藍鳳の章 5
闇のなかでは距離感がつかめない。いったい、どれぐらいあの連中から離れたのだろう。シャイは、莉安の体力を気にしながら、全力に近い速度で飛ばしていた。
「大丈夫か? 疲れてないか!?」
返事はなかった。息づかいなどは乱れていないようだが、無遠慮に走りすぎたのかもしれない。シャイは、足の回転をゆるめた。
「どうした?」
首だけを向ける。
「おい!」
「え、ええ……」
その呼びかけで、やっと声が返ってきた。
シャイは、完全に立ち止まった。
「どうかしたのか!?」
表情からは、疲れている様子はない。怪我をしているようでもなかった。ただ、強く呼びかけるまで、莉安が感情をなくしているように見えたのだ。
「天鼬さま……」
莉安は、シャイの顔をじっとみつめ、そうつぶやいた。
「大丈夫か?」
「はい」
シャイの心配に埋めつくされた面容が、肩透かしをくったように、脱力の相へと変わった。本気で心配してくれていることに感動するあまり、莉安の美貌は喜びで陶酔しきっていたのだ。
心配して損をした、と言いたげに顔を歪めたシャイだったが、すぐに引き締めた。
「追手はいないようだが、まだ遠くへ行かなければならない。走れるか?」
莉安は、うっとりとしたままうなずいた。
シャイは安心のため息をつくと、再び走り出した。
だが、すぐに――。
「なんだ!?」
あきらかに不自然な風が、自分たちを吹き抜けていった。
「やっと追いつけたようですね」
シャイは、信じられないものを見た。
人が宙に浮いている!?
あの白い衣装に身を包んだ異国の少年だ。
少年の足は、まちがいなく地面についていなかった。
「……」
言葉もなく立ち尽くすシャイに、少年が中空に浮いたまま近寄ってくる。
「そんなに驚かないでくださいよ。この世界には『一〇七のこの世ならざるもの』があります。これも、その一つにすぎません」
少年は、悠然と口にした。
「ラルドゥー、もういいですよ」
その直後、少年の足は大地へ戻った。
「よっと」
「おまえ、何者だ!? 子供じゃないな!?」
「失礼、ボクの名はファーレイ。こう見えても、あなたより年上ですよ」
いくらなんでも、それはないだろう。シャイの顔はあきらかに疑っていたが、あえて追求することはしなかった。
「はるばるイシュテルからやって来ました」
少年――彼の言葉が真実だとすれば、少年に見える大人――は、自己紹介を続けた。
イシュテルといえば、旺州でも東に位置する。シャイも訪れたオルダーン、そこで見た南海を渡ったさきにある巨大な島が、イシュテルだ。
『知の宝庫』と呼ばれ、世界一の教養水準を誇る。東方列国のなかでも最大の繁栄をみせる大国だ。
「ボクは敵ではありません」
身構えるシャイに、少年のような彼――ファーレイは、穏やかな声をかけた。
「おまえも、リアンを狙ってるんじゃないのか!?」
「ボクの目的は、『この世ならざるもの』をこの眼で確認すること。あの人たちのように奪うことではありません」
「同じことだろ?」
「いいえ、まったく」
ファーレイは、さらりと答えた。子供のような姿形が味方しているのか、邪念を感じるようなことはなかった。
「もうあの人たちの――ヤソウという男の残虐さにはついていけません。この山まで案内してくれた男性も、虫けらのように殺されました。だから、あなたたちの味方になることにしたんですよ」
「味方だと?」
「あなたたちにつきます。だって《名砿》と『覇王の刃』は、あなたが手にしたんですから、こっちについたほうが得でしょう?」
打算的なことを、ここまで無邪気に言われると、返す言葉もみつからなかった。
と、そのとき……シャイの身体に異変がおこった。
「なんだ!?」
左手が、勝手に反応していた。
《雷塵》で、なにかを払い落としていた。
〈くくく、そんなところで話し込んでいるとは、追う楽しみもなかったわ〉
闇に広がるように、声は流れていた。
「だれだ!?」
〈八嵐衆の掏耶。いまの一矢は、よくぞかわした。褒めてやろう。だが、俺の弓は標的を絶対にはずさん〉
「気をつけてください。え~と、名前はなんでしたっけ?」
「シャイだ! シャイ・バラッドだ」
「来ますよ、シャイさん!」
ファーレイの警戒の声が消えるよりもはやく、疾風のように迫るものが月明かりにわずか影をつくった。常人では反応することもできなかったろう。
シャイは右手を突いて、ファーレイへ託すように、莉安を遠ざけた。
《雷塵》を首の前に掲げ、防御した。
鞘が矢を弾く!
〈ほう、動体視力はすぐれているな〉
余裕にまみれた声は、喜々とはずんでいた。
〈では、これはどうだ?〉
一、二、三!
三本同時!?
喉元、下腹部、足元。
シャイは、どう避けたのか自覚がなかった。結果だけをいえば、二本を刀で払って、残りを飛ぶことでかわしていた。
〈咄嗟に跳ね上がり、足の矢を飛び越え、そのさいに刀を盾のようにそえることで上の二発を弾き返すとは……判断力ではないだろう。卓越した反射神経と、猛虎のような戦闘本能とみた〉
「分析などせずに、姿を現せ! それとも、闇に隠れなければ、矢を射ることもできないのか!?」
〈くくく、いいだろう〉
たしかに、声は前方から聞こえていた。
しかし、男が姿を見せたのは――。
「後ろです、シャイさん!」
考えもしない方向から気配が迫ってきたことに、背筋が痛く凍りついた。
「バカな!」
シャイは瞬時に背後を振り返ると、大きな弓を手にした男をまちがいなく視界に入れていた。
「どうした? まるで狐につままれたような顔だぞ」
ありえないことだった。
声は前――振り返ったいまとなっては、背後から聞こえていた。矢だって、同じ方角から射られたのだ。それなのに、なぜこの男は正反対の場所から!?
「わかったか? いつでもおまえを殺せるということが」
「なんだと!?」
「力を試したのだ。ただ殺してもおもしろくないだろう? なんの牙もない野兎を全力で狩ったところで、娯楽にはならないからね。楽しむためには、相手の力量を知り、それに合わせなければならないのだよ」
大弓の男――八嵐衆の掏耶は、愉悦に顔を歪めていた。
「つまりこれは、狩猟ではない――殺戮だよ!」
「……まともに話せる相手じゃないな」
「なにを言っているのだ。もっと話をしようじゃないか! 会話をはずませてこそ、殺しそのものがもっと楽しくなる」
シャイは声を無視して、莉安の姿をさがした。
「リアン!」
顔は前、視線だけを右にやった。
あのまま、ファーレイといっしょにいる。
「安心しろ。その女は殺せない。命令だからな。おまえと、そこの裏切り者だけが、ここで死ぬのだ」
掏耶の言葉に、ファーレイが口を挟んだ。
「べつに裏切ったわけではありませんよ。あなたたちより、シャイさんのほうが利用価値があるとふんだだけです」
「それを裏切ったというのだ!」
悪びれもせず開き直ったファーレイの言い種に、掏耶だけでなくシャイもあきれていた。
「まあいい……まずはおまえからだ!」
ため息のように声を吐くと、掏耶は背中の矢筒から一本取り出した。
弦をしぼる。
矢が飛んでくるまえに、掏耶の姿が消えていた。後方へ下がり、闇のなかに溶け込んだのだ。
〈くく、わが弓術の奥義をうけよ〉
声がやんだと同時に、矢が襲いかかってきた。
右手後方から!
身体が反応していた……いや、身体とか本能とか、そういうものではない。
いったい、なんだ!?
わかっている……。
本当は、さきほどから気づいていた。
『左手』だ。正確にいえば、左手に握られている、この刀だ。
片手だけで払うようにして、鞘から抜いた。
紙一重の距離、あらわになった刀身で矢を打ち落とした。
(やはり)
その後も、闇から降ってくる矢を叩き続けた。すべてを《雷塵》にまかせていた。
〈なんだと!?〉
集中豪雨が一時去ってから、闇からの声は驚愕にゆれていた。
さきほど、あの藍の軍団に包囲されたときにも、刀は敵の位置を知らせてくれた。そして、この掏耶が最初に射った矢も、シャイは寸前で悟っていた。
――こいつだ!
この刀が、シャイにもっているはずのない能力をあたえている。
負ける気がしなかった。
この掏耶という男にではない。
すべての人間に負ける気がしなかった。
覇王の刃……。
その意味が、いやでも脳裏になだれ込んできた。
シャイは眼をとじた。
〈なんのつもりだ!?〉
声は、今度は怒りにゆれた。
シャイは、掏耶には答えず、自分のなかに語りかけていた。
(試してやる)
この《雷塵》の力を見極めてやる!
左手が、標的をとらえた。
掏耶の位置だ。
右、後方、左、正面。
なるほど。闇に隠れて、シャイを中心に円を描いているのだ。響いてくる余裕に満ちた声からは、とても想像できないほど速く移動している。だから、声と矢の来る方向にズレがあったのだ。
この男の移動速度についていけるか!?
「風の精霊《ラルドゥー》よ! シャイさんに力を」
ファーレイの叫びの直後に、ありえないはずの神秘が自身におこったことを認めた。
宙に浮いていた。
「味方になった証に、『この世ならざるもの』の一端をお貸ししましょう」
シャイの身体を持ち上げた神秘の風は、もの凄い速度で移動をはじめた。
「へえ、ボクよりも速く進めるなんて、ラルドゥーに好かれてるみたいですよ、シャイさんは」
そんなファーレイのつぶやきは、シャイには届いていなかった。
風を切る音だけが耳につく。
自分の意志で飛んでいることがわかった。
シャイも、掏耶を追うように円を描いた。
「そ、そんな!」
二発ほど飛んできた苦しまぎれの矢も当たりはしない。
もう見切っている。
掏耶に、ピタリとつけた。
「終わりだ」
シャイは左手を振った。
「お、おまえは……風神、か……」
シャイが着地したときには、もう掏耶の瞳は、なにも映していなかった。
* * *
「くくく、この国最強の力だと? 笑わせてくれる!」
鵺蒼は、闇夜に哄笑を響かせた。
正面に孫梁明を見据えている。梁明の右斜め後方に蝶碧。左斜めに、いまだ姿はみせていないが、最後の八嵐衆――狐呀。
三人の猛者に囲まれているはずが、しかし梁明に焦りの色は滲んでいなかった。
「おいぼれには、早々にあの世へ行ってもらおう。この鵺蒼自らが手をくだしてな」
吐き捨てるように宣言してから、鵺蒼は刀を梁明めがけて突きかかった。狙いは、喉。月光を反射する刃が、一直線に流れた。
貫かれる寸前、梁明の身体が沈んだ。
「!」
這うように地を滑ると、掌を向けて鵺蒼の腹部に腕をのばした。
このとき刃の輝きは、頭上すれすれの位置に。
「底疾掌!」
身を低くして打ち出した掌打の威力は、まさしく地を揺らしたかのごとく、鵺蒼の身体に衝撃をあたえた。
「うぐううっ」
苦悶をしぼりだしながら、鵺蒼は後方に押し飛ばされた。だが、倒れない。それだけは、四門将《藍鳳》の誇りにかけて、耐え抜いた。
五歩、六歩……大人の歩幅で、それぐらいの距離は後退させられただろうか。
「ぐうう、梁明め……!」
鵺蒼の脳裏から、余計な事柄が消えた。
《名砿》も『覇王の刃』も、全能なる支配者――神將帝の命令も、頭から離れた。自らの野望すらも……。
存在するのは、ただ一人!
「そんななまくらを持っていては、私には勝てないぞ! 嵐戒拳の神髄とは、『刀』ではない。おまえの師は、そう教えてくれなかったのか?」
「なんだと!? いわせておけば……!」
怒りを噛み殺しながら、鵺蒼は長刀を捨てた。
「それでいい。わが地揺拳も、体術が極意。いくぞ――」
二人は、同時に踏み込んでいた。
さきに攻撃を仕掛けたのは、梁明のほうだ。
地を這うように足がはしった。
鵺蒼がその足を飛び越えると、はばたくように両腕を大きく左右に開いたではないか。自然法則に従い、藍に染まった男は地に向かう。まるで、天空から翼を広げた猛禽が、急降下で獲物を捕らえようとするかのようだ。
左右に大きく開いた両腕で、梁明の顔面を狙った。掻き切るように、開いていた腕を交差させた。
梁明は間一髪のところで、左腕を顔の前に出すことができた。
それができなければ、両眼が潰されていただろう。
「くっ」
さすがの梁明も、腕を鋭利に傷つけられて、苦悶のうめきをもらした。しかし、動きを止めるわけにはいかない。
血を闇夜に散らせながら、その腕で攻撃に転じた。左掌を、着地してすでに自身の有利な間合いまで後退している鵺蒼に打ち込んでいった。後退しているといっても、梁明が一歩踏み込めば届く距離だ。この二人にとって、わずかの間を制したほうが勝者なのだ。
だが左の掌打すらも、鵺蒼は跳躍でかわしていた。下段蹴りを飛び越えるよりも、当然高く上がらなければならないが、この藍鳳の男にとっては造作もないこと。
相手の技を天空に舞って避けることで、そのまま降下する力を自分の攻撃に利用する。それが『嵐戒拳』の極意だ。
梁明が再び防戦にまわらなければならないかと思われた。が、ちがった。梁明も飛び上がっていた。跳ね上がった足が、自分の胴体部、頭部を追い越して、宙返りするように天を蹴りあげた。
いままさに両腕を翼のように広げようとしていた鵺蒼は、虚をつかれた。
慌てて、防御のために腕を交差させる。
激しい衝撃が、鵺蒼の両腕を襲った。
「小賢しい真似を!」
二人は、同時に着地していた。
ここまでは、五分と五分。
滑空する鳥の動きを模写するという嵐戒拳――。とくに鵺蒼の技は『衝天』と呼ばれ、随一の激しさを誇るのだ。
それに対する地揺拳――。地を震わせるほどの剛力の技だというが、一方で、その動きは遙かなる山脈を連想させるほどにおおらかといわれている。梁明の動きを見ても、たしかに速いはずなのに、なぜだか速さを感じない。まるで、時間が止まってしまったかのように、梁明の技に永遠を感じる。
この闘い……静が地揺拳で、動が嵐戒拳といったところか。
「おまえの『衝天』を破るには、この私も奥義を出さなければならない」
梁明は、不思議と穏やかに言った。
その技は『地泳』という。
梁明は、右足を薙ぐように蹴りかかった。
その回し蹴りを当然のごとく飛び越えようとした鵺蒼だったが、飛ぶのではなく、腕での防御に切り替えた。腋をしめて、脇腹を守るようにそえた腕に、梁明の足が激突した。
「なんだ、いまのは!?」
鵺蒼は、そこで気づいた。
切り替えたのではない。
飛べなかったのだ。
「大地でもがけ、鵺蒼よ!」
立て続けに、梁明は掌打を連発した。
右、左、右!
いずれの攻撃も、鵺蒼は腕で防御するしかなかった。
飛べない。
なぜだ!?
これでは『衝天』が使えない。
左、右、左!
右の回し蹴り、左の掌打。
完全に自分の態勢を崩されている。
防戦するしかない。
「しまった!」
そこで、鵺蒼の腕に限界がきた。
痺れて動かなくなった。
右の掌打が、鵺蒼の鳩尾に決まろうとしていた。