最後のメロディ
即興小説トレーニング(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=227626)から転載 お題:空前絶後のピアノ 制限時間:15分
美しい音楽を聴くと小説を書きたくなる。
微笑んで、その言葉を言われたのは、遠い昔のこと。
あなたのために全力で弾いたの。
そんな返答はできなかった。
遠くて近い人が家に滞在したのは、1897年の夏のことだった。
小説家という紳士は私の父に招かれて、別荘でひと夏を過ごした。
父が支援している小説家は皆、ロマンチックで感傷的な小説を書く人たちだった。繊細で今にも崩れ落ちそうな見た目の青年たちばかりが、別荘に集まっていた。
ピアノを弾いてあげなさい。ほら、みなさんが聴いて下さる。
頼んでもいないのに、パーティーで取り沙汰されて、私がどんなにか気まずい思いをしたか。
みんな微笑んで、私を見つめていた。パトロンの娘なら、無下にはできない。そんな様子だった。
本物の芸術家たちの前で、さらし者になってピアノを弾くのは、無様で図々しくて仕方ない所業に思えた。
「弾いて下さいよ」
ただ一人、あなたは言った。
チャコールグレーのスーツを着こなした人。微笑みを乗せて。
「さあ、どうぞ」
ピアノの椅子へとエスコート。
ピアノの前に座らされた私は、舞いあがって、動転して、つい思わず、弾いてしまった。
私自身が作った曲を。
水が流れ、波を起こし、巻いて、轟くような。
澄み切った透明な渦が、体を通り抜けていくような。
心を巻き込んで、ピアノの鍵盤に指を滑らせて、音になってそれはパーティー会場に散っていった。
弾き終わった後、割れんばかりの拍手を受けていると気付いて、私は初めて自分が呆然としていたことに気付いた。
ピアノの隣にいたあなたは、拍手をして、にこりと微笑んだ。
美しい音楽を聴くと小説を書きたくなる。
ありがとう、お嬢さん。
何で私がそのとき、誰にも秘していた自分の曲を弾いてしまったのか。
私は自分自身の心を分かっていなかった。
一夏が過ぎ、父は私にピアノのレッスンを受けさせることにさらに熱心になって、私はいくらか人が招かれる場で曲を弾かせてもらえるようになった。
幾度かそれを繰り返した後に、私は自分が、会場にあなたの姿を探していることに気が付いた。
自分には有り得ないと思っていた人生が、開けた。
ああ、あなたに伝えられたら。
あなたの微笑みにつられて、私は思わず白と黒の階段を駆け上がるように、指を滑らせていた。ずっと蟠っていた思いを解放するように。
知って欲しい。聞いて欲しい。愛されたい。
そのすべてを込めて弾いていた――――
「彼なら死んだよ」
私は父の言葉を、あのときとは質の異なる呆然とともに聞くことになる。
「あのとき、もう既に病魔に蝕まれていた。それでも、最後まで小説を書き続けていたというよ。あのピアノの旋律を小説にするんだって言ってね」
私の夢は閉ざされた。
今でも私は人前でピアノを弾き、自作の曲を奏で、拍手をもらっている。
それでも、あのときのような思いは二度とめぐっては来ない。
あなたの姿を思い浮かべる。
背中を押してくれる優しい微笑み。
いつまで経っても頭に焼き付いている。
孤高の女性ピアニスト。
曲がった腰と白くなった髪。
私は今でもピアノを弾き続けている。
あなたを思い浮かべ、悲しみと懐かしさを心に絡ませて、音の階段を駆けあがる―――