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ライジン  作者: てんの翔
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序章

 突然の雨で、砂塵がやんだ。

 廃墟になりかけているというコウタイの町まで、あと少しの距離だ。

 温暖な北方気候、それにくわえて砂漠化のすすむ東国サルジャークから吹き込む『渇東風』によって、このあたりの大地はつねに乾ききっている。久しぶりの恵みを浴びでも、死にかけた土が蘇ることはないだろう。国の繁栄が永遠ではないように、この土地もやがて果てるときをむかえるのだ。

 いずれ死に、砂と化す。

 それは、この病んだ大国の死期と、どちらがさきにおとずれるのだろうか。

 砂の荒野がさきか。

 国の黄昏がさきか。

「……四人」

 雨粒をはじく石畳の街道をゆっくりと歩いていた男がふいに立ち止まり、感情をこめずにそうつぶやいた。それまで頭から被っていた布を、まるで雨に濡れるのを望むかのように取り払っていた。

 歳のころは、二〇代半ば……いや、砂で汚れた顔のぶんを差し引けば、もう少し若いだろうか。このまま雨が汚れを洗い流せば、まだ二二、三の精悍な顔だちがあらわれるかもしれない。

 薄茶色の髪を無造作にのばし、やはり薄茶色の瞳を持った青年だった。この病んだ大国――リュウハンの人間ではないだろう。おそらく隣国のサルジャーク。それも中東部の出身だろうと思われる。砂で汚れていてもわかる青年の西東混在の顔だちが、その根拠だ。

 サルジャーク北西部の都市、テメトゥース独立市以外の住人で、このリュウハンに入国する者はめずらしかった。この大国は、テメトゥース独立市としか国交――正確には《都市交》を結んでいないからだ。

〈ヒューウ!〉

 突然の口笛は、青年の右手後方から聞こえてきた。青年の右側には、枯れかけた草がところどころに生えた草原……というよりは、少しだけうるおいの残った荒野が広がり、左手側はゴツゴツした岩肌を見せる、こちらはなにもない本物の荒野が広がっている。

 その右手側――かろうじて一本だけ生えている、いまにも朽ち果てそうな木の陰から、二人の男が姿を現した。

「おまえ、瀏斑リュウハンの人間じゃねえな」

 青年の後方についた二人の男たちは、背にかけた剣の柄を握っている。この地方独特の『円斬』という幅広の刃をもった湾曲した剣――いや、リュウハンから西の地域では、それを剣ではなく《刀》と呼んでいる。

 それに対し、青年の腰にかかっているのは東方文化に代表される長剣だった。西方の刀とはちがい、鞘や柄、鍔の造形にまで美しい宝飾がなされている。一般に、西方の《刀》は片刃、東方の《剣》は両刃というのが常識だ。

 青年は、軍に所属する一介の兵士程度では手に入れることなど不可能な、豪華な剣の柄には手をかけようともしない。それどころか振り返ろうともせず、男たちの問いにも答えようとはしなかった。

「おい! てめえ、なめてんのか!?」

 男たちはすごんでみせるが、青年には通じない。ただ、前方を見据えているだけだ。

 その視線のさきから、さらに二人の男たちがこちらに駆け寄ってくる。見えない遠くで待機していたのだろう。さきほどの口笛が合図だったようだ。

「山賊か?」

 青年は、それだけを口にした。相手からの回答を期待するような口調ではなかったが、答えはすぐに返された。

吼戴コウタイに行くんなら、通行料を払いな。俺たちゃ、山賊じゃねえ! 警備武擁団だ」

「武擁団?」

「ここらも物騒だからよ、俺たちが守ってやんなきゃな! へへ」

 前方から走ってきた二人も青年から少しの距離で立ち止まった。これで、前後を塞がれたかたちだ。

 左右は開いているが、前のうちの一人が、青年の向いているほうから見て右に、後方の一人が左に、いつでも走り込めるように態勢をととのえている。

「で、あんたらの仕事はわかったが、それと通行料……なんの関係?」

「うっせえ! 出しゃいいんだよ」

「この街道は俺たちが取り仕切ってんだ! 金を出さなきゃ、ここは通せねえ」

「それ、良心?」

 この期におよんでも、青年に動揺はなかった。それどころか、これ以上ないほどに落ち着きはらっている。しかも、わけのわからない問いをそえて。

「もし、あんたらに良心があって、こんなやり方をやってんのなら、これからは真っ当な職業についたほうがいい。むいてないよ、こういうの」

 青年の、まるで助言のようなその台詞。

『警備武擁団』と名乗る男たちは、怒りよりも、なにか得体の知れない不気味さに感情を支配された。

「なに言ってんだ、こいつ!?」

 戸惑いの視線で、仲間の顔を交互に見やった。この青年は、なにかがおかしい。そもそも、なぜおびえも、うろたえもしないのだ? 賊ということを否定はしたが、実際にやってることが賊に等しいことを、なによりも男たち自身がよく理解している。言うことさえきけば手荒なことはしないが、町に入ろうとする通行人から法外な金品を巻き上げているのは事実なのだ。

 その《賊まがい》の自分たち四人を前にして、まるで平然としているとは……。

「殺気はなかった。のろい気配が漂ってただけさ。四人分な」

 やはり、わけのわからないことを青年は口ずさんだ。感情はこもっていない。淡々と言葉を流しているだけだ。

「山賊なら山賊らしく、最初から殺すつもりでくればよかった。言葉など投げかけず、いきなり斬りかかってくればよかった……」

「なんだと?」

「その甘さがあんたらを滅ぼすことになる」

「なんだ!? やる気か」

 男たちは、いっせいに背にかけた『円斬』を抜いた。

 しかし、青年のほうは身構えない。

「どうした? 足が震えて、逃げることもできねえか?」

 青年は、顔を伏せた。雨をはじく石畳を無言で見つめる。

 こんな辺境地にまで舗装された街道をはりめぐらせた《西方の神秘》が、前の帝が死んでからというもの、わずか数年で見るも無残に荒廃した。

 この男たちの姿が、落ちぶれた大国の成れの果ての姿だ。

「おい! 金を出すのか、出さねえのか!?」

「やるよ」

 驚くほどさらりと、青年は答えていた。

 そして革袋を、男の一人にヒョイッと投げつける。

「なんでぇ、やらねえのかよ!」

「おう、それが利口ってもんだ」

「いくら入ってんだ? あ?」

 革袋を受け取った男に、ほかの男たちが群がった。

 一人が袋を逆さにして、掌に落ちた物を確認する。

「なんだこりゃ!?」

 男たちは、見たこともない硬貨に眉を寄せた。石畳の上に革袋の中身を全部ぶちまける。

「どこの金だ、こりゃ!?」

「サルジャーク、メリルス、オルダーン、ムマ……行ったことはないが、サンソルやナシャスの硬貨も入ってる」

 冷静に答える青年に、四人はそろって激怒した。

「ふざけんな! この国じゃあ、こんなものは、なんの役にもたたねえぜ!」

「よく見ろ。テメトゥース硬貨や、この国の『源』も少しあるぞ」

 たしかに男たちは、よく見知っている硬貨の存在も確認していたが、それは青年の言うとおり、わずかな金額でしかない。

 このリュウハンで使える貨幣は、自国の通貨である『源』と、唯一の友好都市であるテメトゥース独立市の『テメトゥースダジャ』硬貨だけだった。

 あとの金は、この国ではまったく価値のないものだ。テメトゥースにまで行くことができるのならば、街のあちこちにある換金所でいつでも両替できるが、この男たちではそうはいくまい。それなりの身分、それなりの財力がなければ、関所は越えられない。都市交があるといっても、この国の人間が向こうへ行くには、それなりの特権が必要なのだ。

「こんなんじゃ、安い酒も飲めねえ!」

 いらついたように、一人がカラになった革袋を石畳に投げつけた。

「ちっ、有り金はこれだけかよ! なら、その腰の物よこしな」

「おう、そりゃいい! 東方の剣は少し大きな町に行きゃ、けっこういい値で売れる!」

 しばらくなんの反応もしめさなかった青年に、四人はこれ以上ないほどの恫喝の覇気をおくる。つくづく、数の有利によって弱者を蹂躪するしか能のない連中のようだ。

「よう! よこすのか、その剣?」

「はやく渡さなきゃ死ぬぜ、おまえ」

「……この剣こそ、価値なんてない」

 そう言いながらも、青年は剣をおとなしく差し出していた。

「なんだ!?」

 受け取った男は、そのあまりの軽さに驚きの声をあげた。

 この国にはそういった文化はないが、大陸の西北端に位置するミンチョウという地域から、さらに海を越えたさきにある『黄銅国』という島国にいけば、鉄や鋼のかわりに刃が木でできた《杉光》という見せ掛けの刀があるという。男の脳裏には、それが浮かんだ。そんなものに、価値などあるわけがない。

 たまらず、鞘から抜いた。

「な……」

 それは、剣や刀という概念のものからは外れていた。

 細身の剣だとは思われたが、想像よりもさらに細い。しかも、短い。柄との比率を考えれば、その細さと短さはあきらかだった。

 短剣というものともあきらかにちがう。鞘は、普通の鞘だ。もしこの武具が本当に存在する確立した剣なのならば、それに合った鞘におさめられているはずだ。とういうことは、もともと普通の長剣だったものを削り、細く、短くしたものだろう。

「こりゃ、なんて刀だ!?」

「砂風国じゃ、こんなのがはやりか?」

 みな、好奇心に満ちた眼で、その奇妙な剣を見やっている。ちなみに砂風国とは、サルジャークを『斑字』にあてたものだ。

「わかったろ。そんな剣をありがたがって使うのは、オレぐらいしかいない」

 青年はそう言うが、男たちの耳には届かなかった。

「ほう、めずらしいじゃねえか! 町にもってきゃ売りさばける」

「ああ! 砂風国伝統の剣だとかいやあ、どうにかなるな」

 やれやれ……というふうに、青年が無表情を崩した。

「それを持っていかれると、また削らなきゃならん」

 その言葉に、男たちはギロッと怖い視線を青年に向けた。

「うっせえ! こりゃ、もらった」

 恫喝の眼光に怖じ気づいたからとも思えないが、青年は抵抗しようとはしなかった。

 再び、うつむいていた。

 男たちの一人がつられるように、青年の見ている石畳に目線を落とした。青年の瞳は、ぽつんと転がっている小石をとらえているようだ。そのことを確認できた次の瞬間には、青年の右足が鋭く動いていた。

 あっ! と思考がはじけるのと同時に、映っていた像が熱く消えた。あまりの衝撃に、残った片目もつぶってしまう。

 左の眼球に、青年の蹴った小石がめり込んでいた。

「どうした!?」

 突然、眼をおさえてうずくまった仲間に、残りの三人が声をかけた。

「眼、眼が……! こ、こいつ!」

 青年がいるであろう方向を指さして、片目を潰された男は訴えた。

 だが、そこにはだれもいなかった。

「うっ!」

 一人が、前触れもなく白目をむいて崩れ折れた。その崩れ折れた一人がそれまで立っていた空間に、幽鬼のように気配を感じさせない人影が、漂うようにたたずんでいた。

「て、てめえ!」

 青年は音もたてずに、次の獲物めがけて動きだした。

 その獲物は、さきほど青年が差し出した、鞘から抜かれたままの奇妙な剣を手にしていた。抵抗の間もなく、獲物の手から、剣はなくなっていた。

 主の手中に戻った剣は、その瞬間に姿を消した。

 雨の軌跡が寸断される。

 そして、悲鳴。

 剣の動きが止まり、細すぎる白刃がその輝きを取り戻してから、雨の流れを無視して、鮮血が自分勝手に噴き出していた。

「う、うで……俺の腕!」

 石畳には嘘のように男の腕が落ちている。

 剣を取り戻してから、青年は間隙なく、迅速の一太刀で斬りつけた。どちらの手に剣が握られていたかもわからないほどの……雨の流れを止めてしまうほどの剣速で!

 剣を握っていたのは、左だ。数瞬前を忘れさせてしまうかのように、いまはピクリとも動かない。

 一人は片目、一人は片腕、一人は背後から首の骨を砕かれた。

 残る戦闘可能者は、わずか一人。

「な、なんなんだ……おまえ、何者だ!?」

 残った男には、この現実が信じられなかった。こちらは四人もいたのだ。なぜ、こうも一方的にやられなければならないのだ。

 奇襲されたとはいえ、四対一。負けるはずなどなかった。

 しかも、こんな奇妙な剣を持っている異国の男などに!

「武術の聖地も堕ちたもんだな」

 青年は、つまらなそうにつぶやいた。いま繰り広げられている惨劇が、笑えない冗談とでも言いたげだ。

「数の有利をとくのは、東方の論理。国の混乱が、西の誇りまで奪いさったか」

 男には、まるで心を見透かしたような青年の台詞など、耳に届いていなかった。届いてくるのは、激しく脈打つ自分の鼓動と後悔を叫ぶ自身のうちなる声だけだ。

「どうする?」

 と、青年が静かに訊いた。

 どう答えればいいというのだろう。どんな答えを青年は望んでいるのか?

 やる?

 逃げる?

「う、う……」

 残った男の選択は、恐怖が決めた。

 少しでも理性が残っていたら、逃げるほうを選択したはずだ。青年の静かな眼光を見れば、血を求めていないことはあきらかなのだ。逃げ出したとして、それを追って背中から斬りつけるということはなかったはずだ。恐怖が、判断を誤らせた。

 男は、円斬を振り上げていた。

 刀術の型や基本などなかった。

 ただがむしゃらに刀を振り回した。

 青年は、後方に身を引いて、その一撃をかわした。やはり細身の刃では、幅広の円斬をうけるのは無理なのだろう。

 恐怖のなかでも、どうにかそのことを悟ることのできた男は、少しだが冷静さを取り戻すことができた。三人がやられたのは、すべて奇襲。真っ向から勝負すれば、負けるはずなどない。

 男は、今度は幼少のころからしみ込ませている刀術の動きで斬りつけた。

 まず水平に刃をすべらせ、青年がやはり後方にさがってかわしたところを、さらに一歩踏み込み、刃を返して斬りつけた。

 青年はその動きを読んでいたのか、二撃目の斬り込みは、遙かに大きく後方へ飛んでいた。男の見事な踏み込みからすれば、紙一重に引いただけでは、青年の命はそこで尽きていただろう。

〈シャイ……〉

 後方に飛びながら、青年は思い出していた。

 熱い太陽。

 砂の風。

 歓喜の闘技場。

 剣と剣のぶつかりあう冷たい響き。

 男と男の激突に生まれる熱い誇り。

 シャイ……。

 シャイ、シャイ……。


       *  *  *


 四年前──。

 青年は、闘技場の控室にいた。

 サルジャークの王都オザグーンにある、ナーダ聖技場。王族の運営するサルジャーク二代闘技場の一つだ。もう一つのダメル闘技場は、テメトゥース独立市にあり、そちらのほうは富豪や商人によって結成されている『テメトゥース栄華連』が取り仕切っている。

 オザグーンにはナーダ聖技場のほかにも、軍隊が自主運営している聖サルジャーク闘技場もあるのだが、そちらは内輪だけの競技会のおもむきが強く、集客力がない。

 サルジャークといえば、『ナーダ』か『ダメル』。とくに『ナーダ』は王都にあり、王族自らが運営していることもあって、サルジャークとナーダを同一視する人々は多い。そしてサルジャーク国内にあって、サルジャーク王家の統治からはなれているテメトゥース独立市の『ダメル』に対抗意識をもつ国民もまた多かった。

 独立市はいわば外国人のための娯楽街であり、貿易によって大富豪となりえた、ごく少数のための商業地でしかありえないのだ。一つの都市を王家から独立させたほどの莫大な財貨を貯えた『栄華連』の力と権限を妬む一般市民が大多数だった。

 ダメルより、ナーダ。

 ナーダこそ、サルジャークの魂。

 砂の国に住む人々の誇り。

 それが、ナーダ……。

 その誇りを背負う青年が、控室で自分の闘いを待っていた。

 名を、シャイ・バラッドという。

 弱冠一八歳という若さで、ナーダ聖技場の頂点に立った男だ。

「シャイ、聞いているのか、シャイ!」

 青年……シャイ・バラッドは、導友者のホルーンの呼びかけには応えず、ただ剣を磨いていた。見事なまでの長剣だった。精緻の細工がほどこされている柄、傷一つない細身の刃――頂点に立つものだけが持つことを許される最高級の品。

「おい、おれの話を聞け、いいか」

「聞いてるよ、ホルーン」

 面倒そうに、やっとシャイは応えた。

「そんなに熱くなるなよ」

「おまえは、相手の強さを知らない!」

 ホルーンは懸命に訴えかけている。年齢は二〇代後半。一六歳でシャイが初めてナーダの闘場に上がったときから、導友者として一緒に歩んできた。『導友者』とは、闘技者を指導する教官であり、ともに闘いのなかで生きる友でもあるのだ。

「知ってるよ、テメトゥースでは《白鮫タニュロス》って呼ばれてるんだろ。ダメル闘技場での連勝記録は二五」

「いや、二六だ。しかも、まだ続いてる」

 それを聞いても、シャイに動揺はない。

「しかし、一番じゃない。ヤツの上には、まだ何人かいるんだろ?」

「ああ、たしかにテメトゥース階順ローガ四位だ。だがな……」

「オレは王者だ。一三勝してる。いまだ不敗だぜ。《雷狼リダジャーダ》っていう大袈裟なあだ名だってあるんだ。もうオレに勝てるヤツはいないさ。まあ、ダメルとナーダでは試合数がちがうから、勝ち星は半分以下だがな」

「おまえは無敵だよ……このナーダに所属してるヤツらが相手だったらな!」

 ホルーンのその台詞に、シャイの涼風のような余裕が曇った。

「なんだよ、それ。まさか、あんな見世物のダメルより、オレたちのほうが弱いってのか?」

 王族が主催しているためもあってか、ナーダは正道。闘規マニュも明確にさだめられ、部門も剣での闘いか槍での闘いに限定されていた。

 一方、ダメルは娯楽としての要素が強く、部門も定められていない。ゆえに、邪道。どんな武具を使用してもいいし、剣を相手に素手で立ち向かってもかまわない。

 正と邪。

 サルジャークの誇りと、世界にも認められる歓楽街の象徴が、初めてここにあいまみえようとしていた。

「対戦者のアザラックは剣術だけじゃない。メリルス流の拳術を独自に改良したヘンな技も使うそうだ」

「ここはナーダだぜ。それを使ったら反則だろ」

「そういうことを言ってるんじゃない! ただ剣を振り回すだけの男ではないということだ、わかるか? ナメてかかると、やばいということだ」

「心配するな。真剣勝負でもないんだ。歴史的な交流試合を楽しんでくるさ」


       *  *  *


 青年は、円斬の刃をたくみに避けつづけていた。並の人間だったら、とっくに命を落としているだろう。

 しかし青年の表情に、生死をわかつような悲壮感はない。

「くそっ!」

 円斬を振り回す男の動きが、しだいに乱れてきた。もう何度、斬り込んだだろうか。幼少より染みつかせた刀術をもってしても、さすがに疲労を感じずにはいられない。

「どうした!? ただ逃げてるだけかっ」

 円斬の男は、たまらずにそう投げかけた。

 返ってきた言葉は、似たような問いだった。

「それだけなのか?」

「あ!?」

 問いかけと同時に、青年の動きがピタリと止まった。円斬の男はその問いの意味と、なぜ青年が動きを止めたのかの両方に疑問を抱きながらも、思考を消して絶好の好機に神経を研ぎ澄ました。

「とった!」

 青年めがけて、湾曲した刃を叩きつける。だが水平に薙いだ円斬が、青年の身体を断ち割ることはなかった。

 あの細い奇妙な剣で、嘘のように受け止められていた。

「それだけなのか?」

 青年は、また同じ問いを口にした。

「おまえの力は、それだけなのか?」


       *  *  *


「ナーダとは、その程度のものなのか?」

 シャイは、信じられなかった。

 力一杯の剣撃をくわえても、この男にはまったく通じない。

 アザラックという、この男……。

白鮫タニュロス》という異名の由来と推測できる無造作にのばした銀髪、あきらかに遊んでいるとわかる嬉々と輝く碧眼。出身地は、東方だろうか……たしか、メリルスの拳術がどうたらこうたらとホルーンは言っていた。メリルスからテメトゥースに流れてきたのだろう。

 クソッ!

 シャイは、心のなかで叫んだ。

 なんの防具も身に着けていないふざけた男だ。シャイ自身は、ナーダ聖技場の伝統的な武装を身にまとっている。籠手、側頭部を守るための兜、実際の防御よりも形式を重んじた軽鎧。ナーダの闘規マニュでは、相手に深手をあたえてしまったら反則負けとなる。原則的には、寸止めしなければならない。ゆえに、防具は形だけのもの。そのほかにも、足を狙う攻撃や頭上から振り下ろす剣撃も禁止されているため、足は無防備、兜は側頭部を守る機能しかないのだ。

 一方、テメトゥースの闘規では、相手を殺してもかまわない。禁止されている攻撃もない。だから本来、テメトゥースでは、かなりの重装備で試合にのぞむと、シャイは話に聞いていた。

 それが、まったくの無防備とは……。

(ふざけてる!)

 バカにされてると思った。

 ナメられてると思った。

 許せないこの男に、一矢むくいることすらかなわない自身の力がもどかしかった。

「もういいな」

 アザラックのそのつぶやきの直後、歴史的交流試合は、あっけなく終わっていた。

 銀色の輝きが、シャイの眼前で静止していた。

 頂点に立った若者の誇りは、無残に砕け散った。

「そこまで!」

 信じられないものを見るように、シャイの眼球はその刃をじっととらえていた。衝撃は観客からの拍手も凍りつかせた。

 ナーダ聖技場の誇りが……サルジャークの魂が……見世物のテメトゥースに、まったく歯が立たなかった。

 サルジャークであってサルジャークでない――異国と同じ……いや、むしろ異国よりも負けることのできない仇敵といえるテメトゥースに、ナーダの王者が完敗した。

 それも、ナーダの闘場で!

 闘規マニュも、ナーダの流儀だったのに!

「雷狼が……」

「……負けた……」

 何事もなかったように、テメトゥースからの刺客は剣をひいた。静まり返った場内には、やはり喝采がわくことはなかった。

「バ、バカな……こんな……」

 シャイの脳裏は真っ白だった。

 なにも考えられなかった。思考が停止していた。

 剣を握る利き手に力が入った。

 その腕を振り上げていた。

 眼の前の男は、すでに剣をひき、勝ち名乗りをうけている。いまならば、一太刀むくいることもできよう。同時にそれは、闘者としての資格と、男としての誇りを捨て去るときだった。

 そんな奇麗事、どうでもよかった。

 まったく本気を出すこともなく自分を退けたこの男を、許すことができなかった。闘い続ける世界を選んだ戦士としてではない。一人の人間としての感情がはじけた。

「アザラ――ック!!」


       *  *  *


「もういいな」

 上段から振り下ろされたその剣撃に、ただ一人残った『警備武擁団』の男は、なんの反応もできなかった。

 速すぎた。

 鋭すぎた。

 ピクリとも身体を動かすこともできずに、男は肩口から美しく斬り裂かれていた。

「お、おまえ……い……いった、い……」

 その答えを待つこともできず、円斬を手にした男は絶命した。

 青年は細すぎる剣を軽く一振りすると、それを鞘におさめた。血をはらったというよりは、雨による水滴を落としただけのようだ。刃に血液が付着する時間もないほどの剣速だったのだから。

 石畳に転がる四人の男たち。一人は確実に死に、首の骨を砕かれている一人もおそらく命はないだろう。片腕を落とされた男と、片目を潰された男が、おたがいうずくまるよう地に腰をつけている。腕から噴きこぼれる血液をとめなければ、片腕を落とされた男もいずれ死ぬことになるだろう。

「こ、こんな……ことをして、ただですむと思う、なよ……」

 片目を潰された男が、なんとか立ち上がった。押さえている手の隙間から、とめどなく血が流れている。しかしこの男だけは、このままで死ぬということはないはずだ。

「きさま……吼戴コウタイに行くつもり、だ、ろうが……生きて、町を……出られるとおもうな、よ……」

 青年には、そんな脅し文句など聞こえていなかった。

 観客の罵声。仲間からの軽蔑の囁き。

 いままで英雄ともちあげていた人々が、若き天才と賞賛していた闘友たちが……掌を返したように、卑怯者、恥さらし、負け犬、と罵倒してきた。

 それはまだいい。

 ナーダでは禁じ手とされている上段からの斬り込みをおこなったのだ。しかも試合がすでに終了しているにもかかわらず……だ。軽蔑されて当然のことをした。だから、それはいい。

 だが、あの対戦者は……アザラックというふざけた銀髪の男は、非難の言葉すら発しなかった。

 勝ち名乗りをうけ、油断していたはずのアザラックに、青年は――堕ちた英雄は、渾身の一撃を放ったはずだ。いかに、それまでのどんな剣撃をかわしていたあの男といえど、それだけは避けられないはずだった。

 それほどの一撃だ。

 完敗した悔しさもあったろう。しかし、それだけではない。アザラックの余裕に満ちた動きに、自分の遊びのない剣術の甘さを思い知らされた。《遊び》とは、手を抜いたり、ふざけたり、という意味のことではない。アザラックの闘いは自由なのだ。なにものにも縛られていないのだ。

 それにくらべて、自分の闘い方は《型》そのものだった。自由などなかった。ナーダの闘規マニュで決められた《型》どおりに闘っていただけだ。ナーダで王者になったということは、所詮その《型》の闘いで最強になったというだけにすぎなかった。

 だからその攻撃は、ナーダを捨てた渾身の一振りだった。形式を重んじる闘規の枠を取り払った一撃だったのだ。

 しかし、打ち下ろしたその剣撃は、驚くほど静かに受け止められていた。生涯最高のはずの一太刀を、あの男は、まるで時間を制止させたかのように阻んでいた。

 凍りついた時間のなかで、アザラックの剣だけが音もなくゆるやかに動いた。青年の利き腕めがけて襲いかかった。

 血を噴き出したことも覚えていない。

 痛みさえ感じなかった。

 右手から剣がなくなっていたことだけが、よくわかった。

 アザラックは、青年に対して、罵ることも非難することもしなかった。ただ一瞬、眼を合わせただけだ。いや、それすらなかったかもしれない。見ていた、と自分では思っているが、あの男にそんなつもりはなかったのかもしれない。見たのだとしても、それはたんに、道に転がっている石が視界に入ったというだけのことだったかもしれない。

 許せなかった。

 まだ、卑怯者と罵ってくれれば、救いはあった。軽蔑の眼差しを向けてくれれば、そのときは敗北によどんだ心も、いずれは晴れたはずだ。

 だが自分の存在など、取るに足りない塵だとでもいうように、あの男は……アザラックは、なんの感情もしめさなかった。

「お、おぼえてろ!」

 青年は、片目を潰した男を追おうとはしなかった。

 仕返しにくることはわかっている。あのテの連中は、一度根にもつと、しつこいことは百も承知だ。いまの数倍の仲間を引き連れて復讐にくるだろう。

 この数年間の放浪で、こういう揉め事は何度も経験した。

 この数年――そう、あれから四年も経っていた。テメトゥースの闘者と歴史的な交流試合をおこなってから……あのみじめな敗北をきっしてから……。

 ナーダ聖技場の……いや、サルジャークという一つの国家の誇りをかけた闘いに負けたばかりか、試合が終わっているにもかかわらず、ナーダでは反則とされている上段からの斬り込みをおこなったことにより、青年は……シャイ・バラッドは、ナーダの王座を剥奪された。もっとも、剥奪されたところで、もう剣を握れる腕ではなかったのだが……。

 アザラックの反撃で、シャイの右腕の腱は完全に断たれてしまった。闘者の健康を管理する闘技場常駐の医師の話では、もう治ることはないという。たとえ完治したとしても、もうナーダでは試合を組んでもらえないだろう。どのみち、シャイの闘者生命は終わってしまったのだ。

 王都オザグーンにも、いつしかいられなくなった。それまで自分のことを尊敬していたはずのまわりの人々の態度が、あの交流試合のあとから急変していた。蔑むような、冷たい視線を向けられるようになった。そうでない人たちも……以前と変わらないように接してくれた人たちもたしかにいた。だがそれはそれで、もっと辛いことだった。その人たちの心の根底にあったのは、まちがいなく同情だった。それが痛いほど伝わってきた。責められるよりも、そちらのほうがこたえた。耐えられそうもなかった。

 だから逃げ出した。

 家族にも告げず、すべてのものから逃避した。

 剣の道を断たれた以上、汚名返上の機会もありえないのだ。逃げるよりほかに、どうすればよかったというのだ。

 護身用に剣は手放さなかったが、定住する場所がみつかったら、それも処分するつもりだった。どうせ、もう握ることはできないのだから。

 あとの人生は、ただ逃げるだけ……。

 それからほどなく、サルジャークのなかでも辺境といわれる南部の村に行き着いた。地図にも乗ってないような小さな村だ。当然、はじめておもむいた場所だというのに、その村人の自分を見る眼がなぜだかおかしかった。

 すぐに理由はわかった。

 こんな辺境の村にも、シャイ・バラッドのことは知れ渡っていたのだ。

 堕ちた英雄……腑抜けた雷狼――。

雷狼リダジャーダ》という呼び名は、そもそもこの南部地方に古くから伝わる霊獣からとられたものだった。

 全身に雷をまとった、まばゆい孤狼。

 その名を許された男の活躍を、王都から離れた辺境の村人たちも、みな楽しみにしていたのだ。

 すぐさま村を出ていこうと思った。自分のことなどだれも知らない、もっともっと奥地へ逃げていこうと決意した。

 ふと気づいた。

 どんなに遠くへ逃げようと、ただ一人だけ逃げきれない人物がいることを……。

 無駄だとあきらめた。

 逃げられないと悟った。

 たとえ、だれも知らないよその国に逃げ込んだとしても、自分自身からは逃げきれない。

 他人から蔑まれることはなかったとしても、これからさき、自分自身に恥じて生きつづけなければならないのだ。

 そんなことには耐えられなかった。

 そんな一生は、あの男以上に許せないことだった。

 剣は手放さなかったのではない。

 手放せなかったのだ。

 護身用に持っていたというのは言い訳にすぎない。まだ自分はやれる。ここで終わっていいわけがない……そういう思いが残っていたから、捨てられなかった。

 もう剣は握れない?

 バカを言うな、腕ならもう一本残ってるじゃないか!

 ナーダの闘場に二度と立てないというのなら、ダメルに乗り込んでいけばいい。

 勝敗はどうでもよかった。

 だが、もう一度、あの相手――アザラックと闘ってみたかった。

 やはり歯が立たなかったとしても、それならそれで、正面から負けを認めてみたい。

 ナーダの誇りとか、サルジャークの重圧などに縛られない、シャイ・バラッドという一人の人間として、あの男と闘ってみたかった。

〈ゴゴゴゴ――ッ〉

 雷鳴が、憎悪をしぼる獣の呻きのように轟いた。まるで青年の心に巣くう、手負いの狼が咆哮しているように。

(……)

 石畳に散らばる金を拾い上げると、シャイは歩きはじめた。こういうことになったとて、目的地を変えるつもりはない。

 右腕を、まるで調子でも確かめるように動かした。

 前方へ伸ばしたかとおもえば、天めがけてかかげてみる。

 違和感はもうなくなっていた。

 腕を動かすだけなら、異変はない。

 ただ、物を握ることができないだけだ。

 足の動きを止めて、顔の前に掌をもっていくと、力をこめた。

 やはり意志は伝わらなかった。

 コウタイの町には、この右腕のためにも行かなくてはならない。

 治癒など、とうの昔にあきらめている。

 あの男と再び闘うためには、この四年で手に入れた『左の速剣』だけではダメだ。もう一本……あの男と闘うためには、どうしても、もう一本の牙が必要だった。

 それは、正統の剣士であったシャイにとって、最後に残った誇りすらも捨て去ることを意味していた。

〈ゴゴゴ――ッ!〉

 雨に霞んだ世界が、雷光に包まれた。


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