俺たちの家
「さあて、暗くなる前に帰るぞ!」
「そうじゃな、でも、ここから城はどこにも見えぬのう。暗くなる前には着くまい」
木の上から見渡す周囲には、切り立った岩肌の山と、川と森しかない。
建物といったら、近くにちらほら見える湯治客の宿泊用の山小屋くらいしかない。
「帰るのは俺たちの家だ。ほら、ここから降りるぞ」
「へっ? うわーッ!!」
キザシは、返事を待つこともせず、さっと那津を両腕で抱えると、そのまま飛び降りた。
下の枝に片足を着きバネにして、そこから舞い降りるようにふわっと両足で地面に降りた。
「‥‥‥‥‥!」
キザシの腕の中で、那津が目を丸くしている。
「どうした? どこも打ってないよな?」
キザシにとっては通常のことだったが、那津にとっては違う。
驚いて丸くなった目が、今度はキラキラ好奇の念に変わった。
元来お転婆な那津にとって、高い所から飛び降りたという危険に生じる恐怖感は、ハラハラドキドキの愉快に転化した。
「キザシはすごいのじゃ! まるで忍びの者のようではないか!」
「シノビ? なんだよそれ? ま、どーせ俺に似てんなら格好いいやつなんだろ? はっはー」
「もちろんじゃ! 格好いいのじゃ」
想定外の那津の無邪気な褒めあげ返答に、キザシの動きはギクシャクになる。
「あっと、えっと‥‥‥あっちは崖っぷちになってっから、そっから飛んでこう」
抱えた那津を下草の上に下ろすと、あっちとこっちに転がった草履を拾って那津の前に置いた。
「ありがとうなのじゃ、キザシよ。それにしても、妾の従者がキザシ一人だけとはのう。キザシは有能な術使いだから一人で良しとされたのかのう? たしかにキザシなら、一人で10人前じゃな!」
従者だと思われているのにはさすがにへこむ。
だからと言ってキザシが急に夫を名乗ったとて、『はいそうですか』と那津が受け入れる筈もない。
「こっちだ、那津」
二人はそのまま薬樹園の奥に歩き出した。
「もうじき暗くなりそうじゃ。今からどこに向かう気じゃ?」
「俺んちな!」
──否。俺たちの、だ。
「ほお、キザシの家はこの辺りにあるのじゃな。それにしても‥‥‥我が領内にこのような地はあったかのう? 聞いたことがないが」
キザシはこの事についてはいちいち那津の思い込みに合わせる必要は感じなかった。
「さっき、言っただろ? ここは霊界だって。那津の城はどこにもねーよ。最初から誰も『あの世ごっこ』なんてしてねーんだ。那津だって、ここはおかしいって少しずつ思って来てんだろ?」
「城が無いとは、奇矯なことを。それに妾はついさっきまで城にいてお恵も菊乃も妾の側にいたのじゃ‥‥‥」
そう言いながらも、那津は今現在の状況との矛盾に疑念がわき起こって来た。
「その "さっき" に城なんて無かっただろ。お恵と菊乃もいなかった。俺らがいたのはただの庵。那津は城にいたはずなのに、なぜそこからまた城を目指そうとする?」
「‥‥‥‥たしかに奇妙じゃ。‥‥‥何もかもがおかしいではないか。それは大きな矛盾じゃ。なぜ妾はそんな風に思っていたのじゃろう?」
那津の歩みがそぞろになり、次第に止まった。
「妾は城にいたはずだった。気づけば知っている者は蓮津一人。その蓮津も嫁に行く直前なのに、あの金色の瞳の優男と睦まじくしておったのも解せなんだ。そんなことはあの厳しきお蘭の方様が許すはずも無きというのに‥‥‥」
那津は両手で左右のこめかみを押さえ、空の一点を見つめながら考え込む。
「もう、認めろよ。那津も蓮津も死んで、人間が言うところの『あの世』ってとこに来たんだ。これは『ごっこ』じゃない」
「‥‥‥‥妾は死んだ覚えなどないのじゃ」
「じゃあ、現世にて、人を乗せて空飛ぶ鳥の話を一度でも聞いたことあんのか? 金色の瞳を持つ人間がいたのか? あの男は霊魚、黄金の鯉の化身だぞ。そんでこの俺は霊鳥大鷲の化身。ここは霊界だ」
「‥‥‥すまぬ。なんだか、頭がすっきりしなくてのう」
それきり那津は黙り込んでしまった。
──早急過ぎたかな? 俺。
俺は焦っている。俺の那津を取り戻したくて。
「とにかく今夜は俺んちでゆっくり休め。で、ゆっくり考えればいい」
「‥‥‥‥‥」
「那津は俺の家、見たらビックリするぜ!」
************
「なんとまあ、なんて天空に近いことよ!」
那津は満天の星空を見上げていた。
切り立った崖の中腹にあるキザシの巣の中で、那津は仰向けに寝転んでいた。
隣には、キザシが座っている。
那津はこの崖に作られた大きな巣には大層驚いていた。
キザシは、那津が落ちないように結界を張り直し、那津は見えないながらも触って確認した。
見えない結界の存在は、ここが現世とは違うということを那津に強く印象付けた。
「‥‥‥妾は今は何も考えずにここにて寝てしまってもいいかのう? キザシ」
「いいに決まってんだろ。俺たちは‥‥‥」
「ん?」
「‥‥‥何でもない」
キザシは、片膝を立てた左足に視線を向けた。
足首に三重に巻き付けられている 那津の髪で編まれし印を、指でなぞる。
「どうやら、妾が死んだというのは、本当かも知れぬの‥‥‥」
那津が誰に言うでもなく、ぽそっと呟いた。
空を見つめる那津の瞳の焦点は、ぼやけている。
「‥‥‥那津、お前は何で死んだかも覚えてないのか?」
このキザシの言葉を聞いて、那津はこのキザシという若い男が、那津の頭の中で、さわさわするもどかしい部分のことを何もかも知っているのだと悟った。
たぶんこの男の言っていることが本当のことなんだろう‥‥‥と、思う。
諦めさせられたというか、観念させられたというか、那津に抗う意味を無くさせた一言だった。
「‥‥‥妾が死んでいたなんて知らなんだ。わからん。どうして死んでしもうたのか。妾はこれからどうなるのか、も。‥‥‥成仏の道に行くのかのう?」
「‥‥那津は訳があって今は成仏出来ない。焦んな。那津の事情は時と共に自然と知れて来る。那津はここにいればいい。他に行く所なんて無いだろ」
「‥‥‥蓮津! 蓮津はどうなっているのじゃ? なぜ、蓮津まで死んでしまったのじゃ? なあ、蓮津は先ほどの庵に住んでいるのかの?」
「詳しくは知らねーけど、蓮津は病気で臥せってたらしい。棲みかは、たぶんそうなるかもな。でもあそこは結界があるから入れないぜ。蓮津に用がある時は俺が信書羽飛ばしてやるよ。手紙送るみたいなもんで、喋った言葉がそのまま直接本人に届くから」
「‥‥そうか。面妖じゃ。やはりここはあの世なのじゃな‥‥‥なにやら妾は本当に何か色々忘れてしまったようだのう‥‥‥。死んだ時の事さえ全くわからん」
那津は目を閉じた。
キザシも自分の腕を枕に那津の横に寝転んだ。
「なあ、那津」
「なんじゃ? キザシ」
那津が横向きになってキザシを見る。
「これ、何かわかる?」
キザシは仰向けのまま、日に焼けた細く長く鍛えられた左足を上げた。
「キザシの左足ではないか。キザシは脚が自慢なのかの?」
「ちげーよ! 足首にぐるぐる巻いてあるやつ」
那津の目の前がまで足を掲げて見せる。
「‥‥‥これは多分、編んだ人の髪じゃ。髪とは、これいかに。う~ん、なにやら怨念めいたものを感じるのう。うっ‥‥‥キザシよ、お前はこの髪のやつになにかの呪いで縛りつけられているのではないかの? これは取れんのか? 勝手に外せば禍が起こるのじゃろうか‥‥‥。妾は呪術のことは詳しくはないのじゃ。どうしたものか‥‥‥」
那津はキザシを気遣い同情を寄せ、眉を曇らせた。
「あっはははっ! 全く。那津はおもしれーな!」
那津は全く覚えていなかったが、その返答は妙に的を得ていたのでキザシは嬉しくなってしまった。
ほんの微かにでも何か感じてくれるかも、と期待を込めて見せ、見事に裏切られたのだが。
「‥‥‥まあ、そうかもな。当たってる。呪いで縛りつけられてるんだ。でも、俺は好きでそうなったのさ」
「ふーん? よくわからんがキザシがいいならそれでいいんじゃろう。好きで呪われておるとは。一体なんの呪いなのか。まあよい。妾は寝る」
那津は横向きからコロンと仰向けに戻り、すぐにすうすうと寝息をたてた。
キザシは、しばらくの間 那津の寝顔をやるせなく見ていた。
やがて両腕を翼に変え、優しく那津を包みこみ そのまま眠りに落ちた。




