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橡(つるばみ)色の挽歌  作者: 小山彰
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慈愛の岸辺

葬儀が終わってまもなく、幸子は精神科の病院へ入院することになった。精神的ダメージが強すぎて日常生活にも支障をきたすようだったので、しばらく安静にするためには入院もやむをえまいという義母の判断を北村も了承した。北村の両親も幸子がなにか間違いでも起こしたらたいへんなので入院に賛成した。そして幸子が退院するまで長女のさちえは両親と同居している北村が預かることになった。

北村はこれからどうするべきか思い悩んでいた。離婚届は判を押すこともなくそのままにしていた。選択肢は三つあった。


(一)離婚して子どもを引き取り、北村が育てる。

(二)離婚して当初の希望通り親権を幸子に譲り、北村は独り身となる。

(三)離婚せずもう一度ふたりでやり直す。


(一)は幸子が了承するとは思えなかった。子どもを手放すとなったら幸子の精神的ダメージはさらに増すことになるだろう。(二)は幸子が望んでいた形だが、この状況の変化が幸子にどういう影響を及ぼしているか現段階でははかり知れない。かりにそのまま女手ひとつで幸子が育てるとなった場合、北村としては子どもの将来を考えると認めがたい。(三)のハードルは雲に近いほど高い。ふたりしてハードルの手前を掘り続けてきたのである。山田がいうように和解の道があるとしても、なにをどこから手をつければよいか見当がつかなかった。いずれにせよタイムリミットは幸子が退院するまでである。

 休日、北村はさちえをつれて須磨浦の海岸に来ていた。夏は海水浴客であふれかえる神戸の名所だが、冬を目前にした今は海の家などもなく閑散としていた。寒いと思い厚着をしてきたが、意外と風もなく海も穏やかで日差しをうけると暖かかった。

 さちえは浜辺を行ったり来たりしながら退屈な様子もなく、時を過ごしているようだった。子どもと触れあったことのない北村は正直なところどのように接して良いのかわからなかった。

 家を出る前、ためらっている北村に母が言った。

「なにもしなくていいの。子どもと一緒にいればいいの。ただそれだけで」

 北村は海を見つめながら子供の未来を考えていた。五つになる今日までほとんどかまってやったことはない。愛情をそそぐどころか、仕事の邪魔をする生き物のように思ったこともあった。そんな自分がこの子の将来にとって本当に必要なのだろうか。子どもへ対する幸子と北村の愛情を天秤にかけたら幸子が重いにきまっている。それは誰の目から見ても明らかだった。

 北村は瞳を閉じ、波の音に耳を傾けながらしばらく時を過ごした。

 昼近くなったので、北村は子どもをつれて幸子の実家へ向かった。お昼ごはんを食べに連れて行くのが目的だが、しばらく孫の顔を見ていない義母にさちえを会わせてあげたいという思いからだった。

 店は賑わっていた。休日の昼時ということもあって、異人館を散策した観光客も多く大盛況だった。幸子の伯母の八重子も手伝っていたが、手が足りないのは一目瞭然だった。

「またあとで来ます」

 北村は調理場をのぞいて義母に声をかけた。

「良平さん、大丈夫。奥の座敷にあがって待ってて」

 義母はフライパンを振りながら答えた。

「ばあば、さちえはねぇ、オムライチュ!」

 さちえは大好きなオムライスを注文した。

「待っててね」

 義母は笑顔を見せながらさちえにウインクしてみせた。手際のよい義母は先客オーダーの合間をぬってさちえのオムライスを作り、奥の座敷に持ってきた。

「パパ、おいちいよ」

 瞳を輝かせ大好物のオムライスをほおばる子どもの姿を見ていて北村はなんといじらしく可愛いのかと思った。一緒に食卓を囲んだ記憶はほんのわずかしかなかった。もちろん子供が食事をする姿をじっくりと見た事もなかった。妻は毎日、子どものこの姿をながめ、成長するわが子に目を細めていたに違いなかった。北村は『なにもしなくていいから子どもと一緒にいなさい』といった母の言葉が身にしみた。ひと段落ついたところで義母が北村の席に来た。

「良平さん、このたびはえらい面倒かけたね。すんまへん。幸子もうちとよう似て強情なところがあるさかい。いっぺんいいだしたら人のいうこと聞きゃせん。そうなったんは、うちが仕事にかまけてほったらかして育てたからや」

「俺のほうこそ、子ども二人もつくりながら親らしいことなにもできてのうて申し訳ありません」

「いや。夫婦のことは二人の責任や。どっちが悪いということもない。夫婦いうもんは時間かけて時間かけて出来上がっていくもんやと思う。夫婦別れしたうちも人のこといえる立場やないけどな。それでもあんたたちにはなんとかよりを戻してほしい。今回のことで幸子は自分でどうのこうのということはないやろ。良平さん、あんたが許してくれるんやったら、それこそ時間かかっても、ゆっくり将来のこと考えてみてくれんやろか。子ども亡くした責任は幸子だけやのうてうちにもある。つまらん親をもったさかいにこんなことになってしもた。かんにんな。ゆるしてな」

 義母は自分に言い聞かせるように何度も頭を下げた。

「そんなにあやまらんといてください。頭下げなあかんのは俺のほうです。幸子の容体がもう少し良くなったら話し合おうと思ってます。その時はまたお義母さんに相談のってもらうつもりでいます」

「『どんなに哀しい涙でも、いつかはかわく時がくる』いうて、震災の時、避難所で暮らすうちたちにミヤコ蝶々はんが色紙を書いてくれたんや。あんたたちの哀しい涙もきっとかわく時がくる。うちはあんたたちを信じてその日を待ってるよって」

 義母は真剣な表情でそう言った。

「ありがとうございます。そういっていただけて救われます」

 北村は深々と頭を下げた。

「よろしくたのみまっさ」

 義母はそういうと調理場へ戻っていった。食事を済ませた北村はさちえを連れ、店を辞した。

 

 歓送迎会が開かれている宴会の席上、北村は山田に声をかけた。

「その節はお世話になりました。ご面倒をおかけしてお恥ずかしい」

「どういたしまして。つらかったでしょ。たいへんでしたね」

 山田は北村を気づかって答えた。智樹の死は事件性もあったので、当初は幸子に嫌疑がかけられたが、結局、二階から内階段を転落した事故として処理された。

「それでどうですか、入院されている奥さんは少し落ちつかれましたか」

「ええ。実をいうと明日退院することになっているんです」

 北村は山田のグラスにビールをそそぎながら答えた。

「それはよかった。あなたなら十分やり直せますよ。まだ若いんだから」

 再起をかけ二人でやり直すのが良いという意見も多かったが、ことの重大さと互いにうけた心の傷はそう簡単に癒せるものではなかった。北村に会うことをこばむように口を閉ざした幸子の態度からは、もう一度やり直そうという雰囲気は微塵もなかった。

「今後のことはまだ決まったわけではありませんが、子どもは私が引き取ることにしようと思っています。実家の両親に助けてもらいながら一人になって出直します。山田さんには入社から今日まで失礼ばっかりで本当にすみませんでした。遠くへ行かれるのはさびしいですけど、新天地での活躍を祈っています」

 北村は素直に詫びた。今回の件では山田にずいぶんと世話になった。年長というのは人生を長く生きてきたことである。仕事の成績や勤務態度だけで評価する会社人間のくだらなさを北村は山田を通して知らされた。

「礼には及びませんよ。わたしはできることをしただけです。あなたの手助けができたことをよかったと思っています。もちろん、これからも応援します。だからもう一度、考えなさい。いまその心の中にある意地を捨てなさい。奥さんと話はされましたか」

「いえ、会ってはいません。彼女が会おうとしません。ですから……」

 話を蒸し返そうとする山田に北村は少しいらだった。

「愛情なんていうのは磁石を引き離す時の磁力みたいなものです。愛情が強ければ強いほど、引き離す時に痛い思いをする。それが愛しあっていた証拠みたいなものです。結婚するのはたやすいですが、離婚するために必要なエネルギーは莫大です。そんな命を縮めるようなことはしないほうがいいんです」

 山田はグラスのビールを一気に干した。

「私もいろいろと思い悩みました。私がいったい、何をしたというのだろうか。家族に恥をかかせてはいけないと思うその一心から、私は死に物狂いで働きました。地位も名誉もお金も、これ以上はもうどうしようもなかった。山田さん、あなたは私に正義を振りかざしてはいけないと忠告してくれましたが、私はけっして正義を振りかざしたんじゃないんです。ただいくら考えても、自分が正しいということを妻に譲るわけにはいかなかった」

「それこそがあなたの正義です。奥さんに会いなさい。会いに行きなさい。奥さん本人の口から『あなたに会いたくない』といわれましたか。そうでないなら会いに行きなさい。行こうとしないあなたのその態度が、自分は正しいと妄信している歪んだ正義です。意地を張らずに心おだやかにして仮面をお脱ぎなさい。ひとつのことにこだわることを執着といいます。周りに何があっても見えない。それは苦しい心だ。色々なことに目をやる心を持てば気が楽になります。私はある日をさかいに他人からどう見えようとかまわないと思いました。そうしたら逆にそばにいる人たちが見えてきた。その人たちが自分のためにあれこれと世話をしてくれていることに気づいた。そうしたら、今まで以上に周りの人たちに感謝する心が芽生えたのです。不思議だった」

(傷ついた幸子の心を癒すことができるのは、自分をおいて他にいない。ここで逃げたら悔いが残るだけか……)

「この私が、あなたのように変わることができるでしょうか」

 北村は天を仰ぐようにして言った。

「もちろんですとも」

 山田は即答してなんどもなんどもうなずいた。

 北村は山田を見つめながら、幸子に会いに行くことに心が傾いていた。

「人生はなるようにしかならないものです。わたしも一度は死ぬことを考えました。いつお迎いが来てもいいように、妻を裏切るたび、三途の川の渡し賃をつくるため、妻の名で積み立て貯金をしていたんです。馬鹿なことを繰り返していました。いまも妻が私を許してくれたとは思ってはいませんが、出逢った頃のように精いっぱい彼女を愛することで、自分の心を落ち着かせているんです。つぐないは、いつからでもできます。課長は仕事に夢中になって家族を愛することを忘れていただけです。心配無用。きっと明日、東の空に日はまた昇りますから」                            

 山田の屈託のないお説教が、北村の胸奥にある正義の剣先を溶かし始めていた。

                                           〈了〉

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