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初恋

 あの精悍で爽やかだった侍は、今はずいぶん疲れた雰囲気を漂わせている。


 ──予告無く蓮津に捨てられたんだ。無理もねぇ‥‥‥


 しかも、姫の身分を振りかざされて一方的に。



「キザシ殿は、今日は妹御(いもうとご)と買い物か?」


「違うのじゃ!」


 前方から、ダダダッと駆け戻って来た那津が、索にバシッと扇子の先を向けた。


「妾はキザシの妹ではない! 那津姫じゃ!」



 索は驚いてその場でかしこまり、平伏した。



 香ばしい匂いに誘われ走り出した那津は、振り向けば側にいるはずのキザシがついて来ていないのに苛立った。


 数件先から戻って来た那津は、キザシを引き留めていた名波索に、八つ当たりとも言える厳しさで苦言を呈したのだった。


 那津としては、名波索など知らない(やから)であり、身分を振りかざした訳ではなく、キザシの『妹』と言われた事が腹立たしかっただけだったのだが。


「こ、これは失礼いたしました。那津姫様。私は落花生城にお仕えしていた名波索と申す者にございます」



 索が那津に対して大仰(おおぎょう)な振る舞いを見せたので、キザシは切なくなる。


どうしたわけか、地べたに平伏するように調教された名波索には、同情せざるを得ない。


 

 ──現世の『身分』とやらはどうなってるんだ? なぜ、この名波は蓮津や那津にこうまでへり下る? なんだかめんどくせー世界だよな。


「いやっ、立てよ名波。現世ごっこはもういいだろ。ここは霊界だ。立ってくれよ。野次馬が集まっちまうだろーが」


 実際、既に何事かと 好奇の目が向けられている。


「キザシの言う通りじゃ。死してなお妾にひれ伏さなくて良い。それにしてもなんと、奇遇なり! そなたが妾の城の藩士だったとは。ならば生前はご苦労じゃったな、名波とやら」


「はっ! ありがたき幸せ。‥‥‥しからば失礼」


 索は立ち上がって膝を払ってから一礼した。


「キザシ殿。突然声をかけて申し訳ない。(それがし)は、聞きたいことがあってずっとキザシ殿が来るのを待っていたのだ。某には信書羽を送る金子(きんす)も代わるものも無く、ここにて当てもなく待つしか無かった。さすがにこの太刀と脇差しは差し出せぬし‥‥‥」


「‥‥‥そりゃ済まなかったなぁ。俺、あんたはもう成仏の道へ進んでるとばかり思ってて」


「いえ‥‥‥流石にそれは無理というもの。それにしても‥‥‥キザシ殿は奥方様の那津様が戻られてよろしゅうござった。ならば蓮津の望みもかなったはず。蓮津はどこにいるのかご存知であらさろう。どうか教えて下され」


「‥‥‥それは‥‥‥その‥‥‥えっとね‥‥‥」



 キザシの目線は泳ぎまくり口ごもる。


 暑さとは別の、妙に冷たい汗が浮き出る。



 ──蓮津はとっくに他の男の夫婦の契りを受けただなんて、俺には言えねぇ‥‥‥言えねぇよ! 絶対に。



「まさか! 蓮津に大事が! 魂が消えてしまったのかッ!」



 キザシの肩を揺さぶり色めき立つ名波。


 "霊鳥大鷲キザシ"と、ここでは一目置かれている筈の男は動揺を隠せないでいる。



 ──名波は、前世でも恋敵だかなんかにむざむざ殺されちまったんだっけ? そんな男が腹黒、タラシで、女に泣き落としさえ厭わない手練手管を尽くす七瀬と張り合えるのか? しかも姿形だけは極上と来てる。


 名波が黄金の鯉の七瀬に勝てる訳がねぇ。可哀想だけど‥‥‥



「い、いや! 蓮津に変わりない。いや? 変わったけど。いやいや、俺も知らない内にな。あ~ん、その‥‥‥いいか? 聞け! 名波はもう何も言わずに死人の道へ進んだほうがいい‥‥‥俺が言えるのはそれだけだ!‥‥‥これ、俺の霊力玉、一つくれてやる。相当な値打ち物だぜ? 大鷲様のは極上だからな。名波の路銀に使いな。悪いな。俺たち急ぐんだ。じゃあな~、名波!」



 ──この俺でさえ七瀬にかかって九死に一生を得たくらいだ。こんな人霊じゃ百人いたって瞬殺だ。悪いことは言わねぇ。諦めろ!



「大鷲の霊力玉? あの‥‥‥」


索が手のひらに握らされた黒く輝く霊力玉に戸惑っている内に、キザシはさっさと退散だ。


「おお、そうだ、那津! この匂いは、幸運みたらし団子ってんだ! あっちだぜ! 食うと転生運が良くなるって触れ込みさ!」


 キザシは那津の手をいきなりバッと掴み、走り出す。



 チラと振り向き、名波索の姿が人混みに紛れて見えなくなったのを確認すると立ち止まって那津の手を放す。



「‥‥‥‥なぁ、キザシ」


 那津がキザシの着ている大猿の革をなめして出来た服を引っ張る。


「ん?」


「‥‥‥今の名波とやらは‥‥‥妾のことをキザシの奥方様の那津様が戻られたと申しておったぞ。これはどういうことじゃ?」


 那津が無表情でキザシに言った。



「ああ‥‥‥それは‥‥」


 キザシは困ったように笑った。


「何を笑っておるのじゃ! 妾はお前の奥方様じゃったのだな? 妾はそれを忘れているのか?」


「‥‥‥えーと、それは‥‥‥那津は自分で思い出したいって言ってただろ?」



 おかしな具合で過去が那津に知れてしまった。


 キザシとしては、今度は二人恋に落ちてからやり直したいと思っていたのに。



「それはそうじゃが‥‥‥そんな大事なことを隠すことは無かろう!」


「‥‥‥那津は俺のことを覚えていないのに、いきなり俺が那津の連れ合いだって言って、それって絶対受け入れられねーだろ? 那津にとっては見も知らぬ男なのに。それに‥‥‥」


「それに?」


「‥‥‥それに、訳あって俺は那津へ贈った結婚印の羽根の首飾りをずいぶん前に外した。だから今、那津は自由だ。ここの世界では自分で結婚相手を選ぶことが出来る。那津だって自分で選んだ好きな相手と結婚出来るんだ。ここでは那津のいた城の風習とは違うから」


「キザシと妾は結婚していたが離縁した‥‥‥? それで妾は今は自由というのか?」



 ──それは、妾はキザシ以外を選べということなのか‥‥‥?



 那津はこんなに心が締め付けられたことは初めてだった。


 胸が苦しすぎて頭の中がクラクラする。



「では、なぜもう関係の無い妾の世話をこうして焼き、命がけで大蜘蛛から助ける?」



 険しい顔のままの那津の瞳が潤んだ。


 キザシはいまいましそうに言い返す。



「そんなの‥‥そんなの‥‥決まってんだろ! 那津のためなら俺はどんな相手だろうと立ち向かうに決まってんだろッ!!」



 ──俺は今だって、その前からずっとずっと那津が好きだからだ!


 俺は那津をとっくに選んでる。今度は那津が俺を選ぶのを待っている。



 キザシは心の中で叫ぶ。


 本物の(つがい)になるために、言いたいけど言わない。


 一方的に求めるだけでは最早、満足出来はしない。



 いつしか通りすがりが周りに集まって来て、野次馬たちの嗤いと冷やかしのヤジが飛ぶ。


 周りから好奇の目で見られることなど、那津にはどうでもいい。



 ──キザシと妾の仲はいったいどうなっていたのじゃ? 離縁とは、妾のせいで? それとも。


 妾はなぜこんなにも胸が締め付けられるのじゃ? この切ない気持ちはなんなのじゃ? 




 以前の那津とは違う。



 初恋を知り、少し大人になった那津がそこにいる。







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