再出発
「さーて、出発だ! 那津」
キザシの顔は笑っていたが、元気良く言ったはずの声はかすれていた。
「籠はどこじゃ? 我らの他には誰もいぬではないか。もしかして、この川を渡るのかの? だが、舟も船頭も見当たらぬではないか」
辺りは所々に草木が生えた殺風景な広き川原だ。悠々と流れる川の向こう岸は遠い。
「籠? 舟? そんな人間の乗り物はいらねーよ! 俺が運んでやっから」
キザシがニカッと笑う。
自分のことを覚えていないにしても、今こうして那津と話せるだけで嬉しい。
「なぬっ! 妾をおんぶして運ぶ気だったのか! 妾は姫ぞ! むぅ~、キザシは新しく城に上がったばかりゆえ常道が分かっておらんのじゃな?」
「‥‥‥はんっ、わかってねーのはどっちだよ? 行っくぜーっ、せーのっ!」
那津の目の前に、見たこともないような大きな猛禽が現れた!
「ふぁ?‥‥‥‥わわわわっ!」
いきなり現れた常識はずれな特大の大鷲の姿に驚き、那津はしりもちをついた。
「なんなんじゃ! この大きな鳥は!!」
「さあ、行くぜッ、那津!」
「‥‥‥鳥が人の言葉を喋ったのじゃ‥‥‥この鳥は‥‥‥まこと、キザシなのか?」
「そうさ、俺は大鷲のキザシ」
キザシは有無も言わせず那津をくわえて持ち上げた。
「うぎゃーッ! 何をするのじゃ! わ、妾には毒があるでのう、食べられぬぞ!」
──ふふっ、言ってること、あん時と同じ‥‥‥
暴れる那津を背中の羽に埋め込んだ。
「那津、ちゃんとつかまってろよ! いざ、出発!」
バサバサバサッ
翼のはためきの音を石の原に響かせて、キザシは大空に飛び立った。
上空まで急上昇だ!
あっという間に結界を越え、山の奥の薬効最仙人の湯治郷を目指す。
「わわわわっ‥‥‥キザシよ。妾に何をするのじゃ! これはっ、まさか空を飛んでおるのかっ!」
「当たり前だろ! 俺は大鷲なんだから」
風に乗り滑空状態になった。
安定を感じて、羽に埋もれていた那津が顔をひょこんと出した。
「うっ、凄い風じゃー!」
「おいっ、那津。あんま出んな、落ちるぞ!」
「これはなんと! 眩しき素晴らしき眺めじゃ!」
那津は辺りをぐるり見回してから、すぐに羽に潜った。
「潜ればふわふわもふもふ ほんのり温かい。なんと気持ちの良き素晴らしき場所じゃ! キザシ、そなたは何者じゃ? 人が鳥になれる摩訶不思議な術を使うものが本当におるとは‥‥‥」
──ふふっ。俺の羽根を気に入る。これも初めて出会った時と同じ。やっぱ那津だ‥‥‥
「ちげーよ! 人が鳥になってんじゃないぜ? 鳥が人に化けてたのさ。それに俺の羽がふわふわなんてこと、もうとっくに知ってんだろ! 何回も俺に乗ってるくせに」
「いや、妾は初めてじゃ。キザシは他の姫と勘違いしているのであろう」
「‥‥‥‥」
現状が、キザシの胸をきゅっと締め付けた。
「キザシよ、こここから城は遠いのかのう?」
「今から行くのは薬屋だ」
「そうか、城に戻る前に途中で使いがあるのじゃな」
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薬効最の店に入るには小鳥を除き、人の姿でなければならないという掟がある。
キザシは以前、薬効最の薬草薬樹園に大鷲の姿のまま落下して、一部を台無しにしてしまったことがある。
翼の風で被害を与えては、また薬効最に怒られてしまう。
キザシは、店より奥にある湯治郷側に降り立ち、人の姿に変化した。
「おおっ、ここは岩場の地面から湯気がもくもくと出ておる! 山奥にこのような所があるとは! 世の中、広いのう。まことに興味深いのじゃ!」
那津は好奇心いっぱいで、目を輝かせあちこち湯気が立つ場所を覗いて回っている。
「はしゃいでると火傷するぞ。薬効最の店まで歩いて降りる。おんぶすっか?」
「キザシよ。妾はお子様ではないのじゃ! もう、いつでも嫁に行ける年頃の姫じゃ! 家臣とはいえ、男におんぶに抱っこされるなど、もっての外じゃ!‥‥‥と言いたい所じゃが、今はうるさいお恵も菊乃もいぬことだし、頼もうかの。てへへっ」
那津を背負うキザシ。
道らしき道にはなっていない、岩多き険しき道をさっさか進む。
「キザシはすごいのう! 本当の姿が鳥の方なのか。いったい、どんな術を使って人になっておるのじゃ?」
「さあな、どうしてそうなるかなんて俺にだって分かんねぇよ。‥‥‥水が雲になったり雨や雪になったりするようなもんじゃねーのか? 俺にとっては、これが当たり前のことだから不思議でも何でもねーよ」
坂道が終わり、平らな開けた場所に出た。
少し先には小さな家が建っている。薬効最の薬屋だ。
「着いたぜ! あれが目的地だ」
キザシが那津を下ろした途端、那津は駆け出しながら振り向いた。
「キザシは使いをしてくればよい。妾は辺りを散策して来るのじゃ! わーいっ!」
止める間も無く薬草園の方に駆け出して行く。
「いいけど、あんまうろちょろすんなよ! 捕まったら霊獣のえさになっちまうぜ」
「霊獣?」
その場で止まって駆け足したまま、首だけ振り向いた。
「そう、ここには那津が見たことも無ぇ、狂暴で言葉も通じねぇ生き物があちこちにいるんだ。霊界なんだから」
「ふーん? キザシはいまだ蓮津との、『あの世ごっこ』とやらの続きをしてるのか? 妾より年上の者らのくせに子どもだのう。ふっふ‥‥‥わかったのじゃ。妾も付き合えばいいのじゃろう? 妾は大丈夫じゃ! 霊獣に出会ったとて妾の足は鶏より速いのじゃ!」
現世では霊力で起こる出来事は、摩訶不思議現象として、ある時は敬われ、ある時は霊障として畏れられていると聞く。
人が言う所の摩訶不思議をキザシが次々起こすのを間近にし、実際に魑魅魍魎たちに出会う時が来れば、那津が近々ここが霊界だと気づくのは必至だ。
そして、自分が死んだことに気づいていない霊も一定数はいるというのは常識だった。
その者らは成仏の道に進まぬと、魂が消滅を迎えるわけだが、それまでには何百年と間があるのですぐに問題があるわけではない。那津の魂にはキザシが霊力を与えてあげられるから全く問題は無く、その事については今は焦る必要はなかった。
問題は、那津がキザシのことを忘れてしまったこと一点だ。
──霊界探索も那津の為になるかもな。この辺は薬効最に手入れされてる地帯だからそれほど危険じゃないし。
「‥‥‥しゃーない。じゃ、指笛3回が合図で戻って来いよ! この音な」
キザシがピーっと玲瓏な指笛の音を聞かせた。
「おう、わかったのじゃー!」
それにこれからキザシが薬効最に相談する話は、那津には聞かれたくないから丁度良かった。
那津が走り出す後ろ姿を見てからきびすを返した。
キザシは店の戸口を開けるなり怒鳴り込んだ。
「おい! 薬効最! どうなっちまってんだよッ!」
仕切りを兼ねた細長い売台の内側で、薬棚の薬の在庫確認中であった薬効最が、驚いて振り向いた。
「なんじゃ、キザシ。先刻来たばかりじゃないか。忘れ物か?」
「ちげーよ! どうしてくれんだよ! 七瀬に頼まれたからっておかしな薬作りやがって! あの薬のせいで那津が死後の全部の記憶を無くしちまったんだぜ! やいっ、今すぐ元に戻しやがれ!」
「まあまあ、落ち着けキザシ。何が起こったんじゃ?」
昼過ぎのこと、信書羽の伝言通り、本当にキザシが七瀬の薬を取りに来たのにも驚いていた。彼らがお互いに知り合いだったとは薬効最の知る所では無かった。
まして薬効最は昨年、どの黄金の鯉に殺られたのかは知らぬが、金糸にかけられて瀕死の重症を負ったキザシを助けている。
その黄金の鯉族の中でも中枢近きに位置する七瀬と親しげに繋がっているのは解せないことだった。
水と陸、各頂点の霊力を自負する種族。
彼らと、禁じ手とも言える『忘却の秘薬』が絡んでいるとなれば、薬効最は相当巧く立ち回らねば、さらに厄介なことになるに違いがないのだった。




