藍鳳の章 3
あれからまもなく、孫梁明が弟子入りを許可してくれた。
「彼女とともになるのならば、私の技を教えよう」
梁明はそう言った。困った条件だったが、技を教えてもらうためには、よしというほかなかった。
すでに夕刻。許しを得てから、すぐに修行ははじまった。
「どうした、来ないのか?」
前方で身構えている男が、侮蔑のこもった声をかけてきた。
見事に剃り上がった頭。
孫梁明の弟子――自らも弟子入りを許されたいまとなっては、兄弟子ということになるだろうか。征王牙だ。
梁明の話によれば、数ある弟子のなかでも、最強の実力と、ずば抜けた才能があるということだった。
たしかに、強い。
悔しいが、自分とはもっているものがちがった。さきほどから何度も立ち合ったが、まったく歯が立たない。
「こちらからいくぞ!」
王牙が右の掌を向けて、シャイに襲いかかってきた。シャイは両腕を交差させて、その一撃を受け止めた。
いや、受けきれなかった。
また、すっ飛ばされた。
「クソッ!」
起き上がりながら、シャイは自分自身への憤りを言葉に込めた。
「まずは、いやというほど身体に痛みを覚えさせることだ」
梁明が、静かに告げた。
「オレは、受け方を教わりに来たんじゃない」
「打つことなど、だれにでもできる。ここを使えばいいのだ」
シャイの愚痴を軽く流すと、梁明は実際に拳を開いてみせた。
「掌の下の部分、手首との境目近くだ。掌低――そこを叩きつければいい。ここ瀏斑では拳よりも、むしろこの『掌打』のほうが主流だ」
「そんな説明ですむようなものだったら……こんな国の、こんな山奥にまで来る必要はなかった!」
だれに向けたものだろうか、シャイの叫びが虚しく響いた。
「泣き言は、おれの掌打を受けきってからするんだな!」
王牙が踏み込んできた。
「ぐうッ」
やはり王牙の繰り出した掌打の一撃により、シャイの身体は砂粒のように吹き飛んでしまう。
梁明はだれにでも打てると言ったが、大人の男をここまで飛ばせる攻撃というのは、尋常ではない。たしかに凄い。それは認める。拳では、こうはいかないだろう。
オルダーンの《炎鷲》が、梁明のもとへ行かせたのも納得がいく。
「拳は、一点集中。当たった箇所にだけ衝撃をあたえる。それでも急所を狙えば一撃で倒せるが、相手もそれをくらわないように防御をするだろう。それでは、効率が悪い」
梁明は、苦しむシャイを気づかう様子もなく、講義を続ける。
「掌打は、衝撃を身体の全体に伝える。達人になればなるほど、威力の範囲が広い。だから王牙ほどの猛者なら、いかに腕の防御の上からでも、いまのように飛ばされる」
「それを、わからせようってわけか?」
「まあ、そういうことだ」
笑みを浮かべて、梁明は答えた。
「もうやめてください!」
シャイが起き上がりきるまえに、莉安が王牙とのあいだを遮断した。
それまで孔仁老といっしょに距離をおいて見守っていたはずが、たまらずに飛び出してしまったようだ。
「大丈夫ですか、天鼬さま!?」
シャイに肩を貸そうとしていた。
そんな莉安の献身的な姿を目の当たりにして、王牙の眼光はますます厳しいものになっていた。
「女に守られて、恥を知れ」
「なんだと!?」
シャイは、莉安の華奢な身体を押し退けた。
「弱い男には、なにを言っても無駄か」
「てめえ!」
怒りを左拳にのせ、王牙の顔面に向けて飛びかかった。
王牙は、左肘で簡単にそれを受け止めた。
シャイの全体重と怒りが込められた一撃を、まるで子供のじゃれつきをおさえるかのように阻んでいた。
「弱いんだよ!」
だめ押しの一言を、王牙は吐き捨てた。
シャイの右足が、躍り上がった。
「!」
距離は、ほとんどなかった。
ほぼ接近した状態。
本来なら、ありえないはずの蹴りだ。
これこそが、シャイの切り札。
メリルスで覚えたかつてのものに、《炎鷲》とムサンマ闘者の技を参考に進化させた、必倒のロブ・パーサだ。
並の人間だったら、確実に意識をはじかれていただろう。王牙の体術をもってしても、完全には避けきれなかった。
爪先が、顎をかすめていた。
「馬鹿な……」
驚愕が、王牙の背筋を駆け抜ける。同時に、頭のどこかが歪んでしまったかのように、力が抜けていた。
泥沼にはまったように、足の自由がない。
一般に、「頭がぐらつく」といわれる現象だ。
「な、なんだ……いまのは!?」
ほんの爪先がかすっただけで、王牙の脳はゆらされていたのだ。
「男のヤキモチはみっともないぜ」
シャイは言い放った。
「おまえ、好きなんだろ? リアンのことが」
「な……」
王牙は、言葉を失った。
頭のふらつきも吹き飛んだようだ。
「だからオレのことがおもしろくないんだ、ちがうか!?」
「黙れ!」
そのことには触れられたくなかったのか、この男にはめずらしく取り乱したように殴りかかってきた。べつにシャイでなくとも、そこそこ闘術をかじった者であれば避けられる程度の、らしくない攻撃だ。
「たしか、こうだろ?」
素人臭い大振りの正拳突きをかいくぐり、シャイは王牙の懐にもぐり込んだ。
拳を握れない右手。
握らなくていい。
掌。
その低部を突き出した。
しかし――。
「それでは駄目だ」
淡々とした声が現実を告げた。
王牙の胸部に命中した掌打だったが、その威力は微々たるもの。己が技を忘れた王牙ですら、わずかによろけさせただけだった。
まったくの一般人ならば、それでも武器となりえるだろうが、身体を鍛えぬいている猛者にはまるで通用しない。
「くっ」
だが、王牙はそれでも悔しそうに歯を噛みしめていた。
よほどシャイがむかつくのだろう。
「だれにでも打てるって言ったじゃねえか」
シャイは、自分の不甲斐なさをぼやいた。
「体重がのってない。体重がのっていないから、衝撃が表面にしか伝わらない。いまのは『拳』のかわりに『掌低』をもちいただけだ。私の教える掌打とは根本がちがう」
孫梁明は解説をしながら、小競り合いを再開しようとする二人に近寄っていった。
「いいか、足の裏から地に吸いつくように」
氷の刃を背筋に突き立てられたような悪寒が、シャイの脳髄めがけて駆けのぼった。これまで経験したことのない気持ち悪さだ。
シャイは、身構えようとした。
身構えるまえに、梁明の身体が、すっ、と沈んだ。
「肉体に刻み込んでやる――」
きた、と意識したときには、すでに衝撃のなかにいた。
息ができなかった。
自分の身体が宙に浮いていることすらわからなかった。
背中だ。
胸への一撃だったはずなのに、身体の裏側が苦しい。
内蔵のすべてが背中から飛び出しているような衝撃だった。
その背中から地に落ちても、掌打の苦痛のほうが遙かに上回っていた。苦しい。
苦しい!
薄れていく意識に、梁明と王牙の声が流れ込んできた。
「先生! それは、いくらなんでも……」
「うむ。ちとやりすぎた」
* * *
冷たさで目覚めた。
すでに、陽は沈んでいた。
天空には、数えきれない星々と闇が広がっている。
小川のほとり。小屋の近くにたてられた松明の灯で、まわりの様子はよく見える。
「天鼬さま!」
額には、小川の水を浸したであろう布がのせられていた。心配そうな莉安の美貌が見下ろしている。
「ほほほ、やっと気づきおったか」
切り株に腰かけた孔仁老が、にこやかに言葉を投げかけた。
「どうじゃ、あやつ、強かろう」
「ええ……、死ぬかと思った」
シャイは、上半身をおこした。
「寝ていてください!」
案じる莉安の腕をほどいて、立ち上がろうとした。まだ、胸の奥が苦しかった。
よろけた身体に、また莉安の腕が絡みついた。
「ほっといてくれ!」
シャイは、強く拒絶した。
してしまってから、後悔に胸を痛めた。
悲しそうな莉安の顔。
いらついていた。彼女のせいではない。たった一撃で、こうまで意識をなくしてしまった自分に対しての怒りだった。
顔面への攻撃でもない。
胸部への一撃。
それなのに、意識を失った。
顎を射抜かれて意識が飛んだのならまだしも、胸にうけた強烈な苦しみに、精神が我慢しきれなかったなど……。
逃げたのだ。
負けた。
孫梁明に負けたのではない。
技による苦しみに負けた。苦痛から逃避した。
そのほうが楽だからだ。
つまりは、自分自身に負けたということだ。
「女性にあたるとは、つくづく恥知らずなやつだ!」
突き刺すような声を発したのは、王牙だった。落ち込む莉安の肩に手を置いている。
「いまからでも遅くはありません。こんな男に刀を託すのはやめましょう」
やさしく莉安に声をかけながら、ギロッときつい視線をシャイに向けた。
「おい、そういうわけだ、刀を返せ!」
シャイは、それを相手にしなかった。
「大丈夫か? 悪かったな。君を見ていたら、つい若いころを思い出してしまった」
小屋から、梁明が出てきたところだった。
「どういうわけかは知らんが、妄執のようなものを感じるんだよ。もう一度、闘いたい男がいると言っていたな」
「ああ」
「その彼は、そんなに強いのかね?」
「強い」
シャイは、即答した。
「きりがないぞ。強い人間は、この世に腐るほどいる。まさしく、星々のごとく転がっているのだ」
天を見上げ、梁明は言った。
「……」
「その彼を倒したとて、もっと上が君の前に立ちはだかるだろう。君は、どこまでいくつもりなんだ?」
「オレは、あの男を倒せればいい。いや、倒せなくても、闘うだけでいいんだ」
「嘘だね」
あっさりと、梁明は否定した。
「君は、勝つことしか考えていない。そしてその彼を倒したら、君はさらに上をめざす。そういう眼をしているのだ。終わりのない闘いだけの人生にあけくれる眼だよ」
梁明の言葉は、どこか自嘲めいていた。
「私も、そうだった」
「なんだか、後悔してるって顔だな」
「後悔はしていないよ。だが、途中で気づいてしまった。勝敗など時の運でどうにでもなってしまうとね。運がよければ弱くても勝てるし、どんなに強くても、どうにもならないこともある」
同じようなことを《炎鷲》にも教えられたのを思い出した。そういえば、二人は闘ったことがあるはずだ。
「オルダーンの《炎鷲》と闘ったことがあるんだろう?」
「たしか、彼から私のことを聞いたんだったね」
梁明は、貴重な友人である《炎鷲》だけには、近況を手紙で知らせていたのだ。
「その闘いは、どっちに運が味方してくれたんだ?」
正直、それには興味があった。
「結果など意味はない。ただ私たちは全力で闘った。それだけだ。君にも、いずれわかるだろう」
うまくはぐらかされたようだ。
「君に勝った男は、実力があったから勝ったんじゃない。運だよ。君には、運がなかったから負けた。運さえあれば、君が勝っていたかもしれない。闘いなど、所詮はその程度のものだ」
梁明は、じっとシャイの瞳をみつめた。
「それでもかまわないのか? それでも、すべてをかけるというのか?」
「……オレは」
答えあぐねるシャイに、梁明は、ふ、と笑みをみせた。
「すまん、すまん。そう難しく考えることでもないな」
しかし、シャイは沈黙を崩せなかった。
そのときだった。
さきにその気配を察知したのは、王牙だった。いや、梁明も反応していた。
〈ガサッ〉
草と土を踏みしめた音を聞いて、やっとシャイも気づいた。
「だれだ!?」
王牙よりも数瞬遅れて身構えたシャイが、鋭い声を発した。
スッ、と空気に溶け込むような動作で、王牙が動いた。気配を消し去る、例の技だ。
その動きを、梁明が制した。
「玖蓮だな」
どうやら、梁明だけは気配を察知するだけでなく、同時に、それがだれなのかもわかっていたようだ。
「はい」
返事は聞こえたが、姿は見えなかった。
「どこに……?」
困惑するシャイの眼に、突如として、その姿が浮き上がった。
人の形が、闇から生まれていた。
「先生、藍鳳の軍が、まもなくこちらへ」
浮き上がった影が言った。
その報告に、梁明は、孔仁老と眼を合わせた。
「ほほほ、思ったよりも、はやかったのう」
「どうした、なにかあったのか?」
「天鼬よ、この玖蓮や王牙のように、気配を断つ体術を恐ろしいと思うか?」
シャイは意味もわからずに、梁明からそう問われた。
「……?」
「わが瀏斑の闘術は、武闘会で試合をするような表の技だけではない。とくに、朝廷に仕えるような名門の流派には、裏の技が存在する」
「裏?」
「つまり、暗殺術としての技だ」
梁明がなにを言わんとしているのかを悟ったシャイの背筋に、緊張がはしった。
「全身全霊を集中させろ。これから、そういう闘いがおこる」