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橡(つるばみ)色の挽歌  作者: 小山彰
3/6

夢幻泡影(むげんほうよう)

「風邪やな。今夜は風呂には入れずにあたたかくしてやすませなさい。熱が下がらないようだったら明日もう一度来なさい」

 生後半年になる次男の智樹が、昨晩から熱を出していたので、幸子は長女のさちえをつれ、小児科に診察に来ていた。

「お世話になりました」

 幸子は智樹を抱いて深々と頭を下げた。

「お大事に」

 女性の若い看護師がにっこりと笑みを浮かべた。

 病院の重苦しい空気とは対照的に外には穏やかな風が流れ、雲ひとつない清澄な秋空がひろがっていた。幸子は舗道に植えられた木々の落葉のあいだに転がっている橡(とち:どんぐり)の実をみつけ、そのふたつを拾いあげると、ひとつをさちえに、もうひとつを自分のポケットにしまいこんだ。

 子供の頃、ひとりぼっちの幸子を慰めてくれたのは祖父母だった。貧しかった祖母は木の実に糸を通し首飾りをつくってくれた。祖父は楊枝を刺しコマにして遊んでくれた。

(うちはこの子たちに何をしてやれるんやろか)

 幸子はポケットの中のどんぐりをにぎりしめてそうつぶやいた。

 離婚に反対する母を説得できずにいた幸子は、実家のそばにある四畳半一間のアパートを借りることにした。そこは小料理屋を営む母が倉庫代わりに借りていた部屋である。

 北村には離婚届に添えて『いっさいの援助はいらないから、子供たちには生涯会わないでほしい』と手紙を同封して送りつけていた。今さら、北村に養育費を請求するつもりはなかった。母に面倒をかけるのは心苦しかったが、家賃を母に負担してもらえば、当面家族三人で暮らす多少の蓄えはあった。

(部屋はせまくなったけど、苦しい時はみんなで肩を抱き寄せ生きていけばいい。この冬はうんと奮発して智樹にベッドを買ってやろう) 

 幸子はアパートには帰らず、母が営む料理屋へ立ち寄った。店の二階が幸子の実家だった。

暖簾をくぐると店を手伝っている母の妹の八重子が驚いたように声をかけた。

「あら、さっちゃん、元気にしてたの? 大変な時みたいやけど、無理せんとがんばってな」

 事情を知っている八重子は、幸子に理解を示していた。

「おばちゃん、ほんまおおきに。おかあちゃんは反対やけど、うちはもう決心したから心配ない」

「そやな。人生は思い通りにいかん時もある。行く道を変えなあかん時もある。そやけど、さっちゃん、一番は子供や。子供の将来のことをよう考えて動かなあかんよ」

 八重子はカウンターを拭きあげなら幸子をみつめて親身に答えた。

「おばちゃん、おかあちゃん、いてるかな」

「今、そこのスーパーまで買出しに行ってるわ。すぐにもどるやろ」

 幸子は子供二人を八重子に預け、店の二階にある自分の部屋に残しておいた細かな荷物を取りにあがった。幸子は押し入れからハンドバッグを引っぱりだし、中にしまっておいた北村からもらった婚約指輪をさがした。北村との思い出の品にはいっさい手をつけずにおこうと決めていたのだが、逼迫した生活を賄うためにその指輪を使うことにした。幸子はそっと指輪をハンカチに包んだ。

「あんた、これからどないするつもりや」

 帰ってきた母が、智樹を抱きながら二階へ上がってきた。

「どないもせいへん。うちがこの子たち育てます。おかあちゃんにはできるだけ面倒かけへんようにする」

「そんなこというても、このままやったら良平さんとこのご両親に会わす顔があらへんやろ。良平さんからの返事はどないやったんや。ちゃんと相談したんかいな」

 気丈な幸子の母が困り果てたように言った。母も前夫と別れて女手一つで幸子を育ててきた。不幸が繰り返されることは母にとってもやりきれなかった。

「うち、精いっぱいやってきたつもりや。たしかにお母ちゃんがいうように、良平さんは外では立派な人かもしれん。せやけど、あの人は家庭のことなんか頭にあらへん。うち一人がさびしい思いするんはかめへんけど、二人も子供ができてるんやで。あんまりやわ。うち最近つくづく思うんやけど、うちらなんの為に結婚したんやろ」

「……」

 母は返す言葉を失くしていた。

「実家にこのまま帰ったらお母ちゃんも体裁が悪いやろ。しばらくあのアパート貸してちょうだい。うちもがんばるさかい。子供がおるからおかあちゃんや八重子おばちゃんにちっとは面倒かけるかもしれんけど、うちがんばるさかい」

「お金はあるんか」

「当面はなんとかなる。心配いらへん」

 幸子は母から智樹を受け取ると階下に降りて八重子に礼をいい、さちえをつれて店を出た。

 強がりをいったものの、幸子には子供たちを育てる自信も余裕もなかった。あるのは北村への復讐ともいえる意地だけだった。その意地が周囲を困惑させていることも幸子は承知していた。しかしながら、その意地が萎えてしまったら、今までの自分があまりに惨めに思えてしようがなかった。

(おかあちゃん……ごめん。うちの勝手をゆるしてちょうだい……)

 幸子は二人の子をつれながら心の中で母に詫びた。先ほど見せた気丈な母の寂しげな顔が、幸子の脳裏を何度もかすめては消えた。

 その夜、幸子は母のことや北村との過去の出来事が頭の中をめぐって寝つかれなかった。それでも時計の針が午前二時を指した頃、隣で眠る智樹の頬に唇をよせて、ようやく眠りについた。

 幸子は家族団らんの夢の中にいた。子供の頃に別れたはずの父や、父につれられて離れ離れになった兄が笑顔で酒を酌み交わしていた。その光景を母はとてもうれしそうに眺めていた。家族が囲んだテーブルにはお祝いの鯛が飾られ、食べきれぬほどのご馳走が並んでいた。

(不幸になれたらあかん。不幸はしあわせになるまでのちょっとしたまわり道や。がんばらんと……)


 早朝、けたたましいサイレンの音が、二重、三重にこだました。救急隊員と警察官が入れ替わり立ち替わり狭い部屋の中を行き来していた。

 幸子は呆然としゃがみ込んだまま智樹の小さな布団にできた凹みを見つめていた。今までそこに寝ていた智樹がいなかった。

「あんた、なにをしてたんや!」

 母の怒声を浴びても、幸子は微動だにしなかった。

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