蓮津の涙
───「『さく』とは誰だ? 私に今ここで偽るのなら、おまえにはここで消えて貰う。那津も解放せぬ」
七瀬の言葉に、蓮津の表情がふっと抜けた。
「それは‥‥‥わたくしのかつての想い人ですわ。なぜ、七瀬様がそのような名を知っているのか分かりませぬが、あなた様は、なぜだか全てをお見通しのご様子ゆえ、今更驚くことでも無いのかも知れませぬ」
「その男はいずこにいる? 現世に?」
「いえ、名波索様は‥‥‥今は死人の道を歩んでいる途中だと思いますわ。共に歩む約束をしておりましたが。わたくしには索と成仏の道へ進むよりも那津様にお会いする方が大事だったのです」
「ほお‥‥‥今も想っているのだな」
「‥‥‥いいえ、わたくしにはそのような資格さえ無いのですわ。酷い言葉を投げつけ嫌われてしまいましたもの」
「‥‥‥‥」
──蓮津は未だその男を慕っている。私に身を任せながら、その男を思い浮かべていた事実。
「忘れろ。その男のことを全て」
「‥‥‥もう、わたくしとは関わりのないお方です。忘れるも何もありませんわ」
「今後関わる関わらないの問題ではない。おまえの心から、その男を消さねばならん。思い出ごと、この世に存在していたことすら全て」
「え?‥‥‥それはまさか‥‥‥」
蓮津の顔には怯えが現れた。
「那津に与えるはずだった『忘却の秘薬』は蓮津のものだ」
蓮津が察した通りの言葉が投げられた。
「‥‥‥そんな。七瀬様は、忘却の秘薬でわたくしから名波様の記憶を消さなくとも、わたくしの心はもう七瀬様を思っておりますわ。ですからどうか‥‥‥。わたくしを信じてくださいませ」
蓮津はそのまま七瀬にひれ伏した。
思い出さえも消されてしまうのは耐え難い。二人出会った索の家の縁側。数匹の錦鯉が泳ぐ小さな池。得意気な男の子の顔。
再開の太鼓橋。密かなる逢い引き。最期には、蓮津の死の願いを聞き入れてくれた索。
「お願いですわ。それはお許し下さいませ」
「‥‥‥‥蓮津、顔を上げよ」
七瀬は美しく涙を流す蓮津の顎をくいっと持ち上げた。
「蓮津、私にお前のその美しい泣き落としは全く効いていない。私は父上や他の男のように簡単ではないのだ」
七瀬はニヤッと冷たく嗤った。
「ともかくお前は私の妻となったのだ。全て私のものとなれ。身も心も。さもないと那津の眠りは覚めない」
七瀬は無慈悲にも言い放った。
「‥‥‥わたくしがこれから七瀬様を愛しお慰めしようと思う気持ちは本当のことですわ。それは信じて下さいますの?」
蓮津は悲しげな表情で七瀬を見上げた。
「信じて欲しくば薬を飲め」
「‥‥‥そんな‥‥‥」
順調に目的に近づいていた蓮津だったが、ここに来て目の前が暗くなった。
「私はキザシの伝言が来るまでしばし休む。ひざを貸せ」
「‥‥‥はい、七瀬様」
七瀬は蓮津の膝まくらで横になり目を瞑る。
蓮津の頬に、本気本物の涙が伝った。
──七瀬様はなぜ、そこまで索のことを気になさるの?
那津様がキザシ様のことを忘れてしまうより、私が索の全てを忘れてしまったほうがまだましです。私はもう索を失っているのですもの。でも‥‥‥
窓からミツケが戻って来た。
「お仕事完了、戻ったぴ~! ぴっ!? 蓮津、泣いてるぴ! どうしたぴ?」
「‥‥‥ミツケさん、伝言ご苦労様。わたくしは‥‥何でもありませんわ」
「何でも無くないぴ! 蓮津は七瀬の膝枕してるのが嫌だっぴ? 蓮津を泣かせるなんて成敗ぴっ!」
ミツケは蓮津の膝の上の七瀬の頭に飛び乗り、耳をつんつんつついた。
「七瀬、起きろぴ! 蓮津が泣いてるぴっ!」
「ミ、ミツケさん、いけませんわ!」
七瀬は何事もされてはいぬが如く、そのまま目を瞑ってじっとしている。
「‥‥‥‥ぴやっ!?」
不意に七瀬の右の人差し指から出た光る糸が、ミツケの体を縛り上げた。
「ぎぴぴぴぴっ! 何するぴっ! こんなに可愛い小鳥のオレにっ」
「きゃーっ! やめて下さいませ! 七瀬様っ!」
起き上がった七瀬は、金糸が3周ほど胴体に巻き付いたミツケを手にしていた。
翼と脚を拘束されたミツケを、蓮津の手のひらに無言で返した。
蓮津は申し訳無さそうにミツケのほほを指で撫で、そっと胸に抱き、七瀬をキッと睨んだ。
「ひどい‥‥‥こんな小さな鳥に何をなさるのですっ! ほどいてくださいませ!」
「‥‥‥こいつが先に仕掛けて来たのだ。この糸は3年ほど経てば消えて無くなるだろう」
どうでもいいことのようにぼそりと言ってから、そっぽを向いて肘を立てて寝転んだ。
「つついたことは謝りますわ。でもミツケさんがつついたとしてもたかが知れてますわ! ひど過ぎです! これでは飛べませんもの」
「蓮津が薬を飲んだら解くと誓う」
「‥‥‥まあ、そのことに関係の無いミツケさんを利用するなんて!」
「‥‥‥‥」
七瀬の反応は無い。
蓮津は冷たい声で七瀬を咎めてからミツケを懐に入れた。
蓮津の着物の襟の合わせから顔だけ覗かせたミツケは案外ご機嫌だった。
《蓮津ぅ~、オレお腹が空いたぴ。ここの横に咲いてるミカンの花の蜜がいいぴ。オレ、立てないから食べさせてぴ》
《はいはい、では一枝頂いて参りますわ》
《はい、どうぞ‥‥‥おいしい? うふふ》
《蓮津ぅ~、おしりの辺がむずむずするぴ。指でカキカキして欲しいぴ》
《この辺でいいの? もっと下?》
《そこそこ。気持ちいいぴ~‥‥‥》
《うふ、うっとり目を閉じたお顔。かわいいこと♡》
《蓮津ぅ~、あのさ‥‥‥オレ、恥ずかしいけどさ、憚りに行きたいぴ》
《えっと、鳥さんはどこで? 外に連れて行けばいいのかしら?》
「ちっ‥‥‥‥」
罰を与えたはずのミツケと蓮津が楽しげで七瀬は面白くない。
一人、肘をついて寝転びながら舌打ちする。
だからと言ってミツケにこれ以上のことをすれば蓮津の心は離れてゆくのは確かだった。
楽しげな二人のことは無視し、思考を先のことに進ませようとしたが、その間もミツケが蓮津に甘え、蓮津が かいがいしく世話をしているのが気になり、思うようには行かなかった。
昼前頃、ミツケがキザシに出した信書羽の返信が七瀬の元に戻って来た。
「羽よ、返信を言え」
『薬は受け取った。だがお前は信用ならない。那津を先に返せ! おまえには他にも聞きたいことが色々あるぜ!』
キザシの声が座敷に響いた。
「鳥! 私の伝言を今すぐキザシに送れ!」
「だーれかさんにぐるぐる巻きにされていて無~理~ぴ~。ね~、蓮津?」
「そうですわ! 七瀬様はこんなに小さなミツケさんに傍若無人です」
「‥‥‥‥その鳥を懐から出せ。糸はほどく」
七瀬は、淡々と答えた。
「ぴっ!? 嫌だ~‥‥‥オレ、まだこのままでいいぴ~」
「まあ、ミツケさんたら。いいわけありませんわ」
抵抗してもぞもぞ奥に潜り込もうとするミツケを、蓮津は手を焼きつつ胸から出した。
「七瀬にもいいとこもあったぴ。縛ってくれてありがとぴっ。あのさ‥‥‥また縛ってもいいぴよ?」
「‥‥‥黙れ」
金糸にかけて感謝されたのは初めてだ。調子が狂う。
七瀬はさっさと糸を消し去り、ミツケにキザシ宛に伝言を送らせた。
──薬を渡さねば那津は渡せん。ふふ、私が怖いのか? 私の気が変わらない内にあの死に損なった場所まで来い。
七瀬が立ち上がった。
「さあ、私だけで行ってもキザシは警戒して姿を現さないだろう。蓮津も私と共に結界まで迎えに行ってくれ」
「‥‥‥はい」
この先に起こることを思い、緊張した面持ちの蓮津が すっと立ち上がった。
ミツケが無邪気に喜んでいる。
「わくわく、キザシのアニキに会えるぴ~。オレ伝言頑張ったし! 褒めてもらうぴ~」




