名砿の章 4
試合は、膠着状態が続いた。
《狂犬》と《風の使い》との闘いは、まるで噛み合わなかった。
緊迫感に張り裂けそうだった場内の空気は、時間が経過するにつれて、次第に熱が逃げていった。
最初、言葉も忘れて見入っていたシャイにも、余裕ができた。となりで表情を変えることなく、冷然と闘いを観つづける青年に問いかけた。
「わかってたのか?」
「なにがだね?」
「こういう試合になることがだよ」
どこか惚けたふうな青年に、苛立ちをのせてシャイは言った。
その試合の展開は、こうだった。《狂犬》がもちまえの力で、スクル・パーサを打ち込んでゆく。それを《風の使い》ことサワルディン・ミッソンチョークが、まさしく風をあつかうかのごとく受け流すのだ。後方へ下がりながら、腕で防御する。これではたしかに筋力の差があったとしても、有効な打撃は望めない。
シャイの防御技『避雷丘』にも似ているが、シャイはその場合、後方へ下がることはない。いや、下がるには下がるが、ほんの少しのことだ。ほぼ真正面から、相手の豪剣を受け止める。そうでなければ敵はひるまないし、観客の心もつかめなかったろう。そしてもっとも重要なことだが、こんなにも後ろに下がりながらでは、反撃に移行することができないではないか。
《狂犬》は焦りをぶつけるように、どんどんと蹴りをぶち込むが、サワルディンは一向に蹴り合いに応じようとはしない。相手の連打がやむと同時に、足を狙う蹴り――アーマ・パーサを遠距離から放つ。かろうじて当たっているが、体重はまったくのっていない。
「薄々はね」
表情を変えないまま、青年は答えた。
「この試合は、いわば《狂犬》の連勝……しかも『レック』での勝ちっぱなしを阻むためのものなんだよ。考えてもみたまえ、わざわざ王者であるサワルディンが、階級が二つもちがう対戦相手と、なんの目論見もなしに闘うと思うかね? ムサンマ現役最強の男も、上の連中に、いい金を積まれると、飼い猫のように丸まってしまうということだ」
「最初から勝つ気がなかったのか?」
「だろうね」
青年は、さらりと言ってのけた。
「この試合は、引き分けだよ。《狂犬》のスクルと、サワルディンのアーマの有効点を同等とみなすだろう。手数という意味では、サワルディンのアーマ・パーサも多く出ていたからね」
「なぜ審判は、打ち合いを指示しない?」
「審判も《狂犬》に勝たせたくないからだろう」
青年の予想どおり、結果は引き分けとなった。期待をはずされた落胆のため息が、場内を満たす。怒号を放つ者もいる。その怒号は、《狂犬》の逞しい褐色の肉体を容赦なく貫いていた。いかに王者とはいえ、自分よりも体格の小さな男に、ていよくあしらわれたのだ。観客の失望も当然のことかもしれない。
「傍観者とは冷たいもの……か」
その意味ありげな台詞に、シャイは思わず青年の顔をじっと見つめた。
「これで、人気も半減したな……ん? なにかね?」
「本気だったら、どっちが勝ってたんだ?」
青年は、フ、と一笑しただけで、そのことに答えてはくれなかった。かわりにべつのことを口にする。
「引き分けは、賭金がそのまま払い戻される。まあ、損しなくてよかったじゃないか」
ほかの試合では、終了して結果があきらかになってから、場内に紙吹雪が舞っていた。はずれた賭証を、なかばヤケクソに、観客が投げ捨ててしまうものなのだ。
それなのに、この試合では煮え切らない内容だったにもかかわらず、それがなかった。どうやら青年の言葉が、そのまま、その理由のようだった。
「これがわかってたから、あんたはオレに賭けさせたんだな」
「さて」
答えをはぐらかして、青年は歩きだした。
「私は、これで失礼するよ。キミはいつまでムマに?」
「明日の朝には発とうと思ってる」
「そうか。もう少し話したかったんだが、残念だよ」
「最後まで観ていかないのか?」
「最初から、いまの試合が目的だったのでね……。それに、これからやることもある。キミとは、いずれ再会することになるだろうから……そのときに、また――」
「え?」
しかし、青年の姿は、すぐに人の渦にかき消されてしまった。
青年の最後の言葉に引っかかりを感じながらも、シャイは残りの試合に眼を戻した。それから二試合がおこなわれたが、サワルディンと《狂犬》の闘いで冷めてしまった熱気は、もうよみがえることはなかった。最終試合の判定結果を聞くこともなく、宿をさがしに会場を出た。
予定通り、ムマでの滞在は、その日の一泊だけだった。翌朝には一番の船で、テメトゥースへ向かった。数日間の優雅な船旅。
テメトゥースにつくと、すぐに関所を目指した。
整然と敷きつめられた煉瓦の道を歩んでいく。街は、人々で賑わっていた。猥雑さは同じでも、ムマとは印象がまるでちがう。貧困という暗い現実は、この街にはない。貴族の好むような格調はないかもしれないが、庶民が羨望する、きらびやかな栄華で街は彩られていた。
シャイは、生まれてはじめてこの街を訪れた。サルジャークとはいっても、この街は異国に等しい。温暖な気候、海沿いなのに乾燥した空気――まるで、メリスルにいるかのようだった。こちらのほうが、より温かいだろうか。嫌いな空気ではなかった。
サルジャーク王家からの束縛を解かれた自由都市テメトゥース。ここでの経済活動に、王家はいっさい関与しない。商人がいくら稼ごうと、それに税金がかかるということはなかった。
三代前の王コロステブ三世の時代に、世界に通用する商人の育成を目的として、このテメトゥース独立市が誕生した。市の統括は、有力な大富豪たちによって結成された『テメトゥース栄華連』があたっている。栄華連が土地の管理、市民の統制までをも任されているのだ。
『北西海国』のアネモルガル島にあるシルーダ商国も似たような性質をもつが、そちらのほうは、現在では『北西海国商業連合』が支配する完全な独立国となっており、当然、自国の軍隊をもち、それを維持するために、国民は「商費」という税のようなものを連合に納めなければならない。
しかし、テメトゥースには軍隊というものが存在していない。ただ二つ、侵略と防衛の自由だけはあたえられていないのだ。そのため、軍を維持するための費用はいらず、市民は王家にたいしてだけでなく、市にたいしての税も支払う必要がない。
他国からの侵略行為をうけるなどの有事の際には、サルジャーク国王軍がその防衛にあたることになっている。その場合には、栄華連からある程度の援助金がいくのだろうが、軍隊を組織する費用を考えれば、大富豪たちにとってみれば微々たる金額だろう。そういう都合のいいことにおいてだけ、サルジャーク国内というわけだ。
商売を営む者にとっては楽園のようなこの街に、明日の大富豪を夢見る商人が希望を抱いて集うのだが、現実はそう甘いものではない。どんなに商人を育てる制度が整っていたとしても、所詮はその人物に商才がなければ成功しない。夢半ばに街を出る者も多いという。
それと同じように、夢を追う職種がある。
あの男は、この街のどこかにいるのだろうか……。
後方を振り返れば、巨大な建造物を見ることができた。シャイの歩む道とは、いまはまだ逆にある。
テメトゥースが世界に誇る威容。
ダメル闘技場――。
サルジャークにおいて、闘技とは聖なるもの……それゆえ、闘技場には「聖」という名がつくことがならわしとされていた。王都オザグーンのナーダ聖技場、聖サルジャーク闘技場――そのほか、国内の闘技場もすべてそうなっている。
しかし、ダメルには「聖」はない。
聖なるものを排除した下等なる闘技――。
そうやって馬鹿にしていた。
かつては……!
ここでは異種格闘はあたりまえ。剣術と拳術が競うこともある。武器を持った相手に、素手で立ち向かうことなど常識だという。
『マドリュケス』――メリルス語で、自由を意味する言葉。まさしく、それが実践されている闘場がここにある。その名のついた王座を持つ者は、はたしていつ、ここで剣を振るうのだろうか。
シャイは、もうかえりみることをやめ、前進を再開した。
関所は、街外れの、さらに外れにあった。方角でいえば、テメトゥース中心部から西南にあたる。そこには、海に面する大都市の片鱗はない。とうに居住区は過ぎ、建物どころか、人の姿さえも見当たらなくなっていた。敷きつめられていた煉瓦の道もいつしか途切れ、砂が踏み固められただけの粗末な通りが続く。
関所とはいっても、厳重な柵がはりめぐらされているわけではなかった。ほかになにもない道のわきに、街中では見られなかった木造の建造物が、唐突に建っていた。馬鹿でかいというほどではないが、こんな辺鄙な場所には不釣り合いな大きさだ。
木造建築は、オルダーンやムマでも見ていたが、その建造物の造りは、それらとは異質に感じられた。もっとも、ムマでの木造建造物は一般庶民の住む質素なボロ家しかないし、オルダーンでもここまで大きなものは木を使わない。木造の文化を持っている代表的な地域である旺州東部・北西海国でも、大きな建造物は石材を使う。
シャイの知るかぎり、その建物はリュウハンの建築技術で造られたもののはずだ。リュウハン、そしてその文化を伝承させた黄銅国には、驚くほど巨大な木造建築物があるという話を聞いたことがある。ナーダ聖技場よりも、ダメル闘技場よりも、もっと巨大で、眼を奪われるほどに美しい建造物が――。
「そんなに、木造がめずらしいかい?」
衛兵らしい男に声をかけられた。
道を阻むように、二人の男が立ちはだかっていた。サルジャークの武装ではない。その顔だちからしても、リュウハンの衛兵であろう。
「商人じゃないね。これが見たいんなら、なかに入れてやるよ。ここは通せないけどね」
衛兵は、建物に顎をしゃくった。
どうやら、木造建築をめずらしがっている「お上りさん」と思われたようだ。関所を越えるには、商用があるか、観光の場合は許可証が必要になる。そのどちらも、テメトゥース市民であるということが前提条件だ。
「いや、ここを通りたい」
シャイは、一枚の書状を取り出した。《炎鷲》から譲りうけたものだ。
「なるほど、闘技場の人」
手に取って書状を確認すると、衛兵は納得したようにつぶやいた。
「どこかの先生に、弟子入りでもするんですか?」
「コウタイって町に行きたいんだ」
シャイは、衛兵の問いに、ちがった答え方をした。
それまで黙っていた、もう一人の衛兵の表情が変わったような気がした。それまでは、会話にまるで興味がないような顔だったのに……。
「吼戴? ここからなら、そう遠くないけど、さびれちまった町だよ。廃墟になりかけてるって噂もある。わざわざ教えてもらいにいくほどの偉い先生なんていないんじゃないの?」
「……そうなのか? ソン・リョウメイ、って人がいるはずなんだが……」
それでは話がちがう、とシャイは不安に顔を曇らせた。なにかが気になった。
「あんた、ちょっといいかい?」
もう一人が、やっと口を開いた。同僚から距離を取るように、シャイを誘導した。最初に声をかけてきた衛兵は、わけもわからず一人取り残された。
「その名前は、だれから聞いた?」
話を聞かれないほどの小声で、シャイを遠ざけた衛兵はたずねてきた。
気になるものの正体がわかった。
この男が放っていた警戒の念だ。
「オルダーンの『デイザー』という男なんだが……」
その答えを耳にした衛兵は、一瞬、沈黙した。
「孫先生なら、たしかに吼戴にいるよ」
「あんたは?」
「おれは、弟子の一人だ」
「そうか……コウタイって町に行けば、会えるんだな」
「ああ」
そう返事をしてから、その衛兵は、取り残されていた同志に声をかけた。
「なにか、頭から被れるような布を持ってきてくれないか」
「わかった」
最初に声をかけてきた衛兵は、すぐに理由を察したのか、建物のなかに消えていった。
「吼戴には山賊まがいの連中がいる」
すぐに、衛兵は戻ってきた。黄土色の布を手にしている。
「これを被っていれば、目立たない。それに、ここからしばらくは砂丘が続く。砂よけにもなる。いいか……吼戴の町は、ここから南西の方角だが、むこうの関所につくまでは、真っ直ぐに進むんだ。つまり、海沿いの道を行け。海に近ければ、ただの砂丘だからな。日光は強くない。途中に水飲み場も何箇所かあるから、絶対に安全だ。だが、近道しようと思って南下していったら、砂漠になっちまう。その装備では、まちがいなく生きて出られない」
「すまんな」
黄土色の布を被り、衛兵たちに一礼して足を踏み出しかけたシャイだったが、なぜだかそれをとどめた。
「その先生に、オレは教えてもらえるか?」
弟子だという衛兵に、そう問いかけた。
「それはわからんが、もし教えてもらえたなら、確実に強くなる」
「そうか」
こうして、シャイは――。
* * *
「技を教えてほしい!」
シャイは、ようやく会えた目的の人物に、眼を輝かせて、いきなり頼み込んだ。
その目的の男――孫梁明は、弟子であるという征王牙という男とシャイ自身が同時に放った攻撃を、両者とも防ぐという神技を軽くやってのけた。そのまま双方が攻撃に使った腕をつかみ、戦闘を継続させないようにしている。
「王牙よ、離れよ! 君も、すまんがおさめてくれないか」
征王牙は、不満げに顔をしかめてはみたものの、師からの命令を拒むことはできなかった。
王牙が拳をおさめたのならば、シャイもおさめない理由はない。
「すまんな」
「そんなことはいいんだ! オレは、あんたに技を教えてもらうために、ここまで来たんだ!」
「なんじゃ、なんじゃ!?」
孫梁明が答えるまえに、緊迫感の欠けた老人の声が聞こえた。
「これ、おまえさんが待たんからじゃ。梁明がいたのは、あっちの小屋じゃ」
孔仁老が、杖を指しながら言った。
どうやら、その指している小屋のなかで、さきに孫梁明と話し込んでいたのだろう。
「さっそく、ここでも騒動をおこしたようじゃな。おまえさんの、この国での名は決まったわい。《天鼬》じゃ。仙女の使う霊精で、いたずら好きの鼬のことじゃ。すぐに騒ぎをおこす」
「ほほほ」
老人の言葉で、明るい美声が響きだした。
「いい名前ですわ。天鼬さま、ですね」
莉安という名の美女が、喜々と瞳を光らせて、それに賛同する。
「孫先生、孔仁さま、わたくし、この方に決めましたのよ」
「決めた……というと」
孔仁老が、ほとんど線のようだった眼を見開いた。それでも細い眼で、孫梁明の顔を見る。この美女の言葉がなにを意味するものなのか、確実に孔仁老は知っていた。
「莉安さん、それは彼に刀を託す――ということですな?」
孫梁明が、ゆっくりとした語調でたずねた。
その人にとって一生を左右するほどの重要な決断を、最後にもう一度確認するような、重みのある訊き方だった。
「はい」
迷いのない答えが返った。
「君は、それでいいのかな?」
次いで、シャイに問う。
「え? 剣……だろ? ちょうど、折れたところだ。つくってくれるなら、ぜひお願いしたいが……」
「男に二言はないな?」
莉安に向けたのと同じ、真剣な訊き方で、孫梁明は念を押した。
「あ、ああ……」
事情のわからないシャイは、そういう頼りのない返事をするしかなかった。
「……剣をくれるん……だよな?」
「ええ! 差し上げます!」
莉安が、明るく声をあげる。
「……なら、お願いしたいが……」
引っかかるものを感じながら、シャイは言葉を続けた。
『あなたのものになります』と言った意味を、このときシャイは理解していなかった。
「はい! これからは、死ぬまでずっと一緒です!」
「……?」