薄氷の正義
「これからちょっとつき合わないか」
午後七時、東京発博多行のぞみの新大阪到着を知らせる車掌のアナウンスを確かめてから、北村良平は隣に座る部下の小林に声をかけた。
「課長、お疲れでしょう。このまま新神戸までじゃなかったのですか」
「いや、大阪の実家に泊まって、そのまま明日の朝、出社してもかまわへん」
北村は口をとがらせるような仕草を見せて首を振った。
「奥さんを三日もほったらかしにして、これから飲んで実家に泊まったりしたら、いくらやさしい奥さんでも角がはえてるやしれませんよ。折角ですけど今夜は失礼します。年に一度のことですが、東京というところは関西人のわれわれには窮屈なとこですね。今度またゆっくりと」
小林は荷物棚のキャリーバッグをおろすと北村に小さく会釈し、車両前方の乗降口に向かった。
「そうかお疲れさま。君の忠告を素直にきいてこのまま帰ることにするか」
北村はそう答え、ネクタイを少しだけゆるめてワイシャツの第一ボタンをはずした。右手をあげて手を振る痩身で小柄な小林の姿は、ホームとともにどんどん小さくなっていった。
「どんぐりころころよろこんで……しばらく一緒に遊んだが……やっぱりお山が恋しいと……泣いてはどじょうをこまらせた……」
眠らぬ街大阪のネオンと高層ビル群をながめながら、北村は耳慣れた童謡を口ずさんだ。
妻が実家へ帰って一ヶ月が過ぎていた。北村はその前の二ヶ月は家に帰っていない。独り暮らしに慣れはじめている自分がどこか淋しかった。
新神戸駅で降り、神戸市営地下鉄に乗りかえて三宮駅につくと、改札口で同僚の山田と出くわした。係長の山田も北村と同じ神戸に住んでいた。ともに会社のある大阪梅田までは電車通勤だった。
「課長、東京本社での会議、お疲れさまです」
禿げあがった頭が脂ぎって光っている。酒を飲んだのか頬がほんのり赤い。
「甲子園の社宅に住む若い連中を神戸まで連れてきて、そこの安い居酒屋で飲んでました」
山田はすこぶる上機嫌だった。
「こっちはスケジュールが非常にタイトでくたびれましたよ」
「課長は営業の第一線、花形部署のマネージャーですからね。わたしのような窓際と違ってそりゃたいへんでしょう」
山田は北村より五つも年長で社歴も五年以上の開きがある。しかしながら成績は営業所でいつもビリ。先月の人事異動で販売会社のサービス部に出向することになっていた。誰が見てもリストラ左遷に違いなかったが、本人は辞表をたたきつけるどころか、給与据え置きを条件に会社側と直談判し、来月四月一日付で大阪営業本部から合弁会社のサービスセンター滋賀出張所の所長代理として赴任することになっていた。
「山田さん、転勤、ご家族はどうなさるんですか」
「もちろん単身赴任ですよ。家族の生活のほうが大切ですからね。私のねぐらなんてどこでもいいんです。会社に置いてもらえるだけでありがたい」
毎日みじめな思いをしながらも、平然と家族第一主義を貫く山田の生き方が北村には理解できなかった。
(仕事もできずになにが家族なものか……みじめな姿を家族の前でどうやってつくろうのか)
北村は、仕事に対する情熱や会社への忠誠心が皆無に近いこの中年サラリーマンが嫌いでならなかった。
「課長、僕が滋賀へ出向したら、もう一緒に飲むこともないでしょう。今夜はちょっとつきあってくれませんか」
「いいですよ。私も飲みに出るつもりでしたから」
北村は妻との冷戦のはけ口を山田との酒でまぎらわそうと思っていた。
酒が進んでも、二人の会話は仕事やエキサイティングな話には進展しなかった。年金の話や介護保険の話など、つまらない世間話を繰り返す山田に、北村は辟易していた。話題が変わっても山田は趣味の盆栽の話や妻のガーデニングなど自分の家のことばかりを延々と話し続けた。そして一区切りついたところで北村の妻に話頭を転じた。
「お美しい奥さまはお元気にされていますか」
元クラブホステスをしていた北村の妻の美貌は社内でも評判だった。その妻と北村が別居中であることは誰も知る者はない。
「実をいうと、いろいろありましてこれの処置に窮しているところです」
北村は胸ポケットから封筒を取り出し、きれいに折りたたんだ離婚届の用紙を山田に見せた。この平和な男から解決策を伝授してもらおうなどというつもりはまるでなかったが、仕事に情熱を燃やし、家庭をかえりみなかった結果としての自分の現実をなぜか語っておきたくなった。
「なんだ、そういう、こと、ですか」
動じず飄々としているその返事に、北村は血が逆流する思いだった。
「なんだとは、なんですか! あなたはいつもへんに落ちついていて人をくっている。あなたね、人にはいろいろ事情というものがあるんだ。あなたの人生には悲哀っていうもんがないんじゃないですか。われわれは戦場に駆り出された戦士と同じなんだ。いやでも戦わなきゃ生きていけないんですよ。それをあなたはなんですか。いつも傍観者気取りで、それもまったく自己保全ばかり。若い私が先輩に向かっていうのもなんだが、あなたには会社に対する忠誠心というものがまるでない」
北村は怒りで震えていた。自分の弱みともいえる恥部を正直にさらけ出したにもかかわらず、どうでもいいことのように山田に一蹴されたことが許せなかった。
「僕はあなたのいうとおり欠点だらけの人間です。成績優秀なあなたからすれば、僕などは愚かな働き蜂に見えるかもしれませんが、こんな落ちこぼれでも家族を養わなければいけないんです。家族を守らなきゃいけないんです。僕の帰りを待つ妻や子供たちをね。僕にとってこの世で一番大切なのは、この家族なんです。あなたのように家族をかえりみず会社のために特攻隊員になることは僕にはできない。僕は妻や子を愛しています。ただそれだけです」
山田は至極冷静だった。無能呼ばわりされることにも憤りを見せず、家族を愛しているとあっさりいってのけた。
「いいすぎました。家庭のことになるとどうしてかいらだってしまって……」
(俺は家族を愛していると他人に公言できるか。いったいは何のために俺はこんなにしゃにむに働いているのだろうか)
北村は山田に立ち向かう言葉を失っていた。
「課長、奥さんの前で正義を論じちゃいけませんよ。不和を相手のせいだけにしてもはじまらない。結婚という大義を考えてみてください。夫婦の間での正義なんていうのは嫌いになった感情を相手のせいにして自分を正当化するだけのことです。人間ですから好きにもなれば嫌いにもなる。そのたびに離婚していたらどうなります。離婚が増えるのは、紙切れ一枚で苦悩から逃れられると思い違いしているだけなんです。紙切れ一枚で解決はできないです。和解の道はきっとあります。正義はだめです」
(子をかかえた妻はどんな思いで離婚届を送りつけてきたのだろうか……)
北村は黙した。
「まあ、飲みましょう。どうにか、なる」
山田はそういうとグラスの酒を一気にあおった。
「私は学生時代の卒業文集にこう書いたんですよ。『非凡に生きようと思わない。ただただ平凡に生きたい』とね」
山田は酩酊したのか、腕を組み、目を閉じながら、自分に言い聞かせるように言った。北村はそれには答えず、帰り支度をはじめた。最終電車の時間まであと数分しかない。
「課長、今夜は僕のところへお泊りになりませんか。もう少し、あなたと話がしたいんです」
山田は北村を自宅へ誘った。
「ありがとうございます。でも今夜はよしておきましょう。こんなに遅くなって家の方にご迷惑ですから」
「そういわずに一度寄ってあげてください。家内にはもう連絡していますから。九州の田舎出身の家内は、普段から神戸育ちの課長に一度お目にかかりたいとこぼしているんですよ」
三十代で課長まで出世した北村に対し五十を前にして未だ係長に甘んじている山田に、ねたみやひがみが無いはずはなかった
(俺を誘っていったい、どういうつもりなのか)
思案の後、北村は山田の家を訪れることにした。正直、この平々凡々のマイホームパパの家庭をのぞき見たい気持ちもあった。
山田の自宅は阪急六甲道からタクシーでワンメーターの閑静な住宅街にあった。おそらく築後数十年になるのだろう。色褪せた二階建ての画一的な建売住宅が山田のマイホームだった。
午後十一時を過ぎていた。
「おかえりなさい」
着物姿の痩身の女性が酔いどれ二人を出迎えてくれた。
「ただいま。おまえが会いたがっていた北村課長殿をお連れした」
山田が時をかまわず大きな声で北村を紹介した。
「いつも主人がお世話になっております。山田の家内でございます。お目にかかれて光栄です」
山田の妻は北村に深々と頭を下げた。首が長く鼻筋の通った美しい女性だった。正直なところ、山田の風貌とはまったくといってよいほど釣り合いがとれない。ただ痩せすぎなのか顔色や肌の艶はあまり良くなかった。
「夜分に恐れ入ります。山田さんのお言葉に甘えてしまって」
北村は恐縮して何度も頭を下げた。
「結構ですのよ。わたしたちは慣れていますから」
山田の妻はそういって北村を部屋に招き入れた。 山田の妻の手料理は素晴らしかった。急な来客を予測していたかのような手際の良さ。前菜からお刺身、煮物、椀ものと、さっきまで飲み食いしていた居酒屋とは雲泥の違いだった。
深夜だというのに、大学受験を控えた長男が挨拶にきたのには驚かされたが、その躾の良さとなごやかな雰囲気は即席ではつくることのできない自然なものだった。山田も北村も一息ついたところで横になることにした。
山田の妻は北村を二階の寝室に案内した。そこには六畳間にサイドボードだけを置いた客間が用意されていた。サイドボードの上には経営の神様といわれた自社の会長の顔写真が大きな化粧額に入れて飾られていた。北村は意外なモノを見たような気がした。北村は『忠誠心がまるでない』などと山田に向かって吐き捨てた自分の言葉を後悔していた。もう一枚は山田と妻それに子供たちが並んだ古い家族写真である。北村の部屋には家族の写真など一枚もなかった。
(俺の生き方はこれでよかったのか)
自問自答を繰り返しながら北村は床についた。
寝つかれず明け方にトイレに立った北村は、玄関先で黙々と北村の靴を磨いている山田の妻を目撃し、見てはいけない物を見たような気分になって暗く沈んだ。山田をささえる美しい妻の献身とお見本のような明るい家庭が、北村にはなぜかつらく哀しかった。
出張がえりで他人の家に泊まるなどというのは、健全な家庭をもっている人間には到底考えられない行動だった。北村はその事が気にかかり、結局、一眠りもできなかった。