもの』があるみたいですね。その一つが、そちらのお嬢さんと、あなたの持っている剣ですよ」
「だったら、もういいだろ? もう見たんだから」
「いいえ、まだです」
ファーレイは、迷うことなく言った。
「これからも、あなたについていくことにします。そうすれば、あなたの闘いを見ることができる」
そこで、ファーレイは楽しそうな微笑みをつくった。わくわくと期待にあふれている。
「正直にいいますと、仕事のことなんて、本当はどうでもいいんですよ。ボクは闘いが大好きでしてね。あなたと行動をともにしていれば、たくさんの名勝負と出会えそうだ」
「は?」
「いずれ、本を執筆しようと思ってるんですよ。世界の格闘技の記録をね」
シャイは、梁明の顔をうかがった。
「どうするよ?」
「まあ、害意があるようにも見えん。君が決めればいい」
その言葉を聞くと、シャイはため息をついた。
それを承諾の合図と解釈したのだろう。ファーレイは、あらためて一同に礼をした。
「イシュテル王宮一等書記官のファーレイです。今度ともよろしくお願いします」
そんな丁寧な挨拶をされたとなると、いまさら断ることもできなくなった。シャイは、再びため息をついた。
* * *
「眼を醒ませ!」
その叱咤の声で、菠鵜は意識を戻した。
鵺蒼と蝶碧の二人が、自分を見下ろしていた。
「八嵐衆屈指の男が、なんというざまだ」
怒りを通り越したのだろうか、言葉にはそれほどの迫力はこもっていなかった。
「鵺蒼様……」
菠鵜は、上半身を起こした。
状況をだんだんと把握していく。
倒された?
そうだ、あの異国の男に負けた。
あの『覇王の刃』に完敗してしまったのだ。
なぜ生きている!?
「命を助けられるとは、無様極まりない」
冷たく、鵺蒼は言い捨てた。
「いえ、助けられたのではなく、とどめをさすことができなかっただけかもしれません」
蝶碧が言った。菠鵜の立場を思いやっての発言にもとれるが、その淡々とした口調からは、あたたかいものは感じられない。そう思ったから、口に出しただけなのだろう。
「鵺蒼様、彼らの気配は?」
「わからぬ」
鵺蒼は、憮然と答えた。
「すでに山を下ったということか? いや、そんな時間などないはず……」
「どうやら、何者かによって妨害されているようですね」
蝶碧の言葉に、鵺蒼も菠鵜も、一人の顔を思い浮かべていた。
「あいつの仕業か!」
「では、いったんここは引きましょう。彼らの今後の行き先は、予想がつきます」
「どこへ行くと?」
「この国を出るつもりでしょう。おそらく──」
鵺蒼の脳裏に、『覇王の刃』の所有者となったあの異国人の姿が焼きついた。
砂風国の人間。
であるならば、この国を脱出できるであろう唯一の地域。
「『栄華連』か」
「そこに逃げ込む以外にはないでしょう。そして、そこを反国家運動の拠点にするはずです」
「だが、奴らはどうやって抜ける?」
「砂漠から」
「馬鹿な!」
「いいえ、梁明の人脈をもってすれば、たやすいことかと」
孫梁明の門下は、百人を超える。しかも、そのすべてが優秀な人材だ。武に長けているというだけではない。「文」も「徳」も、かねそろえた英傑なのだ。
「われわれ八嵐衆は、私と菠鵜、そして帝都に残っている猛群の三人だけとなってしまいました。この戦力では、彼らをこのまま追うことは不可能かと」
「なにを……! では、どうすればいいというのだ!?」
「渦響様にあたえられた勅命はご存じでしょう? その機を狙えばよろしいかと」
「なに!?」
「《翠虎》の渦響様にかりをつくることは不本意でしょうが、利用すると考えれば納得できるのではありませんか?」
憎々しげな眼光が、闇の彼方まで貫いたようだった。
鵺蒼の瞳は、怒りに焦げていた。