だって私が聖女だからそう言うんでしょ?
「危ない!」
咄嗟に体が動いた。ただそれだけだった。
ニヤリと笑った女性が赤ワインが入ったグラスをワザと傾けた。目の前には美しいドレスを着こなした女性。彼女に向かって赤い液体のかたまりが移動していく。
なぜかその瞬間はスローモーションで、『ああ、これ間に合うなぁ』と考える暇さえあった。あのドレスは私の友人、仕立て屋のサリナ渾身の一作。私のドレスはお姉様のお古をリメイクした古い生地の継ぎ接ぎドレス。
もちろんサリナの手によるものだから、パッと見は遜色ない状態なんだけど、今回限りで着るのは止めておいた方がいいと言われていた。布の劣化で縫い目から裂けるかもしれないらしい。プロが言うと怖いよね。前世の影響か勿体無い精神が邪魔をするのよね。
そのドレスがワインの赤に染まろうともサリナ渾身のドレスの方を守りたい、それしか頭になかった。あのドレスは最新の布を最新の技術で縫い合わせた特別な仕上がり、らしい。たくさん説明されたけど何を言っているのか途中から分からなくなったから割愛。
さて、ドレスの前に立ったままこれだけ思考を巡らせていたのだから、どれだけ時間がゆっくりだったのか伝わったと思う。周囲の人にとっては瞬間移動をしたと思うほどの速さで、私はサリナのドレスを守った。
代わりに、私のドレスはお腹の辺りが赤く染まった。ニヤリ顔の女性はドレスが赤く染まったのを見て一瞬嬉しそうにした。ショックを受けた顔が見たかったのか、ドレスを確認した流れで私の顔を見た途端に驚愕に変わる。
「誰? カチェリーナじゃない」
その瞬間私は光った。あまりの眩しさに周囲の人は皆目を閉じた。サリナのドレスを着た女性、カチェリーナと呼ばれた彼女、つまり私に庇われて背後にいた彼女にも眩しかったらしい。円状に光った、と後日遠目で見ていたジェームズには言われた。ジェームズは私の隣人で幼馴染の同級生。
王太子殿下主催の夏の夜を寿ぐ夜会の最中、会場には王都に屋敷を持つ貴族のほとんどが集まっていた。その全員の頭の中に声が響いた。
『ワタクシ決めましたわ。ワインを浴びてしまうのも恐れずに人助けをしたユーディトを聖女に決めました。ワタクシの加護を与えます。これからも多くの困っている方々を救って頂戴』
「もしかして、女神様?」
「素晴らしい!」
「久々の聖女誕生だー!」
神秘的な体験をした参加者の興奮は醒めやらない。口々に女神様と私を讃える言葉で聖女の誕生を喜んでいる。
「ちょっと待って! 今私がワインを浴びていたら、私が聖女になれたってことじゃない? 何で邪魔したのよ! 聖女になりたかったのに! あなた誰なの? しゃしゃり出てくるなんて何様のつもり?」
「カ、カチェリーナ? ど、どうしたの?」
彼女の隣にいた婚約者のヘインズ様はオロオロとしていた。カチェリーナ様はバーモント伯爵家のご令嬢。ヘインズ様はエッセン侯爵家のご令息。ついでに私はユーディト、ハインツ子爵の娘。幼馴染のジェームズはリンツミンツ侯爵家のご令息。カチェリーナ様とヘインズ様は上級生で、私たちは全員同じ学校に通っている。
「私はただ、サリナのドレスを守りたくて……」
「あんたみたいな登場人物いた? モブのくせにヒロインムーブかましてんじゃないわよ!」
(カチェリーナ様も転生者なのね? 私だけじゃなかったんだ。ああ、仲良くなってストーリー聞きたい! でも無理そう。とにかくここは耐えるしかない)
「申し訳ありません。お詫びをさせてください」
「なによ、そんなことで許せるわけないでしょう? 聖女の力をちょうだいよ。私が貰うはずだったんだから」
カチェリーナ様のあまりの剣幕に、他の令嬢たちは関わらないことを選んだのか、少しずつ離れ始めた。私たちを中心に人の輪が大きくなっていく。彼女たちのカチェリーナ様を見る目には嫌悪感が出ちゃってる。普段からこんな感じなのかな……
「あの、聖女の力を移譲できるのか私では分からないので、聖女応援委員会に相談したいのですが」
カチェリーナ様にそう言うと、
「何よそれ? そんな団体あった? 聞いたことないんだけど。まさかそのせいで流れが変わった?」
ブツブツと長考に入ってしまった。
「ユーディト、ここではナンだから移動しよう」
ジェームズが声をかけてきた。
「カチェリーナ嬢、別室にお願いできますか。ここでは目立ちますので」
カチェリーナ様はジェームズを睨みつけた。
「密室に連れ込んで曖昧にしようと言うのね! いいえ! 私は行かないわ! ここで話せばいいじゃない! 後ろめたいことがなかったらできるはずよね! 何が聖女応援委員会よ! 応援されたら聖女になれるとでも言うの? バカバカしい! 単なる聖女好きの集まりでしょう?」
「我々は聖女の活動を後方支援する団体です」
チャールズ・リンツミンツ侯爵がジェームズの背後から現れた。立ち姿が綺麗なイケおじ。うちのハインツ子爵家はリンツミンツ侯爵家の寄子。チャールズ様のおかげでリンツミンツ侯爵家の寄子は皆爵位に関係なく豊かな生活を送ることができている。
「ユーディト嬢が聖女に選ばれたなんて、寄親としては感慨深いものがあるよ。エスコートしようと馳せ参じたのだが、別室に行かなくていいのかな?」
カチェリーナ様はチャールズ様を見て顎を落としている。分かるよ。某海外映画スターにそっくりだよね。私も最初は驚いたよ。多分私に前世日本人だった記憶が蘇ったのはチャールズ様の見た目が原因だったと思う。このイケメン知ってる! ってなった時の衝撃たるや……あぁあ、カチェリーナ様が話が通じるタイプの人だったら良かったのにぃ。
「しかしこれ以上夜会の場で騒ぐのは問題がある。早く移動した方が」
「構わないよ」
チャールズ様の提案を、夜会を主催した男性、シュミット王太子殿下が遮った。人の良さそうな笑顔でチャールズ様やカチェリーナ様に微笑みかけた。ついでに私にも。
「もう大分騒がしかったからね。周囲の者も興味津々だ。いっそ皆がいる場で話した方がいいと思うよ」
確かに周囲から人は離れていたけど、個々人が会話をするでもなく関心は我々の会話にあるようだ。
「かしこまりました」
チャールズ様は貴族の礼を執った。
「ユーディト嬢、いや、ユーディト様もよろしいでしょうか」
「しかるべく」
「なによ! 『しかるべく』って何なのよ! 急にかしこまっちゃって。みんなもみんなよ! 聖女が何だって言うの? あんたみたいな貧相な女が聖女になってどうすんのよ!」
だいぶお口が悪い……なぜ自分が聖女になると信じていたのか……もしかしてそういう物語なのかな?
「そんな話し方はどうかと思うよ? 聖女というのは皆の見本になるべき存在だからね。そんな風に話す君は聖女には絶対に選ばれないよ。見た目だけ取り繕ってもダメだよ。中身中身」
王太子殿下が火に油を注ぐ。なぜ今?
「ひどい! あんたのせいよ!」
悔しそうな顔で私を睨むカチェリーナ様。身の危険を感じた次の瞬間、カチェリーナ様に雷が落ちた。悲鳴も言わずに気絶したカチェリーナ様からバチバチと音がした。まさかの感電。以前聖女に任命した女性が不慮の死を遂げて以来、女神様は聖女を守るために鉄槌を下すと絵本で読んだことがある。
この国では百年に一度、女神様は聖女を選ぶ。聖女に選ばれた人はそれぞれが得た魔法を使って多種多様な問題を解決するのだという。私が生まれる前に先代が亡くなったので、聖女様を神聖視しない世代がいるのはある意味仕方のないことだとは思う。想像力にも限界がある。
「王太子殿下のお許しを頂戴したので、まずは私の自己紹介から。私は聖女応援委員会の会長を務めさせていただいております、チャールズです。そしてこちらは次期会長候補のジェームズ、リンツミンツの嫡男です」
ジェームズが両手を斜め上に上げてまるで舞台俳優みたいに各方面にお辞儀をした。
「先ほどの落雷ですが、聖女様に対して非礼を働いたと認定された際、落とされるものです。女神様が判断しているわけではなく、人としてどうなのか、という問題でございます。原理は不明です。また、極々稀なことではありますが、我々にとっては非礼ではない場合でも非礼とされる場合がございます。それらを含む聖女様に関する情報を管理・保存し、皆様にお知らせをしていくのが、我々聖女応援委員会の主な役割となっております。今回の件は大変分かりやすかったので、皆様にもご納得いただけたのではないかと存じます」
落雷を間近で見たショックからか会場中が静かで、チャールズ様の声が行き渡ってちょうど良かった。勿論、拡声魔法も使ったのだろうけどね。この国の人たちは魔法が使える人が四割くらい。魔力量が多い人は貴族に多く、練習や訓練を通して様々な魔法が使えるようになる。時間や空間関連、医療系は聖女の方が格段に上達するのだとか。レベチらしい。もしかしてさっき高速で動けたのも聖女の魔法だったのかも。
チャールズ様は『なんだかユーディト嬢が聖女になる気がする』と言っていた。聖女応援委員会の会長が引き継ぐ資料には過去の聖女様の個人情報があるらしい。どんな人がどんな風に聖女になったのか、その後どんな人生を歩んだのか。それらから連想されたのが私だったのだそう。
リンツミンツの寄子の家は皆、チャールズ様とは家族ぐるみのお付き合いをさせていただいている。今思えば聖女教育もされていたのかもしれない。全然気付かなかったけど。
「と言うわけで、我々が所有する資料によりますと、ワインをかけられたから聖女になるのではなく、たまたまそういう機会であった、というだけなのであります。したがってそちらの落雷で倒れられた女性、勿論ご存命です、ご安心ください。命を奪うような負荷はかけて、いえ、かかっておりませんので、まもなく目を覚ますはずです。彼女の主張は根拠不在、妄想の賜物、単なる難癖でございます。もう触れても大丈夫ですので、お家の方に引き取っていただけると助かります。ああ、婚約者の方ですか? あれ? ヘインズ君じゃないか。え? 君が婚約者? あぁ、君も苦労するねぇ。これを機に解消してもらったらどうだい? え? 借金? ああ、ごめんごめん。声が大き過ぎるね。そんなことなら今度相談に乗るからうちにおいで。損害賠償請求を手伝うよ。それで相殺できるんじゃないかな。あぁ、泣かなくて良いんだよ。もっと早く言ってくれたら良かったのに。そんな風に遠慮なんかしなくて良いんだよ。おや、バーモント伯爵、お嬢様がやらかしている間どちらにいらしたんですか? ああ、奥様もご一緒に。お二人ともお髪が乱れていますよ? おや、葉っぱが。っと失礼。ではこちらのお嬢さんをお引き取りいただいて、後日損害賠償の方を。え? 何の賠償かって? 夜会で騒ぎを起こした件、聖女への非礼、ヘインズ君への精神的被害、今の所はこんなところでしょうか? 会場の皆様、他にも被害がございましたら、合わせて請求しますのでぜひリンツミンツまでぜひご一報を! ではでは、新たな聖女誕生を祝って乾杯をしましょうか」
給仕たちが一斉に果実水の入ったグラスを配る。凄い手際の良さだ。入れ替わるようにバーモント伯爵御一行はひっそりと会場から連れ出されて行った。準備が良いのか、計算なのか、絶妙なタイミング。これも委員会の差配らしい。演出って大事なんだなぁ。チャールズ様が王太子殿下に何か話しかけている。頷いた殿下はご自身に魔法をかけた。多分拡声魔法だ。
「では、この国の平穏と今代の聖女の活躍を願って、乾杯!」
「「「乾杯!」」」
会場中が一つになった瞬間だった。私はカーテシーをして熱狂に応えた。
◇◇◇◇◇
後日、聖女応援委員会に呼び出された私は、どんな魔法が使えるようになったのか、どんな風に生活してきたのか、前世の記憶があるのかなどなど、たーっくさん確認された。両親も別日に呼び出されて根掘り葉掘り私のことを聞かれたらしくげっそりとして帰ってきた。それにしても、歴代聖女の中に前世の記憶がある人が数人いたのには驚いたよ。
そうそう、聖女に悪意のある事をすると落雷があるというのは全くの嘘で、チャールズ様の仕業だった。おかげで怖がられた私は少し人から距離を取られていて寂しい。でも、それくらいで丁度いいのだそうだ。悪意のある人が近付くリスクの方が遥かに大きいのだそう。悲しい気持ちが隠しきれなかった私に、チャールズ様は言った。
「『特別な存在』というのは孤独なものです。そして有象無象を集めてしまう存在でもあります。だから我々がいるんですよ。我々は過去の反省の上にできた、先人の後悔を今に活かす集団です。第一に、聖女様に利益を求めません。第二に、聖女様の幸せを応援、つまり後方支援します。聖女に選ばれるような方々は身を粉にして働いてしまう方が多いのです。注意はしていたのですが、先代も我慢と過労で体を壊されたそうで……ですから、どうか、どうか、無理なく、あなたらしく生きてください。願わくば可能な限り長く」
◇◇◇◇◇
ジェームズが初めてユーディトに会った時、二人は赤ちゃん同士。寄親のリンツミンツ侯爵家が寄子を集めて新年の祝いを開いた時のことだった。物心がついた頃にはイトコのような、立場が違うことも認識していないような、誰よりも近い他人。
他にも同年代の子供は何人かいたが、二人は妙に気が合い、会えば共に過ごすのが自然。そんな関係だった。ジェームズが初めてユーディトを意識したのは十三歳になった年。嫌でも性別の違いを意識するようになり、お互い体格が変わり始めた頃、その瞬間は訪れた。窓から降り注ぐ太陽光がユーディト一人を浮かび上がらせ、彼女が友人に向けて微笑んだ瞬間、ジェームズは恋に落ちた。
今までのユーディトは過去のものになり、ジェームズにとっての『特別』が誕生した瞬間だった。チャールズは目敏かった。息子の変化、特にユーディトへのジェームズの眼差しの変化にいち早く気づいた。
「どうしようもない存在に取られる前に告白はした方が良いよ」
父親にそう言われて顔を真っ赤にしたジェームズは可愛かった、とチャールズは今でも思い出す。父親の助言を放って置いた息子は、きっと今頃は苦しんでいるだろう。
聖女になってしまったら、誰から好意を受けても信じきれなくなるものだと、ほとんどの聖女が抱えた悩み。
『だって私が聖女だからそう言うんでしょ?』
どんな善意から出た言葉でも、好意でも、疑ってしまうことが多々あり疲弊したと報告書に書いてあった。チャールズは赤ちゃんの頃から知っていて、自分の娘くらいの歳のユーディトには幸せに過ごしてほしいと心底願っていた。さあ、ジェームズはどう動くだろうか。
「ユーディト、話があるんだ」
ジェームズが重い腰を上げたのは、ユーディトが聖女になってから一年が過ぎた頃だった。この頃のユーディトは聖女の仕事にも慣れ始め、年次のイベントをおおよそ把握し、最初の頃よりは肩の力を抜いて仕事ができるようになっていた。
「どうしたの? 何かあった? 私にできることだったら何でもするよ?」
ジェームズはユーディトの顔を見て、視線を落とした。
「ここじゃ何だから、移動していい?」
「いいわよ。ご指定の場所があれば一緒に転移しましょうか」
「……助かる。じゃあ、セイラムの丘へ。頼む」
大きなバスケットを持ったジェームズとユーディトは、一瞬で丘の上へ跳んだ。色彩豊かな花が咲いた丘には爽やかな風が吹き、眼下の街並みが美しい。
「上手になったでしょう? もう転移酔いなんてしないし完璧よ」
「たくさん頑張ったもんな」
ジェームズが愛おしそうにユーディトを見た。ユーディトはいつになく甘い、彼の眼差しに胸が躍ったのを隠すように曖昧に微笑んだ。
「さあ、座って」
「ありがと」
ジェームズが敷いたブランケットの上に二人で腰を下ろす。紅茶と美味しそうなお菓子が簡易テーブルの上に並べられた。
「そのバスケットって何でも出てくるのね」
「優秀な魔法使いが知り合いにいてね、加工してもらったんだ。俺の宝物だよ」
ユーディトは自分が加工したバスケットを宝物だと言われて気恥ずかしくなった。
「良いお友だちがいて良いわね」
少し茶化したつもりだった。
「最初は単なる友だちだったんだけどね」
「……今は、違うの?」
ユーディトは手にしたクッキーを齧った。美味しい。ジェームズが用意してくれるお菓子はいつも美味しい。渉外から日常品の手配まで、ありとあらゆるサポートをしてくれたジェームズ。この一年は彼がいたから乗り越えられたと言っても過言ではなかった。やっぱり聖女だから、ユーディトは言葉を呑み込んだ。
「結構前から違う」
「……そう」
「親父に気持ちは早く伝えるように言われていたんだけど、関係が変わっちゃいそうで怖くて言えなかった。モタモタしているうちに聖女になっちゃって、今言っても信じてもらえないぞ、って皆から同情された」
「……え?」
ジェームズはユーディトの瞳を真っ直ぐに見た。
「好きだ、ユーディト。十三歳のあの日からずっと好きだった。俺の特別。信じてほしい。聖女だから好きなんじゃない。好きな子が聖女になっちゃっただけなんだ。ユーディトが聖女が嫌だというなら一緒に逃げても良い! どうか、俺を選んでほしい。他の誰かを選ばないでほしい。誰が候補者なのか教えてもらえなかったけど、誰よりもユーディトが快適に暮らせるように努めるから、頼む! 俺を選んで!」
ジェームズはユーディトに頭を下げた。
「えっと……。他の誰かって、誰? 候補者って何の?」
「へ?」
「だから、候補者って何? 何も聞いてないけど。選ぶとかなんとか? え。ジェームズが、私のことを好き?」
ユーディトの顔が真っ赤に染まった。両手で顔を隠して俯くユーディト。
「親父から婚約者候補のこと聞いてない? そろそろ伴侶候補を絞らないとってユーディトにリストを渡したって……、え?」
「……貰ってない」
「え? うそ?」
「婚約者の『こ』の字もチャールズ様から言われてないよ」
「え?」
「ジェムのこと、私の方がずっと好きだった!」
目に涙を浮かべて真っ赤な顔でユーディトはジェームズを見つめた。少し拗ねたような顔が可愛い。
ジェームズはユーディトを抱きしめた。
「何それ。可愛い! 大好き。ディト、愛してる」
ジェームズはユーディトの髪にキスをした。
「もう無理! 恥ずかしい!」
嬉しくて表情が作れなくなったユーディトはジェームズに抱きついて顔を胸に押し付けた。
「ディト、こっち向いて」
ユーディトは顔を胸に押し付けたまま拗ねたように言った。
「久しぶりにそうやって呼んでくれたね」
「なぜか急に恥ずかしくなっちゃって呼べなくなったんだ」
「『ディト』って呼ばれなくなったから『ジェム』って呼びにくくなっちゃったんだからね」
愛おしそうにジェームズはユーディトを抱きしめ直した。ただ『恥ずかしい』というだけで、幼い頃からの自分だけの呼び名を諦めた時に一緒に隠した恋心をやっと取り戻したような気がした。
「幸せだ。ディトが聖女になって、もう無理だと思って一時は絶望した。もっと早く言っておけばよかったって」
「この一年頑張れたのはジェムのお陰だよ。ジェムが一生懸命だったから、私も頑張らなくちゃって」
「親父が俺を焚き付けたってことは、ディトの伴侶として認められたって思って良いのかな」
「チャールズ様は私が思うように生きなさいっていつも言ってくれるから、私の気持ちに気付かれたんだと思う」
「……そっか」
「はぁ。ジェムにくっついてると安心する。なんか眠くなってきた」
「え。それはちょっと複雑なんだけど。疲れが溜まってるのかな。ちゃんと休まないとな。帰ったら予定表を見直すよ」
「違うの。最近ジェムがサリナと仲が良さそうでなかなか寝付けなかったから」
「え? ないない! あれは、早くディトに告白しろ、結婚式のドレスがなかなか作れないって苦情を言われてたんだよ。ドレスのベースはもう出来上がってるらしいよ。流行り廃りがあるんだよ! って脅されてたんだけど」
「サリナったら、ふふっ。よく考えたら絶対ないのに、何であんなに不安になってたのか謎だわ」
「それだけ俺のことを思ってくれてたってことだろ? 今凄く嬉しい」
ジェームズはユーディトを抱きしめていた手を緩めた。ユーディトに立つように促して、二人で立ち上がる。それからジェームズは右手でユーディトの左手を、左手で右手を取った。真っ直ぐにユーディトを見る。
「ユーディト・ハインツ子爵令嬢に、ジェームズ・リンツミンツが婚姻を申し込みます。末永く幸せにすると女神に誓います。どうかお受けください」
「ユーディト・ハインツはジェームズ・リンツミンツ侯爵令息からの、婚姻の申し込みをお受けします。末永く、共に、幸せに過ごしましょう」
最後は涙声でゆっくりと話し終えたユーディトの目から涙が零れ落ちた。ジェームズも涙で潤んだ目で愛おしそうにユーディトを見た。ジェームズは両手でユーディトの頬を包んで、口付けを贈った。ユーディトが目を開けると、ジェームズは微笑んでからもう一度口付けをして、しっかりとユーディトを抱きしめた。
「あ、忘れてた」
ジェームズは慌ててユーディトから離れると、マジックバッグになっているバスケットから何かを取り出した。
「よっ」
掛け声と同時に綺麗な花束が出てきた。ユーディトがリンツミンツの屋敷で綺麗だと言っていた花の束。
「どうぞ」
「嬉しい。覚えててくれたの? このお花、大好きなの」
少し照れたような顔でジェームズは頷いた。
「それと、これ」
ジェームズは小さな箱を渡した。ジェームズの瞳の色と同じ色のリボンがかけられた箱。花束をジェームズに預けて、ユーディトは箱を開けた。二人の瞳の色の石が並んだ指輪が二つ。
「左手出して」
ジェームズはユーディトの左手の薬指に指輪をはめた。
「ジェムにも」
ユーディトはジェームズの左手の薬指に指輪をはめた。
「お揃いで嬉しい」
二つの指輪を見比べて嬉しそうに微笑んだユーディトを、ジェームズはきっとずっと忘れないと思った。
◇◇◇◇◇
二人の婚約を報告されたチャールズはその夜、愛する奥様に献杯をした。ユーディトが聖女になる数年前に病で他界したセリーナは、美しくて優しくてとても素敵な女性だった。それ以来、父子は支え合って生きてきた。
不治の病とは言え、聖女の魔法でなら治せる病なのに聖女は不在。セリーナ以外にも多くの命を奪った病であった。
聖女にはできるだけ長生きをしてもらって、自分のような思いをする人が一人でも減ることに繋がれば、そう考えたチャールズは聖女応援委員会の会長職を引き受けた。
その為には、聖女には快適に暮らしてもらい、可能な限り幸せに、できるだけ長く活躍してもらう。その間に医療を充実させて、薬師を育てて、それからそれから。そうやってチャールズは生きてきた。
聖女応援委員会の会長職は、王太子のシュミットが王位を継いだ時に兼務することになった。お陰で物事の進度が早くなり、チャールズの計画は完遂された。
ジェームズとユーディトはチャールズの願い以上に幸せに、仲睦まじく長生きした。孫を抱いたチャールズは、セリーナにも抱かせてあげたかったと言って泣いた。
完
追記:
カチェリーナ嬢は、『雷の後、性格が丸くなった』と評判になり、農場を営む貴族家に嫁いで逞しく生活をしている。