夏の日差しへの逃避
即興小説トレーニング(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=260205)から転載 お題:8月の風 制限時間:15分
風に誘われて外に出た。
眩しいばかりの太陽と、青い空が目に染みる。
白い砂浜を、海が大きく寄せてきては濡らしていく。
目の前に広がる深い藍色の海を、グウェンはどこまでも眺めた。
遠くまで来ようとここまでやってきた。
遠くというと、距離の問題のように思えるけれど、グウェンにとっては違った。
体の弱いグウェンにとって、海と言う場所は遠いところだった。
身体を心配されて、いつも海水浴の家族旅行についていけなかった。
真綿に包まれたように、グウェンは家から出ることはなかった。
5月は赤や黄の薔薇が咲く庭があり、9月には黄葉する樹林のある邸宅。
勿論不足はなかったし、メイドは優しく、家政婦も執事も親切だった。
だが、部屋のベッドで寝ている日々は、決して自由ではなかった。
あなたは行けないから、いい子にして寝ているのよ。
お母様を心配させないで頂戴。ベッドから出ないで、大人しくしているのよ。
お前のためだ、きっと安心できる嫁ぎ先をお父様が見つけよう。
優しい言葉は、家族の安心にとって必要なものだったけれど、気付かぬ間にグウェンと家族の間に壁を作っていた。
家族の領域は、社交界であり、パーティーであり、学校であり、婦人会であり、慈善であり、事業であり、遊びであり、恋だった。
グウェンの領域は、ベッドのある部屋だけだった。
気遣いと優しさを、いつの頃からか檻のように感じていた。
ベッドにいる間、たくさんの本を読んだのだ。
メイドはこっそり恋愛小説を貸してくれ、従者は悪戯っぽい顔つきで冒険小説を持って来てくれた。
執事は天体に関する入門書をくれて、家政婦は古典小説を図書室から貸出してきてくれた。
その全てを読み、グウェンは恋を知り、外国を知り、生きぬくすべを、深い思索を、知識を知っていった。
生身でそれを体験し、感じることのない悲しみと共に。
「ここにいたの」
グウェンが振り返ると、夏の日差しに照らされて、白いパラソルを手にした淑女が立っていた。
「あんまり日に当たっていると日焼けするわよ」
「いいのよ。ずっと日に当たってなかったのだもの」
気持ちがいい、と8月の風が吹き抜ける浜辺で、手を組み、伸びをする。
淑女はグウェンの隣に立った。淑女、ケイトリンはグウェンの叔母だ。
海外を旅して回り、エッセイなどを書いているケイトリンは、家族からは「自由人」と言われていた。
本家のグウェンに対する過保護っぷりに呆れたらしい。
鬱屈した思いを抱えるグウェンを家から連れ出した。
十代はもっと羽を伸ばして、色んなことを感じるべきなのにね。
初めて乗る列車の、コンパートメントの座席に縮こまったグウェンに、ケイトリンはそう言った。
無断で家を出るのも、叔母についていくのも、何もかも初めてで、不安と期待とでドキドキしていた。
これで良かったのか。それも分からない。
家族には何も知らせないなかった。叔母がそう思い切りよく決めたのだ。どんどん逃避の準備を押し進め、その勢いに乗っかって、グウェンは衝動のままに荷造りして初めての外出着に袖を通した。
不安だったし、罪悪感もあったし、怖かった。
ただ、それでも、使用人たちが皆、協力してくれたことがとても嬉しかった。いってらっしゃいませ、お嬢様、と知っている顔ぶれは泣きそうな表情で見送ってくれた。
さあ、どこに行きたい?
縮こまるグウェンに、ケイトリンが苦笑して訊ねた。
そのとき、グウェンが要望したのは、夏の日差し。
体に悪いからと、グウェンは夏を感じたことがなかった。空調の効いた部屋から、窓の外で夏の日差しの中を戯れる家族やお客様を眺めるだけだった。
そして、家族が毎年行くという、海水浴。
「叔母様、私、海に行きたい」
「それで、どう?」
ケイトリンはニヤニヤしながらグウェンに訊ねる。
人気のない砂浜に立つ、グウェンの格好は酷かった。膝丈のワンピース一枚、足元は裸足。深窓の令嬢が台無しだ。
叔母が連れて来てくれた海はとある小さな島の海辺だった。
家族がいない。使用人もいない。いつものベッドもない。島の人たちも、見たことのない雰囲気で、町には全く知らない空気が流れている。
ここはグウェンの知る領域外である。
既に二日外に出ただけで、グウェンの素肌は日に焼け、赤くなっている。
それでも、グウェンは微笑んだ。
「最高の気持ちよ」
目眩がする。体がふらつく。体力がないから、すぐ疲れる。
日焼けした肌はヒリヒリし、焼けた砂浜は熱い。
それでも、自分の夏を手に入れた。
大分加筆しました。