藍鳳の章 7
ヘタに踏み込めば、左右の爪で切り刻まれてしまうだろう。
刺すような気配が、菠鵜のまわりの空間に見えない壁をつくっているかのようだ。その壁に、策もなしに触れてしまうわけにはいかない。
はたして、左の剣をどう打ち込むべきなのか。
上段から打ち下ろすか。
水平に薙ぐか。
それとも突くか。
ダメだ。どれも、かわされる。
当たる気がしない。
この菠鵜という男には、どんな攻撃も通用しないのではないだろうか。それほどの実力だということが、力の枷を取り外したいまだからこそわかる。力を試されていたときが、どれほど手を抜いていたのか、イヤというほど理解できた。
「……!」
気配は動いていないはずだった。
肉眼で見えていた菠鵜の姿も、なんの動作もしていない。
だが、爪は襲ってきた!
なにもすることができなかった。
左手の《雷塵》を弾かれていた。
闇に飛ばされた刀は、大股で五歩ほど行ったさきの地面に突き刺さった。
「バ、バカな……」
「わが『翼爪』の牙は、素人ではとらえられん」
「……オレが、素人だって言いたいのかよ!」
なかばヤケクソに、シャイは吐き捨てた。
「いや、おまえには見えたはずだ」
「見えなかったよ、悔しいがな!」
シャイは両手をあげて、その場に座り込んだ。降参するしかなかった。このまま抵抗しても、殺されるという結果が変わるわけではない。
「負けだ。好きにしろ」
いさぎよく命を投げ出した。
「……おまえには、誇りというものがないのか?」
そのあまりの降参ぶりに、菠鵜も困惑してしまったようだ。
「ない」
シャイからの返事は、はっきりとすぐに返っていった。
「格がちがいすぎる。あんた強すぎるよ」
その言葉に嘘はなかった。心の底から、負けを認めていた。それほど悔しくもない。この男との実力差が、どうすることもできないほど開きすぎているからだ。
思えば、あのアザラックとの差も、これぐらい開きがあった。あのときは闘規の定められた競技であり、おたがいに地元の看板も背負って闘っていたから、その後の人生を大きく変えてしまうほどに悔しかったのだ。
しかし、これは闘規の存在しない殺し合いだ。勝つか負けるかではない。
生きるか死ぬかだ。
なにかを背負っているわけでもない。負ければ、ただ命を取られるだけのこと。
状況がちがえば、これほど楽に負けることができるのか。
(まあ、いいか……逃げて死ぬんじゃない)
闘って死ねるんだから――。
シャイは、眼を閉じた。
一度は逃げ出した男が、そこからよみがえり、再び剣を握ったことが、最後の誇りだった。
「惜しい男だが、これも天命……」
菠鵜の爪が、闇夜を裂いた。
* * *
土の斜面を音もなく駆け登っていく。
息は、まったく乱れていない。
平地を、しかも足に自慢のある人間が走っているような速度だ。老人とはいえ、一人を背負っているとは信じられない脚力と体力だった。
「王牙よ、もうよいのではないか?」
「いえ、まだ遠くへ」
孔仁老に返した言葉にも、声がゆれるようなことはない。
「ん!?」
「どうしたのじゃ?」
「追手のようです」
敵の接近を察した王牙の表情も、それを聞かされた孔仁老の顔色にも、これといって変化はなかった。
「うむ。おまえさんの判断どおり、まだ遠くへ行かなければならんようだのう」
だが、王牙の足は止まっていた。
「いえ、一人だけならば、はらったほうがいいでしょう」
「ほほほ、すごい自信じゃな。なるほど、遠くへ、という言葉、もっと複数の追手を想定してのことか」
孔仁老は、楽しそうに笑った。
「じゃが、こちらへの追手が一人だけということは、天鼬と莉安のほうに大半が向かったということじゃな」
「そのようです」
「では、こちらの追手を早々に片づけて、天鼬の助太刀に行かなくては」
「それはなりません。孔仁様の安全を確保しなければ」
「それはちがうぞ。莉安が《名砿》として目覚めておる以上、その刀を託された天鼬の身が大事。こんなおいぼれの命よりもな」
「くくく、笑わせてくれるわ!」
二人の会話に、低い地響きのような荒れた声が邪魔して入った。
「人の心配よりも、自分たちのことを案じたほうがいいのではないか?」
「おまえ――」
「まさか、あれで倒したつもりになっていたわけではあるまい?」
その男は、円斬を手にしていた。
さきほど、王牙が前蹴りで昏倒させた些愕という男だった。
「あのまま倒れていればいいものを」
背から孔仁老を降ろしながら、王牙は言った。
降りた孔仁は、傾く大地に、ちょこんと立っている。その小さな身体を守るように、王牙が些愕へ向かい、前へ出た。
「油断さえしなければ、この俺の『円丞拳砕刀流』の技が破れることはないのだ! 円丞刀術の神髄により磨かれたこの円斬で、どんな武具も、武術の技も、こなごなに粉砕してくれよう」
「砕刀流?」
ふっ、と王牙は一笑にふした。
「おまえのほうこそ笑わせる。そんな大きな得物で相手の武具を砕いたとて、なんの自慢になるというのだ?」
月光を反射する円斬を前にしても、王牙はあくまで素手のかまえを崩さない。
「ふん! 武具を持っていない、きさまの負け惜しみか」
些愕は、斬りかかった。
王牙は動かない。
避けようともしない。
「死ねっ!」
天から降ってくる湾曲の刃――。
王牙の右手が横からはらうように飛んだ。
自らの頭上。まるで、虫でもはね除けようとするかのようだ。しかし王牙を襲うものは、虫のように害のないものではない。
円斬の刃だ!
「身のほど知らずの馬鹿がっ!」
両断しようとする白刃を、右の手刀が叩いた。
些愕は、信じられないものを見た。
鉄製の武具が、素手で叩き折られただと!?
「身のほど知らず?」
円斬を砕いた男は、それを誇ろうとするのでもなく、ただ平然としていた。
あたりまえのことだ──そう言わんばかりだった。
「そ、そんなことが……」
「わかったか。武具で武具を砕いても意味がないということが」
王牙は静かに踏み込んだ。
些愕の鳩尾に深々と拳がめり込んでいた。
「ほほほ、見事、見事」
倒れた身体は、微動もしなかった。
「こやつは、もう終わりじゃ。二度と闘うことはできんじゃろ。おまさんに、こうまで恐怖を思い知らされてはな」
命を取る必要はないだろうと、孔仁老は言っているのだ。
王牙にも、そのつもりはなかった。この男にとって、殺すということに価値は存在しない。
「天鼬のもとに急ぐのじゃ」
「しかし、孔仁様……」
「はよせ!」
その一瞬だけ、老人とは思えない迫力を感じさせた。超人的な強さをみせた王牙とて、それに逆らうことはできそうにない。
兵士として、もはや生ける屍と化した些愕を残して、二人は――正確に言えば、孔仁老をおぶった王牙は、再び闇の斜面を駆けだした。
* * *
名勝負の終幕は、えてしてこういう残念な結果になることが多い。
もしこの闘いが闘技場でおこなわれていたのだとしたら、観客は彼らの技の応酬を、まだまだずっと観つづけていたかったはずだ。
こんなやり方で止められていい試合ではなかった。
「いかにきさまとて、こうなっては、もうおしまいだな」
勝ち誇ったように、鵺蒼は言った。
梁明の喉元に刃を突きつけたままだ。
名勝負を台無しにしたという罪の意識はおろか、自覚すらないようだ。
蝶碧がそこでようやく、かまえを解いた。
どこか曇った表情なのが印象的だ。
「孫梁明を殺すのは、この俺だ」
鵺蒼は、突きつけた刃をさらに近づけた。
この期におよんでも、梁明からは、焦りの色も恐怖の念も感じない。
そのとき、もう一人が梁明の後ろに回っていた。仰向けに倒れているいまの状態では、頭側というほうが正しいか。
いまだはっきりと姿はみせないが、八嵐衆最後の狐呀という男のはずだ。
「さすがは、八嵐衆きっての実力者だけのことはある。いいぞ、狐呀。そうやって、梁明の悪あがきを封じようというのだな」
鵺蒼からほめ言葉が出ようとは、配下である蝶碧も、言われた狐呀本人も、さぞかし驚いていることだろう。これも、宿敵とする孫梁明を殺せることに歓喜するあまりの産物なのか。
梁明の次は、王牙。
王牙を殺せば、地揺拳はもう終わりだ。あとの弟子は雑魚しかいない。これからは、わが嵐戒拳が瀏斑最強の流派として生き残るのだ!
「ん?」
暗黒の妄想を膨らませていた鵺蒼だったが、そこで異変に気がついた。
「どうしたのだ、狐呀?」
様子がおかしい。そもそも、なぜ姿を現さない?
ここにいるのは達人ばかりだ。いかに姿を消していたとしても、気配はみなに筒抜けだ。しかも、すでに梁明の動きは完全に封じている。もう正体をあらわにしてもいいではないか。
「だれだ、きさま!?」
そこにいるのが狐呀でないことを、鵺蒼も蝶碧も、やっと察知することができた。
黒い影だったものが、明確な人の姿として月明かりに浮かび上がった。
それはやはり、狐呀のものではない。
「きさま……生きてっ」
そのほんの少しの隙を、梁明は見逃さなかった。
鵺蒼の眼が、狐呀になりすましていた人物に奪われた瞬間、すべての瞬発力を集中させて、鵺蒼から離れた。
「くそっ!」
長刀があとを追うも、間に合わなかった。
「先生、ここはおまかせを」
「うむ。天鼬が気がかりだ。まかせた」
梁明が地を滑るように走り出した。すぐに闇のなかへ溶けるように遠のいていった。
鵺蒼は追うことができない。
「生きていたのか!?」
「生死のかかった場面になど、遭遇したおぼえはありません」
現れた男は、穏やかに言った。
玖蓮。
まるで、いまから皓々と輝く月を眺めようとしているかのごとき無造作なかまえ。
茫洋としている棘のない顔だち。
とても闘う男のものではなかった。
「狐呀はどうしたのだ!?」
「さあ。どこかで、のびているのかもしれません」
とぼけたように、玖蓮は答えた。
「あいつも役立たずだったということか!」
部下の不甲斐なさへの怒りを玖蓮にぶつけるかのように、鵺蒼は睨みをきかせた。
「どけ! きさまごときが、俺を阻めるか」
「やってみなければわかりませんよ」
「俺を、狐呀のような役立たずと同じに考えてると、死ぬことになるぞ」
「あなたのほうこそ、先生や王牙よりも、私を『下』と思っていると、死ぬことになりますよ」
「なに!?」
一瞬だけ、闘う男の顔をみせた。
「では、それを証明してみせましょう」
そう言ったときには、すでに猛々しさは消えていた。
もとのまま。
茫洋とした、平凡な男の顔だった。