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忘却の秘薬

 ──これで良いのかもしれぬ。


 七瀬は、今はそのままの蓮津を受けとめることにした。多少の懸念はあったものの。



 ──わたくしのここに来た当初の目的は果たせておりますわね。

 思いがけぬことも起こりましたが。


 ここまでくれば那津様も、無事キザシ様の元へ帰れることでしょう。


 そして、とりあえずは忘却の薬も飲まずに済みそうですわ。


 わたくしはここで、実利を認めた婚姻を突然致しましたが、思いがけず本当の恋となりました。


 幸せさえ感じています。最悪すら覚悟してこの鯉の里に参ったというのに。



 でも‥‥どこか不安がつきまといますわ。


 ‥‥‥わたくし、大切な何かを忘れているような‥‥‥?



 蓮津は、くちびるを奪う七瀬の胸を押しやった。


「ん‥‥七瀬様、そろそろ戻りませんと‥‥‥」


「‥‥‥まだだ、蓮津」


 蓮津を放そうとしない七瀬。


 抱きしめられたまま、蓮津は憂いた瞳で七瀬を見つめる。


「七瀬様‥‥‥那津様を目覚めさせて頂くのが先ですわ。印を外したとて、那津様のことが解決されなければ、わたくしは七瀬様の本当の妻とは言えませんもの‥‥‥」


 蓮津の、うつむき加減のそのまぶたに憂いが漂う。


「お願いです‥‥‥早くわたくしを名実伴う妻にしてくださいませ」


 頼りなげな面持ちで七瀬を見上げた。


「‥‥‥承知した」


 蓮津をぎゅっと一度強く抱きしめてから解放し、先ほどまでの甘美な余韻さえ残さず、さっさと庵の表口へ向かった。


 七瀬の背中を見ながら蓮津がしずしずと歩く。



 ──七瀬様? 今後は陰ながら、主導権はわたくしが頂きますわ‥‥‥


 

 蓮津の口元には、かすかに薄ら嗤いが浮かんでいた。




 ************* 




 七瀬と蓮津が庵の中に戻ると、キザシは落ち着きを取り戻していた。


 七瀬を見ると、上がりかまちからすぐさま立ち上がった。



「なあ、七瀬。答えろ」


 キザシはいきなり七瀬の目の前に立ちふさがりガンを付けた。


「なんで那津は不老の体を得た? なんで体が生きてんのに死者の魂になっちまったんだ? 言え!」



 蓮津はハッとした。目の前のことに必死ですっかり失念していた。


 那津には不老の肉体が残っていた。それもキザシの元に戻さねば完全では無かった。



「お前の預かり知らぬ所だ」


 七瀬が空嘯(そらうそぶ)く。


「なんだとっ?」


「おまえが今さら知ったところで何もかわるまい。不老が気に入らないなら私が持っている那津の体を殺し、那津を成仏させてもいい。そしたら今度こそ永遠の別れだな」


「させっか! あんたにとってそこまで不要なものなら那津の体も今すぐ返せよ。そして早く那津を起こせ!」



 二人は、水と油の如く、全く混じり合うことは無い。




 あまりに敵対心をむき出しにしている二人を見て、蓮津は今後を憂いた。


 蓮津の夫の七瀬と那津の夫のキザシがこのままでは、蓮津が愛おしんでいる那津に会うことさえ難しくなってしまう。



──そうですわ! このような時こそあれを使えば一石二鳥ですわ。


 蓮津に、今後の懸念を二つ同時に消せるよい考えが浮かんだ。



 蓮津がおずおずと二人を見上げる。


「あの‥‥わたくし、思うのですが、この忘却の薬で、那津様に七瀬様のことを忘れて頂いたらどうでしょう?」


「忘れるって‥‥‥? 何? さっき俺が運んだ薬は‥‥‥まさか!」


 キザシは七瀬に掴みかからんばかりだ。


「七瀬ッ! 何企んでやかった!」


「抑えて下さいませ! キザシ様」


 蓮津が七瀬の前に立ちふさがった。



「蓮津‥‥‥どけよ!」


 蓮津が両腕を広げ、毅然と背中に七瀬を庇う。



「ふっ‥‥‥」


 蓮津の後ろにいる七瀬が、イキっているキザシをバカにしたようにニヤリと嗤った。


 蓮津がキザシからこちら側についたことが小気味良い。



「キザシ様。どうか、落ち着いてわたくしの話を聞いて下さいませ。那津様が七瀬様を忘れてしまえば、ただの姉の連れ合いに過ぎなくなりますわ。かつての七瀬様への恩義も、結婚印を受けていたことも那津様から消えてなくなるのですわ」


「そうなったらどんなにいいか知れないけど、だからってそんなこと‥‥‥」


 キザシは全く乗り気ではない。



「那津様にもキザシ様にもその方がよいと思いますわ。さすれば七瀬様も那津様と今までとは違う良い関係を作り直せると思いますの。わたくしとしても那津様が七瀬様と結ばれていことを忘れていただいた方が‥‥‥い、いえこれは焼きもちではありませんわ。七瀬様」


 蓮津としては、七瀬の気が変わらぬ内に、なるべく早くに薬は処理しなければならない。


 疑われぬように処分するのは難しい。どうせなら堂々と役に立てる形で消費してしまった方がいい。



「おい、あんたらどうなってんだよ、いったい全体‥‥‥? マジで恋仲なのかよ?」


 キザシの眉根に にわかに縦じわが寄った。


「ええ。わたくしが那津様の犠牲になったと思われていらっしゃるなら、それは間違いですわ」


「‥‥‥‥」


 キザシはたった二日前、宿屋でひれ伏して嗚咽していた侍を思い出し、複雑な心境だ。



 ──蓮津はどこか非情なとこがあるよな。女心ってどうなってんだ? あの侍、あれからどうしたんだろう?





 その頃、ミツケは近くの林の中で近辺の小鳥たちに囲まれていた。



 モズ友が周りの鳥に、ミツケが空高く飛び大鷲の頭に乗り滑空し、大風と共に急降下着地した武勇伝を聞かせている。



「ぴーちくちくちくちく! もずもずもずぴーぴやぴやぴやっ!」

(とにかく、まだ年若いのに、たいしたメジロなんだぜ! ミツケさんはよお!)



「ぴっ? ぴよ~、ぴや~ん」(えっ? そうかな~、照れるなぁ~)


「ぴっ、ぴーちくもずもずもず。ぎっぎっぎ! ぴーちくぴーちくがっが!」

(ほら、挨拶したいヤツは並べよ。順番だ! 守らねぇヤツは速贄(はやにえ)の刑にすっからな!)


 モズ友が小鳥たちを仕切る。


 四十雀(しじゅうから)がミツケの横にとまった。


「つぴーつぴー! つぴつぴぴっ!」(ミツケさん、素敵~! 握手して!)




 ミツケはしばらく庵には戻れそうも無い。





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