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地蜘蛛

「うわー! なんと美しき光景じゃ‥‥‥」


 那津が感嘆するのも当然だった。


 今、澄んだ清水を湛えるその泉は水鏡。


 向こう側に並ぶ木々を、その表面に静謐に映している。凛とした神秘的なその光景は那津に続きの言葉を失わせた。



 黙り込んで景色に見入る那津は、キザシを期待させていることなど知る由もない。



「那津、気に入った?」


 何を思っているのか読み取ろうと、景色に見とれる那津の横顔をじっと見つめるキザシ。


 ──この景色、見たことがあるようなって思ってる? ほんのひと欠片でも思い出してくれ‥‥‥



「妾はこんなに美しい景色を見たことはないのじゃ! これぞ人知の及ばぬ神が宿りし光景じゃ」


「‥‥‥そっか。見たことない、か‥‥‥」


 キザシはやるせなく天を仰ぐ。



 ──やはり薬効最の秘薬は効果抜群らしい。


 那津は崖の上の棲みかも、俺にくれた印も、この泉のことも、この俺のことも、微塵も思い出す兆しさえ見えやしない‥‥‥


 いや、俺たちは再び始まったばかり。焦んな‥‥‥


 那津が思い出すことが無いとしても、俺たちがまた始まったのは事実。



「なあ? 妾はいったいいつ頃からここにいたのじゃろう? キザシは知っているのじゃろう? それだけ教えてくだされ」


「そうだな‥‥‥おおよそ1年くらい前だな。那津が霊界(こっち)に来てからのこと、もっと知りたい?」


「思ったより長いのじゃな。‥‥‥もう、それについては話さなくてよい。死んだ理由も含め、忘れてしまった部分はなるべく自分で思い出したいのじゃ。人から聞いたとて、それは本当のことか分からぬではないか」


「‥‥‥俺を信用してねーんだ?」


 なかなか胸にグサリと刺さる言葉だった。


 キザシがむくれた顔で那津を斜めに見下ろす。



 那津はそんなキザシに構うこと無く言い返す。


「気を悪くするではない! キザシが云々(うんぬん)では無い。人には主観と言うものがあろう? 同じものを誰かと同時に見て体験したとて享受したものは違うのじゃ! 人から聞いたとてそれはそのまま受け取れぬ。妾が思い出す前に客観を聞いて仕舞えば、他人の随感が混じり、妾の本来の記憶が濁ってしまうではないか」


「‥‥‥それって、記憶がない一年間のことは自分の力で思い出したいってこと?」


「まあ、そうじゃ。自分で探り出したいのじゃ。もしや黒い歴史を刻んでいたらと思うと蓋を開けるのはちと恐ろしき思いもあるし、思い出さぬ方が良いのかとも思うが、やはり自分が何をしていたのかは気になるでのう」


「ふーん。ま、那津の好きなようにすればいいさ。俺は那津のすることに協力するだけさ」


「ありがとなのじゃ。キザシがいてくれて妾は本当に幸運じゃ。さて、水浴びじゃのう。キザシはここによくくるのかの?」


「ああ、ここは俺のお気に入りの場所さ。誰にも教えたくは無いけど、那津なら特別さ」


「ほお? 妾が特別とはこれいかに?」


 那津が嬉しそうな顔をこちらに向けた。


「うー‥‥あー‥‥俺は、えっと、その‥‥那津を気に入ってるってことさ!」



 キザシはそう言ってから逃げるように泉に飛び込み、大鷲の姿になった。


 翼をワサワサさせて水を撒き散らす。



「わーい! 妾もじゃっ」


 やはり、那津は那津のままだった。


 いきなり着物を脱ぎ捨て、清水に飛び込む。


 キザシには、前回同様の思い出が再現されているように感じる。



 ──俺たち、きっとまた(つがい)になれる。こんな風に共に時を重ねてゆけば。


 今度は強引に俺の印を与える訳にはいかねぇ。


 今は七瀬に捕われている訳じゃない。


 那津と俺の二つの意思で夫婦に戻らなきゃ本物じゃない。





 二人は泉から上がり、心地よく冷えた体を休めることにした。



「あー、すっきりしたぜ! ご機嫌だぜ! な? 那津」


「ほんに清涼じゃ。現世では妾がこのような遊びをするなどありえなかったのじゃ! 昨日は木登りも出来たし、ここはここで良い。お小言も言われぬゆえちいとばかり羽目を外しても平気じゃしのう。だから蓮津も‥‥‥」



 見知らぬ男と蓮津が睦まじくしていたのは気に入らない。


 そのせいで蓮津に庵に置いて貰えなかったらしきことを思い出し、濡れた髪を絞る那津の口が尖る。


 あの蓮津を誘惑したのであろう金色の瞳の男を思うと(しゃく)(さわ)る。



「蓮津がどうかしたのか? なんか蓮津に不満でも? 蓮津は那津のためならコワイくらい何でもしそうだよな‥‥‥誰よりも那津を好いているように見える」


「‥‥‥そうかのう?」


「そうさ。俺は知ってる」


「‥‥‥ふふっ」


「なんだよ? ニヤニヤしやがって。よーし、乾くまでひなたぼっこだ!」



 大好きな蓮津が、自分を好いてくれているのを知れて、すぐさま那津の機嫌は直った。


「妾はもう一度入るのじゃ。小さき魚たちと戯れるのはいと楽しきことよ」


「ここは浅い泉だけど、向こう側の森には近づくなよ」


「何かいるのか?」


「そりゃ、こんな奥にも大昔から住み着いてる種族もいるさ。ここで厄介な奴には会ったことはないけど気を付けるに越したことはない。那津は特にな」


「了解じゃ!」




 那津は泉に戻り、小魚を追ってはしゃいでいる。


 那津の立てる水音を聞きながらキザシは目を瞑り、考えごとに浸る。


 ──大猿を殺った暁のことも、芦原で檻から那津を助けたことも、那津が俺にくれた結婚印のことも全部消えてしまった。那津が金糸に巻かれた俺を助けようとしたことも、俺を救うため那津につけた俺の印を外させたことも全て。俺が薬を飲ませたばかりに‥‥‥


 俺があの時踏みとどまれば今頃俺たちは幸せに‥‥‥




 那津の声と立てる水音が、ふと 止んでいたことにキザシは気づいていなかった。



「‥‥‥何じゃろう? あれは‥‥‥」


 那津は向こう側の森の奥をじっと見つめている。



 頭を背に回して(くつろ)ぎながら羽が乾くのを待っていたキザシはうっすら目を開いた。


 森を切り裂くような、ガサゴソパキパキという向こう岸からの音に気がついた。


 


「うあ!? キ、キザシー! あ、あれはなんじゃッ!」


 那津の声が響き、キザシは咄嗟に顔を上げた。


 泉の向こう側の森の奥に巨大な何かが(うごめ)いているのが見える。



「那津! 戻れッ!!」



 那津はそら恐ろしい気配を感じ、焦って足を水に取られ、うまく進めない。


 那津が振り返ると、巨大な生き物が木々を倒しながらこちらに向かって来るのが、手前の木々を透かしてはっきり見えた。



 キザシは目を疑った。


「あれは‥‥地蜘蛛かっ?! なんであんなにデカイ?」


 キザシは那津を掴むため飛び上がろうとしたが、翼がまだ濡れていて思い通りに動けない。



「急げ! 那津!!」



 泉に迫る森の向こう岸、その畔に小山ほどもある一匹の大蜘蛛が出現した! キザシの大鷲の姿よりも一回りデカい。


 毛の生えた大きな8本の脚。黒地に浮かぶまっ赤と紫のまだら模様が毒々しい。


 キザシが水に飛び込み那津の名を叫んだ刹那、大蜘蛛は高く反って持ちあげた尻から白き糸を那津に向かってバッと吐き出した。


 泉の中ほどにいた那津は一瞬にして、まるで胴体をサラシに巻かれた(てい)となった。


 蜘蛛と繋がった糸は、糸というより粘着の液体のようだ。



「那津─────!!!」



 キザシはまだ翼が濡れていて重く、本来の動きが出来ない。すぐに落ちてしまうような低空飛行がやっとだ。


 しからば、那津と大蜘蛛の間に必死で走り込んだ。


 鋭い(かぎ)爪で糸を切り離す。


 切れたはいいが、次はキザシの脚に粘着が絡む。均整を崩し、翼をばたつかせ、水しぶきが辺り一面に白く飛び散る。



「キザシーッ!」


 那津は素肌のまま粘着の糸に両腕を胴に拘束されたままだったが、倒れた水の中から何とか立ち上がった。



「こっちはいい、那津は逃げろッ!」



 キザシが那津を振り返った刹那、大蜘蛛は凄まじき勢いで束となった糸をキザシ目掛けて飛ばし、翼ごと胴体を拘束して捕らえた。




「キザシ────!!!」



 那津の叫びが(くう)を切り裂いた。





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