第13話
何か冷たいものが当たる。それに体の震えが止まらない。わたしは目を開けた。
どうやら雨が降っているようだ。まだ薄暗くてよく見えないが霧も少し出ているようだ。
わたしは寒さでよく眠れなかった。寒さのせいで寝ては起きるを何度も繰り返していた。
もう寝るのは諦めよう。わたしはゆっくり体を起こした。
湖の水面が雨で波打っていた。そしてその光景をヒカルはわたしの隣でじっと見つめていた。雨でヒカルはすっかりびしょ濡れになっていた。
「起きるにはまだ早い」
ヒカルが湖を見つめながら言った。
「寒くて眠れなくて」
あの会話からわたしはほとんどヒカルと話をしていない。ヒカルはそのことに対して特に気にする様子はなかった。
「ローブを着てても寒いのか」
「うん」
「我慢しろ、これ以上寒さをしのげるものがない」
「…うん」
わたしは膝を抱えてうずくまった。その時変わり果てた自分の左手が目に入った。
手がまるでベーゼのように真っ黒に染まっていたのだ。
「な、なにこれ…」
手が自分のものではないように感じた。
「ひ、ヒカル、わたしの手…」
「呪いが進んでるんだ。怖いなら見ないほうがいい」
ヒカルはわたしのことを見向きもしない。まるでわたしの手がそうなっているのを知っていたかのようだった。
「知ってたの?わたしの手がこうなってること」
「呪いが進めばいずれはそうなるからな」
「し、知ってたんだ…」
ヒカルはこのことについて何も教えてくれなかった。
「でも、これ大丈夫なの?」
「まだ問題ない」
ヒカルそう言って立ち上がった。
「もう寝ないなら行くぞ。この山を下りれば町に着く」
「町ってラディウス?」
「いや、ラディウスじゃない」
「そう…」
わたしもゆっくり立ち上がった。体がとてもだるく、一日中歩き続けられるか不安になった。
「雨に濡れないようにローブをしっかり着ておけ」
わたしはヒカルと共に山を下り始めた。
雨のせいで地面が緩くなりわたしは何度も足を滑らせた。ヒカルが時々わたしを気遣うようにこちらを見ていたが何も言わなかった。
わたしはいずれベーゼになる。ヒカルと初めて会った日にそのことは聞いた。死の宣告を受けたような気分になった。しかし、心の底からそのことを受け入れられていなかった。心のどこかでその呪いは嘘だと思っていたのかもしれない。実際昨夜までわたしは呪いのことを忘れかけていたのだから。
わたしは本当にこのままベーゼになってしまうのだろうか。あの黒い影のように人を襲い、命を奪っていく存在になるのだろうか。
このままだとわたしは死ぬんだ。
わたしは濡れた岩に足を取られて転んでしまった。手を擦りむき、手の平が血で滲んだ。
わたしは立ち上がることが出来なかった。足が重たい。疲れた。
このまま死んでしまいたい。
「大丈夫か」
ヒカルがそう言って手を差し出した。
「もう…疲れた」
「どういうことだ」
「わたしもう無理」
わたしがそう言うとヒカルはゆっくり手を下ろした。
「負の感情に屈するのか」
「だって、こんな手になっちゃったんだよ?もう助からないよ」
「まだ助かる」
「じゃあ今すぐ助けてよ!今すぐこの呪いを解いてよ!」
ヒカルはいつも通り無表情でわたしを見つめていた。それを見てわたしはさらに苛立った。
「ヒカルはわたしを助けるつもりあるの?ないなら早くわたしを楽にして。この無意味な旅を終わらせてよ!」
どうしてわたしはこんなことを言っているのだろう。
「…どうしたら楽になる」
ヒカルがわたしに聞いた。
「それは…」
楽になる方法はただ一つ。
「死にたい」
わたしがそう言うとヒカルはゆっくりとナイフを手に取った。そしてそれを高く上げた。
死ぬ、やっと死ねる。ずっと望んでいたことだ。楽になれるんだ。
しかし、ためらうことなくわたしの命を奪おうとするヒカルの姿を見て違う感情が芽生えた。
わたしはここで死ぬの?怖い、死にたくない。こんなところで死にたくない。
わたしは怖さのあまり強く目を閉じた。
一向に痛みがやってくる気配がない。何かが落ちる音がした。わたしは恐る恐る目を開けた。
まず、地面に落ちたナイフが目に入った。視線を上げると苦しそうに顔を歪め頭をおさえるヒカルがいた。
「ひ、ヒカル?」
ヒカルは力が抜けたようにその場に座り込んだ。下を向いているせいでヒカルの顔が見えない。
「ど、どうしたの?」
「…これが死ぬということだよ」
うつむいたままヒカルが話し始めた。
「ずっと見てたけど、君は心の底から死にたいなんて思っていないだろう?ヒカルがナイフを振り下ろした時、君の目に恐怖が見えたからね。呪いのせいでもあるとは思うけど、どうして死にたいなんてことを言うんだ?」
まるで別人のようにヒカルはわたしに語り掛けた。これは本当にヒカルなのだろうか。
「だって、こんな人生に意味なんて無いから」
「そんな理由で命を捨てるの?」
「わたしのような何の価値もない人間が生きていたって無駄なだけでしょ?それだったら…」
「それでも君は生きたいと望んでる」
わたしが…?生きることを望んでいる?
「生きる意味をずっと探してる、そうだろう?」
そういえば…。過去の記憶がまた蘇ってきた。
わたしはいつからか自分の存在意義を考えるようになった。どうして自分は生きているのか。自分は何のために存在しているのか。
それを見つけたくてわたしは中途半端な自傷行為を繰り返すようになった。死にたいと思いつつも存在意義を見つけるまで死にたくないと思う自分がいたからだ。
何故このようなことを考えるようになったかは覚えていない。
「何故生きているかなんて誰にも分からない。答えが生きている間に見つけられる人なんてほんの一握りだ。でもみんなそれを追求しながら生きてる。でもそれでいいんだよ。それが生きるための強い光になるんだから。でもその光は自分で創り出さないといけない。その光は自分の内にだけ秘められているもので他の誰かが与えるものじゃない」
「…自分で創り出すなんて出来ないよ」
「君は何のために生きてるんだ?自分の存在意義を見つけるためだろう?その想いを負の感情で埋もれさせないように強く持てばいい。どうやってその想いを抱き続けるかは君次第。だからヒカルは心を強く持て、でも君の心までは守り切れない。って言ったんだろうな」
さっきからヒカルは変だ。まるでヒカルの中にいた違う誰かが話しているようだ。
でもわたしはその人に対して悪い気はしなかった。
「あと、ヒカルは自分の命をかけて君を守ってるし、助けようとしてるよ」
「え?」
「だから、どこかの知らない誰かの話じゃなくて自分が見たものを信じてほしい」
ヒカルがゆっくり顔を上げた。優しい黄色の瞳がわたしを見つめた。
「自分の光を見つけて。それが呪いに打ち勝つ一番良い方法でもあるし、ヒカルを救うことにもなるから」
それだけ言うとヒカルは力尽きたように倒れてしまった。
「ヒカル!」
わたしがヒカルの側に駆け寄るとヒカルはゆっくり目を開けた。七色の瞳が初めて焦りや動揺したように震えているように見えた。
「ヒカル、大丈夫?」
わたしがそう言うとヒカルは目を合わさずに言った。
「…今見たことと聞いたことを全部忘れろ,いいな」