水底より
http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=173907 お題:トカゲの月 制限時間:1時間
水底から眺める月はゆーらゆら。
お月見たるもの覚悟と仁義が必要でございます。
そばをヒメマスがキラキラと桃色に光りながら、泳いでゆき過ぎます。透明緑の湖藻がゆらゆらと腰掛け布団になっております。岩場を登る沢蟹に触れれば、かちかちとした動きで逃げてゆきます。
くらいくらーい湖の底はどこまでも見渡せる透明の檻。
わたしはいつからここにおりますか、覚えていませぬ。
わたしの心臓も、骨も、脳味噌も、ひたすら透明な中でゆらゆらして、湖の底に同化しております。
見えないものは何でしょう。失ったものは何でしょう。記憶はすべて置いてきた気が致します。気がするだけで、異なるやも知れませぬ。遥か上の方に見える、光の帯をもたらす水面の向こうのことは、わたしが考える範囲の外でございます。
だから考えないでいいのでございます。
夢も希望も愛も苦しみも、澄明な冷たい水に分散し溶けて消えて、わたしは水底のなか。
ゆらゆら揺れる満月も、割れて歪んで、散り散りです。
小さな魚が寝床を求めて、キラキラと体を光らせながら目の前を泳いでいったとき、わたしは暗い湖の奥底から、何か大きな魚のようなものが、のっそり動いているのを見ました。
注意深くその黒い塊を眺めていますと、ぱっと月の明かりが湖の底に届いて、その姿を照らしました。
それは大きなトカゲでした。ぶつぶつとした緑色の肌、トサカと大きな口を持ち、尖った爪の四足を使い、悠々と泳いで参ります。
トカゲはわたしの傍まで来ますと、わたしの周りをぐるぐる回りながら、じぃっと見つめました。
わたしもトカゲをじぃと見つめました。トカゲの黒いビーズのような目には、星が棲んでおりました。
じぃと見つめていたトカゲは、やがてわたしの傍を離れ、ふわりと上昇していきました。
月の光を浴びていたわたしにトカゲが泳ぐ影がかかります。
影はだんだんと小さくなって、やがて水面の向こうに顔を出す、ぷかりという音が聞こえました。
その不吉な音が水底に届いて、わたしは耳のあたりを塞ぎました。
目を瞑り、真の闇を見つめます。わたしの中に闇が広がっていきます。闇は純粋な闇ではありません。蠢くさまざまな物事を内包しております。わたしはひたすら闇を見つめます。そして透明な水底のみを思い浮かべます。
わたしはわたしの中にあるものが、ひとつひとつ、潰されていって、消えてゆくのを感じます。
それは透明な水にひとつひとつ、変換されて広がっていきます。ひとつひとつ、ひとつひとつ、ひとつひとつ―――――――
じゃぼん
驚いたわたしは、目を開けて、見上げました。
透明な水底に、波紋が広がって、蠢きます。
波は水面から起って、ゆらゆらと規則正しかった水底に、ひとつの爆発を届けます。
ざわめく湖に起因するのは、水面近くに泳ぐ影。
先程のトカゲだと、わたしには分かりました。
委縮した心に、叫び声を乗せて、消えてしまいたいと思ったその時、
トカゲの身体が眩いばかりに、金色に光り始めました。
体を反らして泳ぐ様は、まるで三日月のようで、水底に光で照らしました。
目を奪われたわたしは、
思い出すのです、
あなたが隣で微笑んでくれたことを。
月の夜に、消えてしまいそうなほど幸福なとき。
あなたがいることで、わたしの心は、輝いていました。輝いていました。
・・・・・
トカゲはいつの間にか光るのを止めて、月が割れた水面を、ぐるぐると泳ぎ回っているだけ。
わたしは涙を流し、ひたすらその湖を広げてゆくのでございます。