畑のそばで
即興小説トレーニング(http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=248593)より転載 お題:ゆるふわな天国 制限時間:15分
天女を見たことがあるかい。
畑の土手に腰かけて、じいさまがおもむろに言ったことをよく覚えている。
僕はまだ幼い頃で、畑仕事の一休みに、じいさまの隣に座って、薬缶に入ったお茶をじいさまの碗に注ぐのが一番の仕事だった。
じいさまは色んなことを話してくれた。カブトムシの獲り方から、ミミズの役割、雨の降る理由、夜に潜む怖い妖怪など。僕は青空の下、じいさまの話を栄養にして、畑の一端にすくすく育ったようなものだ。
思いがけない衝撃を伴ったお話は、今でもふとした瞬間に意識に浮かび上がってくるものだ。
じいさまがその日話し始めたお話は、いつもとは違った雰囲気を纏っていた。
僕はあまりに不可思議なことをいうものだと、首を傾げたものだ。
いつも、じいさまは優しくて、畑に一生懸命で、理に適ったことを言うのに。
天女なんて、いないよ、じいさま。
じいさまは日に焼けた顔の皺を刻むように、僕に笑いかけた。
いいや、いるさ。
天女は太陽の光でできている。風の衣を纏っている。木々の吐息を呑んで生きている。
それはそれは、清澄な方々なのだ。
どこにでもいて、どこにもいない。
ただ、あるときに現れ、二度と現れないかもしれない。
じいさまは畑の向こうに目をやった。遠くに鳥が飛んでいて、遥かなほうへと向かっていくのが見えた。
暫く沈黙していたじいさまは再び口を開いた。
とても美しい方だった。
ぽつりと、寂しげに聞こえたのは何故だったろう。
じいさまは淡々と続ける。
こうして腰をかけていた、ある日、天女は空に光が寄り集まるようにして、人の形になって現れたのだ。
清らかな白い肌、絹のような光沢の黒い髪。
柔らかな衣を纏い、風をそよがせて、その方は目の前に現れたのだ。
じいさまに笑いかけて、若かったじいさまはなんとも嬉しい、幸せな気持ちになった。
緩やかで、優しい愛だった。
手を取り合って、共に―――――
途切れた言葉の合間に、バッタがぴょんと跳びはねる。
不思議に思って僕がじいさまの横顔を見ていると、苦しいのか、悲しいのか、なんとも複雑な表情。
あれは罪なのか、幸福なのか。
あの日を境に、村の人たちは皆いなくなってしまった。
見渡す限りの畑の、野菜の葉や雑草や、そよそよと風に靡いて、音を立てた。
じいさまはなんとも複雑な光りを目に宿して、僕の頭を撫でた。
今でもよかったのか、悪かったのか、分からないのだよ。
僕は今でも、自分のことを言われたような気がしてならない。
ゆるふわじゃねぇ。