万法帰一(ばんぽうきいつ)
翌朝、妻の運転する車で一緒に出勤しようという山田の好意を断って、北村はひとり駅までタクシーを飛ばした。駅のロッカーに出張の荷物を預け、ネクタイだけ変えて出社した。仕事がいかに順調であっても、家庭には嵐が吹き荒れている。北村は家庭生活の窮屈さをまぎらわすために仕事へ逃げている自分が情けなかった。
会社につくと、山田は何食わぬ顔をしてデスクで珈琲を飲んでいた。山田は会社で居場所がないほど肩身の狭い時を過ごしていたが、家庭では見事な主役を演じていた。北村は会社が心休まるところでないことは百も承知していた。しかしながら、実際、家庭より会社のほうが居心地がよいと感じていた。いくら山田の生き方に心揺さぶられたとしても、立身こそがやる気の根源であると信じ込んでいる北村が、山田のようになれるはずはなかった。
北村は午前中に出張報告書の作成と出張旅費の精算を済ませ、午後からは今春発表される新型家電を営業所員全員にプレゼンテーションした。社運をかけて発表される今回の新製品は社員誰もが絶賛で営業部の連中も目を輝かせて説明に聞き入っていた。
営業の第一線から退くことが決まっている山田もミーティングルームの最前列で北村の話に耳を傾けていた。
会議が終わり、休憩時間になってまもなく、女子社員が北村に声をかけた。
「課長、お宅からお電話です」
「家から?」
北村は不吉な予感がした。『家』という言葉に、一瞬で北村の心は曇った。
「もしもし」
「津島です。良平さん」
声の主は妻幸子の母だった。
「そうですが」
「どないなってんの。幸子、家に帰ってから何もいわんよって心配してたら、今日になってあんさんと別れるていいだしてなぁ。さっき、自分の荷物を取りに帰るいうて家に飛んで帰ったんや。良平さん、うちは離婚に反対や。話し合ってあんじょうやってくれんかな」
「そのつもりでいますから、ご心配なく」
北村は平静を装ってこたえた。
「そうか。それ聞いてちょっと安心したわ。よかったら、今から家に帰って話おうてくれんかいな。あの子も強情やさかい、自分から良平さんに会いにはいかんよって」
北村は入社以来、初めて早退した。神戸の得意先に訪問予定だった小林に便乗してポートアイランドにある自宅まで送ってもらった。
玄関の電気は点け放されていたが、カーテンを閉め切った部屋は真っ暗だった。幸子はスーツ姿のまま台所のフローリングに座していた。まるで北村が来ることを予感しているかのようだった。
「帰ってたのか」
北村は義母から電話があったことは口にしなかった。
「あんたが家を出て二ヶ月。うち、真剣に考えたわ。もうやめよ。こんなこと」
幸子が闇に向かって言った。
「お義母さんに相談したんか」
「お母ちゃんは関係あらへん。うちが決めたことや」
幸子の声は低く冷たかった。
「下の子、できたばっかりやないか。よう相談してからでも遅くないやろが」
「ほなあの子が三つになったらええんか、それとも十か、あんたは、なんにも、わかってえへん。ほんまなさけあらへんわ」
幸子は瞼に涙をあふれさせた。
家庭をかえりみず仕事に没頭し、妻が家を捨てたその最たる原因は自分にある。北村はこの一カ月、自省のなかでそう結論を出していたにもかかわらず、妻を眼前にして、その事実を責められるに至っては、素直に詫びる気持ちになれなかった。やはり非は自分だけにあるのではなく妻にある。自己肯定は猛烈な怒りに激変した。
「情けないやと、それは俺のセリフじゃ、なにもかも、ありとあらゆること、すべて俺のせいか。俺もお前らのこと思って寝ずに仕事しとるんじゃ。なにがなんやらわからへん。もうしんどい。おまえの気のすむようにせんかい!」
激した北村は手に持った鞄を床に投げ捨てた。幸子は突然立ち上がり、冷蔵庫からトマトをつかみだすと、ゼーゼーと荒い息をしながら、まるで赤子のようにかぶりついていた。果汁がベージュのスーツの上着にしたたり落ちた。幸子は夫婦生活のストレスから過食と拒食を繰り返していた。
「やめんか!」
そういって北村が幸子の肩に手をあてた刹那、幸子はその手を猛然と払いのけて叫んだ。
「さわらんで! 気が違うたと思っとるんやろ。バカにせんといてか。こんな寂しい思いさせられて、かわいそうに……子どもの寝顔も見んといてから、あの子らが不憫やと思わんのか。あんたがいうてた明るい家庭ってどこにあるんや。夜の女や思うてなめとんのやろ。あんたが稼ぐ銭を待ってるくらいなら、夜の街で客に札束で殴られてたほうがましや。うちな、うちな、あんたみたいな嘘つきは嫌いや!」
北村には幸子の孤独を理解できる度量も優しさも欠けていた。ただ仕事をすることがすべてだった。仕事をすることですべてが許されると思っていた。
「おれがいつ嘘をついたんや。お前の好きなようにさせてきたやないか。これ以上、どないせえいうんや」
「もうええわ!」
幸子が投げつけた食べかけのトマトが、北村のスーツの上着を真っ赤に染めていた。