第一章〜発端
ずっと。そう。ずっとっと。 もしかしたら、半日と経ってはいなかったのかもしれないのだけれど。 ソフィア=メフィアは、本能に従って固く目を閉じ、眠ったふりをしていた。 そうしなければならないと天からの信託を受けたかように。そうすべきだと心に決めていたのだ。 彼女が横たえられた場所の周囲はやはり、どこか騒然としていた。 男の声、女の声、入り混じって、彼女の周囲にはいく人もの人物が屯しているようであった。 そのいずれの声にも聞き憶えはない。それが違和感のひとつであった。 それでもソフィア≒メフィアは、眠ったフリを続けるしかなかった。 怖かったから。どうしていいかもわからなかったから。眼を開けたらば、何らかの未知なる進展があるのを予感していたから。それは彼女にとって、望ましい展開ではないのを心の何処かで知っていたから。 何時間もそうしていたような気がする。静かに息をしていると、と、男のひとりがこんなことを言うのが聴こえた。 「それにしても、お美しい。なんとお美しい姫君だ。まるで雪のように白く透き通ったお膚。まるで妖精のそれだ。鼻筋がすっ、とのびて紅く可憐な唇まで続く。そして、林檎の表面のように美しく丸いこの方の若々しさは・・・歳の頃はいかほどであろうか・・・」 男があまりの感嘆にか、言葉を詰まらせたようだった。ソフィア=メフィアは、眼を開けてしまいたいという、たまらない衝動に駆られた。自分の見た目に自信がないとは言えなかった。これは男たちから昔から言われ続けた褒め言葉と一緒だと思えた。 眠リに耽った彼女にお世辞を゙言うとも思えなかった。 でも。状況が、まだまったくわからない。 ただ、得も知れぬ恐怖の念というもなはまだあった。彼女の心臓は速く打った。心臓の音を聞かれるのは怖かった。 彼の言う姫君というのは自分のことなのだろうか?彼女は考えた。 しかし、彼女には姫君などと呼ばれるような覚えもない。ソフィア=メフィアはごく普通の平民の家の出だ。父はごく普通の労働者であったし、母親はその父のもとで平凡に家事をこなし、家を守っている。 自分の容姿に自信がないわけではなかったけれど、ここまで丁重に褒めそやされで良いものなのだろうか?。 が、声は明らかに彼女に向けられているようだったのだ。ふと、右の手の甲を触れられるのを感じてはっとした。手を引いて身を縮めこませたいという衝動を抑えるのがやっとだった。 それは、間違いなく、男の掌の感触であった。眼を瞑っていても確かにわかったのだ。 ごつごつと骨ばっていて、硬く、しかも゙熱かった。不快なべとつく汗の感触まで感じた。 その感触は、男そのものであった。彼女は父親以外の男に手さえ触れられたことなどいまだかつて経験していなかった。 それでもやはりソフィア=メフィアは眠ったフリをし続けなければならないと直感していた。それはきっと身を守る為なのだった。 男がどういうつもりで彼女の手を触れたのかはわからなかった。しかし、それはいやらしくもモゾモゾと手の甲を這い回り、何かを嬉しんでいるかのようであった。 ━━嗚呼、いや。 ソフィア=メフィアは、心のなかで嫌悪の声を上げた。 「お愉しみもいいが、もしこの姫君が、かの眠り姫であらせられるのならば、そのような無礼は許されくませんぞ。どうぞ丁重に」 別の男の声が響いた。初老を思わせるひび割れた声であった。どこか威厳を感じさせる声でもあった。手の甲を這う動きは、 その声が響いた途端、彼女の手を弄んでいたイヤらしい手がぴたりと止まった。 声がした。それにほ、有無を言わせない強さがあった。 「ほどほどになさいませ」 イヤらしい手の持ち主も、控えなければならないようだった。イヤらしい手の持ち主が、不服を言う代わりに静かに言った。「それにしても、この姫君、実際のところ歳の頃はいかほどなのだろう?」 彼は彼女をより若い女だと見ているのだと、ソフィア=メフィアは感じた。十八歳になるソフィア=メフィアであったが、昔から確かに実年齢よりは若く見られる傾向にあった。もとりより童顔で身體つきも小柄であることもあって、高等学校就学者である現在でも、中等学校就学者、それも低学年生に見られることまでも、ままあったのだ。 が、その問いに答える者はいないようだった。 答えがないのに苛立った男が、ソフィア=メフィアの身に着けている衣服を弄った。永らく眠りに就いていた彼女にも、眼を瞑ったままの彼女にも、自分が何を着ていたかの記憶はあった。母親が市場で見繕って買ってきてくれた長いスカートと薄い生地がが特徴の民族衣装だ。 ━━イヤ、触らないで。 彼女はやはり、心のなかで抗いの言葉を発した。 「それにしても、本当にこの娘はかの眠り姫なので間違いないのでしょうか?」 初めて聴くまた別の男の声がそう言った。 ━━眠り姫? それがソフィア=メフィアをこの状況に追い込んだキーワードのようであった。なぜなのかはわからねど、とにかく眠ったフリをし続けなければならないのは、おそらく、自分がその眠り姫だと間違われているせいなのだろうと、ソフィア=メフィア自身も気づき始めるのだった。