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橡(つるばみ)色の挽歌  作者: 小山彰
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業苦の淵

 福岡営業所の新製品発表会も無事終了し、北村は本部長の光石と午後六時からの懇親会に出席していた。立食パーティ会場には福岡県下の販売店オーナーや量販店店長が多数参加していた。

 一つ一つのテーブルへ北村は光石をつれて紹介して回った。販売店の今回の新製品に関する評価は好評で、光石もずいぶん満足げだった。ひととおり挨拶が終わった頃に、北村の携帯が鳴った。幸子の実家からだった。北村は会場を出てホテルのフロントロビーで電話を受けた。

「幸子の母です。良平さん、えらいこっちゃ。堪忍な、どうしようもあらへんかったんや」

 幸子の母はそれだけいうと突然言葉を失い、うめき声をあげて激しく咳きこんだ。

「お義母さん、どうかしましたか。なにかあったんですか」

 しばらくは嗚咽する声が聞こえてくるだけだった。

「じつはたいへんな、子供が、子供が、智樹が死んでしもうた。あ~あ~」

「エッ、なんですって」

 北村はすぐには事態が飲みこめなかった。

「幸子はあんさんに知らせんといてというたんやけど、それではすまされんさかい。良平さん、お願いや、一生のお願いや、今夜、お通夜するさかい。来てやってください。幸子を許してやってください」

 義母はふたたび嗚咽を繰り返した。

「わかりました。幸子は今、どうしてますか」

「気が……気が……すこしおかしゅうなってしもうて。許してやってください。詳しいことは会ってからに」

 別人のように最後の言葉を静かにいうと、義母は自分から電話を切った。

(俺の子が死んだ? まさかそんなことがあるもんか)

 悪寒が全身を駆け抜け、何が何だかわからない空白が、北村の思考を完全に停止した。

「北村、どうかしたのか」

立ち尽くす北村をフロアーに出てきた光石が見つけて声をかけた。

「北村、どうしたんだ!」

光石の二度目の大声に、北村は覚醒した。


 北村は大阪の母に電話をかけ、手短に用件だけを伝え、家で待つように言った。大阪営業所の小林には伊丹空港まで出迎えを頼んだ。

 二十時三十分。北村を乗せた福岡―伊丹最終便は、定刻通り伊丹空港へ着いた。空港には小林ではなく、黒服に身をつつんだ山田が、自家用車で迎えに来てくれていた。

「たいへんなことになりましたね」

 車に乗り込んだ北村に山田が声をかけた。

「すみません。係長まで面倒をおかけして」

「とんでもない。小林君が急用で迎えに来られなくなったので、私が来ました。気になさらないでください。これからどちらへ」

「千里の実家に母を待たせていますので。そのあと、妻の実家がある神戸の北野坂まで」

「了解しました。どちらも存じていますから。疲れたでしょう。寝んでいてください」

 山田はそういうと車を阪神高速空港線に走らせた。

「この手に抱いたことのない、わが子が、死にました」

 北村は助手席でつぶやくように言った。失意はすさまじい虚脱感で北村を包みこんでいた。

「置手紙がありました。『生涯、子供には会わずにいてほしい。そのかわりいっさいの援助はいらない』そう書いていました」

「それは、またひどい……なんといっていいのか」

 さすがの山田も言葉を失くした。

「この世にこんな馬鹿な父親がいますかね。死んでしまってから子どもに会って、いったいなんになるのか。正直なところ、大切なものを失った悲しみはありません。妻の悲しみは想像を絶するものがありますが、私にはその悲しみを共有する資格もないんです。これが絶望というものですかね」

「そんなことはない。どんな境遇であっても、子どもはまぎれもなくあなたの子だ。自分の子を失って悲しくない親がいますか。子を失った悲しみを、自分を責めることことに転嫁しているだけでしょ。親が自分を責めるだけで、子どもを失くした現実から目をそらしてどうするんですか」

 山田がめずらしく語気を荒げた。

「あなたがうらやましい。あんなにあたたかい家庭があって」

 北村は冷めた表情で言った。

「冗談じゃない。あなたは私が犯した大罪をしらないから、そんな無責任なことがいえるんだ」

「大罪?」

「わたしは家庭を犠牲にして働いてきただけじゃなく、何年も別に女を作り、妻を裏切り続けていたんだ。その果てに妻は九州の実家へ帰り手首を切った」

「エッ!」

 北村が光石から聞いた山田の妻の事故というのは自殺未遂のことだったのである。

「そうだったんですか……」

「……」

 山田は黙していた。

「何も知らずに勝手なことばかり言って申し訳ありませんでした」

 北村は素直に詫びた。自分ばかりが苦境にあると思いこみ、人をうらやんでいた自分が情けなかった。

「あなたが先日、わたしにいったじゃないですか。『人にはいろいろ事情ってもんがあるんだ。あなたの人生には悲哀ってものがまるでない』ってね。生きるということはそれだけでたいへんなことなんです。人は誰でも悲哀を背負って生きている。それを顔に出したり、口にしたりしないだけです」

「おっしゃりとおりです」

 北村は頭を下げてうなずいた。

「課長、逃げずに立ち向かってください。あなた以上に奥さんは自分を責めていることでしょう。やさしさなんていうのは、理屈じゃなく、すべてを許してあげることですから」

 諭すように話す山田の横顔を北村はいつまでも見つめていた。


 北野町にある幸子の実家前には『忌中』のはり紙があった。義母が経営する店の座敷で通夜をとりおこなっているようだった。北村は母をつれて玄関に立った。山田もそのあとに続いた。

 北村が来たことを知って、幸子が奥から飛び出してきた。顔色は青ざめ、瞳がにじんだように真っ赤に充血していた。

「ごめんなさい……」

 北村を見つめ、幸子は喉から絞り出すような声で言った。そして突然、玄関先に土下座をすると、額を地面にこすりつけて謝罪した。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 額に血をにじませて何度も詫びる幸子を見て、北村の母は目頭をおさえた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、うちが、うちが、あんたの子をころしました。死んでおわびするから許してください……うちが、あんたの子を……」

 北村は幸子の肩を両手でささえるようにして抱え起こした。とぎれとぎれの幸子の言葉は、臓器をえぐり取るような痛みを北村にあたえた。

「もうええ、もうええ、おまえが悪いんやない」

 北村の言葉をさえぎるように、幸子の声が部屋中に響きわたった。

「うち、死んでおわびするから、うちを、うちを、うちをころしてちょうだい」

 北村は幸子のすさまじい形相に気おくれし、言葉を失い立ち尽くしていた。

「課長、しっかりなさい」

 山田は北村を一喝した。その声に背を押され、北村は幸子をかかえながら小さな棺の前に進み出た。静かに眠るわが子に北村と北村の母、それに山田の三人はそろって合掌した。

(おれに似てる……)

 そう思った途端、今まで感じなかった激しい悲しみが北村を襲った。

「死んで、死んで、死んでおわびするからゆるしてください……」

 幸子は北村の胸に顔をうずめて何度も何度も同じ言葉をくり返した。

「死ぬなんていうな! おまえのせいやない。なにひとつしてやらなんだ俺の責任や。そんなに自分を責めるんやない」

 北村はやせ細った幸子を抱きとめながら言った。

「そうよ、さっちゃん、生きてなきゃ。命があれば、きっとまた……」

 そういった北村の母の頬をつたわった涙のしずくが、着物の襟に流れ落ちていた。

 北村は胸が苦しくなり、軽いめまいを感じた。なぜか涙は流れなかった。涙は悲しみの極限を迎えようとしている北村の意に反して瞳の奥に逆流していく。

「なんてこと、かわいそうに……ほんとうにごめんなさいね」

 北村の母は再び合掌して棺に声をかけた。

「もうだめ、ねえ、お願い……ころしてちょうだいったら……」

 幸子はくずれ落ち、北村の両足を抱えこむようにして気を失っていた。

「どうか、どうかこの子をゆるしてあげてください」

 棺の前に正座していた義母が深々と頭をさげて言った。

「あ、パパ、パパ、智樹が死んだ。死んだ」

 義母の隣に座っていた長女のさちえが北村に駆け寄り言った。

 北村は三月ぶりに会うわが子の頭をなでながら言葉を探していた。

「つらいことじゃが、これもこの世のさだめ。悲しい事故ですな。くれぐれも奥様をお責めにならぬよう。お二人がこの悲しみを乗り越えねば、亡くなった子は浮かばれまい」

 橡色の法衣に身をつつんだ小柄な住職が立ち尽くす北村を見上げながら言った。 

「承知しております」

 北村は焼香台の上にあった橡の実を強くにぎりしめながら、棺の中のわが子を一心に見つめていた。そして瞳の奥から猛烈な勢いであふれだしてくる涙の洪水を今か今かと心待ちにしていた。

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