黄金の鯉、現る
那津は、まれにみる利発で活発な子供であった。
乾物が水を吸い込むがごとく、教えた知識はすぐに吸収し、思い立ったことはすぐに行動に移した。
愛らしい外見とは裏腹に口も達者で、まだ13になったばかりにもかかわらず、時には大人をも出し抜くこともあった。
那津は手習いの途中で筆を置いて、お恵の方に、先ほど鯉の池にて蓮津の言いかけた言葉について尋ねた。
「なあ、お恵よ、『黄金の鯉の鱗』とは何か知っておるかの?」
「はい、聞いたことがございます。清らかな水のあるところに稀に突然現れるという黄金の鯉にまつわる昔話のことでございましょう」
「どんな話じゃ?」
お恵はこの土地に伝わる言い伝えを那津に聞かせた。
「‥‥‥このような昔から伝わる話は、戒めを示唆しているものなのです。昔の人の教えでございます。人々の畏敬を集める者や生き物に刃を向けるなどとは愚か者のすることでございますれば」
「‥‥‥ふむ、ただの戒 めの話とな。ではお恵は、その伝承は公 に口に出来ぬ世の批判や、当時の公序良俗をたとえ話にして語り継がれて来た伝承の昔語と同類だと申すのか?」
「いかにも。それに珍しき白い蛇や狐などは神の使いとして崇められております。清水に稀に姿を表す黄金の鯉もしかり。人は神秘に期待し心惹かれるものでございましょう。それもあいまってあのような黄金の鯉の鱗伝説が出来たのではないでしょうか」
「黄金の鯉は、この城の井戸にも昔現れたことがあるそうだの?」
「はい、左様でございますが‥‥‥もし現れたとしても眺める以外のことはしてはなりませぬ。もし、手出しをすればこの世を作りし神の怒りを買い、本当に禍がおこるやもしれませぬ。世の中にはいまだ嘘とも真とも言い切れない不思議もありますれば。ですが姫、まさか魚の鱗で願いなど叶いますまい」
「‥‥‥‥‥だがのう」
「おほほ‥‥‥まさか那津様が黄金の鯉の鱗の神秘を信じているとは、姫様にも子どもらしきところも残っているのですね」
お恵は、ふくよかな手の甲で上品に口許を隠しながら、楽しげに那津の目を覗き込んだ。
「何を申す! 妾はもう13! 我とて蓮津のように嫁にゆける年であろうに」
子ども扱いに那津はぷうっと頬を膨らませた。
「‥‥‥触らぬ神に祟りなしというではありませんか。利発な姫様ならわかりましょう」
「‥‥‥妾がそのようなことを信じているわけが無いであろう」
那津のはプイッと横を向いて拗 ねて見せた。
利発だが、こんな仕草や、毎度仕出かすいたずらは やはり普通の子どもと変わらぬ那津に、お恵は目を細めた。
那津はそっぽを向きながら、口の中でひとり呟く。
──しかしな、わずかでも もしやと信じている者にとっては鱗を持つことが心の支えともなるであろうぞ? 御守りとしてな。
「さあ、手習いをつづけましょう。那津様」
「はぁ~‥‥‥妾にはいかんせん美しい文字を綴る才は無いのじゃ。それは蓮津のお得意じゃ」
「まあ、慶事なれど、那津様にとっては惜しいこともありまするな。蓮津様は、じきにめでたく輿入れなさりますからね。わたくしが那津様に課した書写の代筆などはもう頼めませぬな?」
「‥‥‥ばれておったのかっ!」
「当たり前です!」
それからわずか六日後のことであった。
「三の井戸に黄金の鯉が現れたそうよ! 20年ぶりなんだって」
「えー! じゃ、三の井戸は使えないね。あたしたち四の井戸までわざわざ水汲みに行かなきゃいけないじゃないの! 黄金の鯉が現れると 禍 が起こるって言い伝えはこのことなのっ~?」
「あはは、手間だよね~。でもお美代ばあさんが1、2日、せいぜい長くても3日でいなくなるって言ってた。少しの辛抱だよ」
たすき掛けの女たちのお喋りはあっという間に城内に拡がった。
それはもちろん那津姫のところにも。
「のう、妾は黄金の鯉とやらを見に行くぞ。よいかの?」
噂を聞きつけた那津は、すぐさまそばにいた腰元の菊乃に尋ねた。
「那津姫様は初めてご覧になるのですね。実はわたくしもなのです。手筈を整えますゆえしばしお待ちを」
「楽しみじゃのう。妾はそれまで一人で休む。皆下がってよい」
「はい、すぐに準備いたしますゆえ、お待ちくださいませ」
那津の部屋の障子戸がパタンと閉じられた。
菊乃は部屋を出るやいなや、歩きながらもきびきびと下に指示を飛ばした。
その声を障子戸の向こうに聞きつつ、那津はニヤリと一人嗤う。
皆の足音が遠ざかるのを確認すると、那津は密かに懐に何かを忍ばせた。
「さて、こんものでよいかの? あいつらの顔は何を思っているのか妾にはさっぱりわからぬのが難点じゃ‥‥‥」
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「のう? なぜ、こんなにぞろぞろ妾について来るのじゃ。妾は一人でも行けるというに鬱陶しいのう」
黄金の鯉の見物には、那津にお付きの菊乃の他に、5人従って周囲を固めていた。
「お恵の方様の差配でございます。姫様に危険など有りませぬようにとのご配慮でございます」
ぞろぞろと三の井戸に向かって歩きながら菊乃が答えた。
「ふん、さすがお恵。勘のいいやつめ‥‥‥」
「どうかなさいましたか? 姫様」
「‥‥‥別に」
一行は炊事場の勝手口の裏手にある三の井戸まで来た。
「姫様、お待ちしておりました。今、丁度 鯉が上の方に上がっておりますれば、良くご覧になれます。誠に暗き井戸を照らす見事な鯉でございます」
家臣が井戸の横で屈んで控えている。
「そうか、そなたご苦労であった。少し井戸から下がっておれ。ああ、ここに足場の台を用意してあるのか。気が利くのう。これで妾ものぼ、いや、見やすいのう」
「では、橋本殿に剣呑 無きことを確認してもらってから那津様にご覧頂きましょう。これ、橋本殿」
「はっ!」
橋本と呼ばれた若侍が用意された台を確認し、井戸の奥底を覗いた。
「おおっ! 井戸の中がほんに照らされる明るさだ。これは見事‥‥‥」
頬を紅潮させた橋本が一同に向かって頷いた。
「よろしいのですね。それでは姫様にご覧いただきましょう」
遂に那津が井戸を覗く番になった。
いそいそと踏み台に乗り井戸を覗き込んだ。
「おお、井戸の中に灯りがあるようではないか。見事じゃ。おーい、鯉よ聞こえるかの? 我はこの城の姫、那津じゃ。‥‥‥ううむ‥‥‥あちらからの返答は無いようじゃ」
那津は笑顔で供の者らを振り返って言った。
一同は、鯉を見て喜ぶ那津の無邪気な姿をにこやかに見ていた。
その時、那津の笑顔が強ばった。那津の視線は皆の後ろにあった。
那津は皆の背後を指差し、叫んだ。
「そこの木の陰に曲者じゃ! 捕らえよっ!」
供の者らは一斉に後ろを向いた。
刹那、那津は打ち掛けを脱ぎ捨て着物の裾をまくり上げ井戸の縁に上がった。
「きゃーっ!! 姫様っ! 何をなさっているのです!!」
気がついた菊乃が悲鳴をあげた。
「大丈夫じゃ。来るでない! ちいと待っておれ」
一同、井戸の縁に立つ那津を見て息を呑んだ。
「姫様!」
「そのまま動いてはなりませぬ」
橋本が那津を掴もうと手を伸ばした時、那津の声が響いた。
「触るでない! そこで待て。妾はあの鯉に用があるのじゃ。すぐ戻る」
那津は皆にそう言うと、縄が引かれて上に上がっていた釣瓶 にぴょーんと飛び付いた。
釣瓶は那津と共にあっという間に落ちて消えた。
滑車の外れてしまいそうなほどの大きなガラガラ音。釣瓶に繋がる太い縄が勢いよく落下した。
バシャンっ!
大きな水音が響いた後、衝撃で滑車から縄が外れた。
「姫様!!!」
皆が井戸に飛び付き井戸の中を覗いた。
中は明るく良く見えた。
輝きをどんどん増しながら金色の鯉が暴れている。激しい水しぶきで一面白くなっている。釣瓶につかまって那津が壁際にいた。
那津が何か叫んでいるが荒れる水音と反響でよく聞こえない。
「姫様っ! 今お助けいたしますっ!」
菊乃が自分の帯をかなぐり取り着物を脱ぎ捨てた。
その時、井戸を覗いていた者らが叫んだ。
「やめろーーー!!! 化け物め!!!」
「那津姫様ーーー!! いやーーー!!!」
黄金の鯉の口が驚くほどの大きさに開いたと同時だった。
皆の目前で、那津が黄金の鯉に一飲みにされた。
那津を飲み込んだ黄金の鯉は、そのまま井戸の奥深く潜りそのまま消えた。
あっという間の出来事であった。
───数秒で元の、暗く底の見えない井戸の底に戻った。
とても静かで、何事も無かったの如く。