06 メランコリー
メラグラーナ領を離れてから数日後、テオドーラは生まれて初めて見る王都チリエージアに目を輝かせていた。
ヴェルデマーレ家は王都にも屋敷を持っているため、学期中はそこに滞在することになる。学院には寮もあるのだが、入寮するのは王都に屋敷を持たない下級貴族だけだ。
テオドーラは屋敷で宛がわれた部屋の窓から、幻想的な王都の街並みを眺めていた。
「すごい! 大きな建物がたくさんある」
「チリエージアは古い街ですからね。この国が出来る前、都市国家として栄えていた頃の建物が今も現存し、祭典の時などに使われています」
「じゃあ、あの大きな建物は全て昔のものなの?」
「いえ、中には新たに造られたものもありますよ」
テオドーラ達が暮らすこの国の名はマルゲリータという。国境線の八割が海に面しており、残り二割は山脈に隔てられている。そのため、滅多に戦の起こらない平和な国だ。
しかし、造船技術が発達し始めた数十年前より、マルゲリータは西の大国クラベールの属国となった。属国となったからといって、理不尽な支配を受けているわけでもない。軍事以外の権利は今でもマルゲリータが持っており、王家が断絶されることもなかった。それどころか、クラベールの庇護下に入れたことで侵略の危機に怯えなくとも良くなったのだから、マルゲリータにとっては有り難いことだった。
数十年前に激突した戦も海戦だったため、国土に直接の被害はなかった。だからこそ、今も尚美しい街並みをマルゲリータの各所で見ることができる。
「王都に来れたのは嬉しいけど……もう暫くしたら、学院の入学式かぁ……」
「……不安ですか?」
「……少しだけ。以前に母様が、貴族社会は底なし沼のようなものだと言っていたから」
この世界の爵位は日本とは仕組みが違う。日本では家柄、つまり血筋に対して爵位が付与される。そのため、一つの家が複数の爵位を持つことは有り得ない。
しかし、この世界の爵位は土地に対して爵位が付与される。つまるところ、爵位とは役職名なのだ。何処そこの領地を治めるから、何々の爵位といった仕組みだ。
そのため、領主とは本来一代限り。代が変わる時は改めて国王から任命を受けなくてはならない。だから、世襲することは不可能――その筈なのだが。
マルゲリータ王家の力は弱く、地方分権が進んだ今では領主達を従わせるだけの力を持たない。領主が世襲を強行すれば、それを阻むことはできないのだ。
王家に力がないとなれば、更なる権力を望む輩は否応なしに現れる。他領主を追い落としてでも、他領地が欲しい。そうして、社交の場は貴族同士の粗探しの舞台へと早変わりした。華やかなのは上辺だけで、水面下では相手の失言と失策を待ち構えている者の集まり。
クラリーチェがまだ少女だった頃、貴族の腐敗は特に酷く、夫妻揃って嫌な思いをしたこともあるらしい。詳しく聞いたことはないので、実際に何があったのかは知らないのだが。
「でも、今は大分改善されていると聞きましたよ。クラベールの恩恵ですね」
「らしいね」
貴族の体制が見直されたのは、クラベールの傘下に入った後からだ。マルゲリータ王家と違い力を持つクラベールは、抵抗する貴族達を強制的に取り締まっていった。
それがもう数十年前の話だから、今ではクラリーチェの時代より大分マシにはなっているのだろう。
「けど、そもそも女っていうのは陰湿だって言うでしょ?」
「まあ、殿方に比べたらそうでしょうね」
テオドーラの不安は二つある。まだ見ぬ貴族達の付き合い方と、女性特有の陰湿な社会についてだ。
なまじっか前世の記憶があるだけに、女社会の恐ろしさは十分に知っている。おまけに、今生は貴族という見栄を張らなければならない立場なのだ。陰湿さは加速するだろう。そう考えると憂鬱で堪らない。
「学校なんて行かずに、今迄通り家の家庭教師で十分なのに……。学院では何をするんだっけ?」
「確か、淑女の養成が目的でしたね。なので教えるのは刺繍やダンス、それにマナーです」
「家庭教師で十分だよね、それ」
「必修は先程言った通りの内容ですが、望めば語学なども修得できるそうですよ」
「語学か……」
マルゲリータは元々貿易都市の集まりだったため、今でも語学修得が推奨されている。一般的には男が身につけるものだが、別に女がやっても構わない。
語学は家庭教師といった一対一の授業では、本当に話せるようになったのか分かり難い。不特定多数の者と会話してこそ、本当の意味で身についたのかが分かるのだ。そう考えると、学院で語学を修得するのは有意義なことだろう。
「一年生の後期から選択科目を取れるようになりますから、興味があるのであれば取ってみては如何でしょう?」
「そうだね……うん、考えとく」
不安は多いものの、楽しめそうな事柄もある。テオドーラは新生活への不安を宥めながら、美しい王都を眺めた。
入学前って妙に要らない心配とかしちゃうんですよね。