七瀬、詭弁を弄す
彼者誰時 ↔ 黄昏時
私は暁の彼者誰時に庵を後にした。
上々の成果を得て満足していた。川に戻り体を休めた。
ほんの少しだけ眠るつもりのはずが、目覚めればもう日はだいぶ昇っている。
私は取り急ぎ蓮津の元に向かった。
おや、ふふ‥‥‥先客がいたようだ。
蓮津のいる庵から、戻って来たところだろう。
河原から土手へ登ってすぐのところで、赤い顔をした父上がこちらへ歩いて来るのが見えた。
供の者二人が、困惑した顔で父 成瀬を宥めているのが見て取れた。
どのような状況かは、言わずもがな私には分かってしまう。
昨日、父上が側室を持つ相談を母上にしていたのを、私がこっそり聞いていたなどとは全く気づいてはいないだろう。
なれば、私は父上の意向を知らなかったことで通せばよいだけのこと。
蓮津との釣り合いを考えれば、私に先に奪われたとて、事を荒げて騒ぐ事は出来ぬ筈だ。
私はそのまま進んでゆく。
私は素知らぬ顔でひざまづき、挨拶をする。
「父上、おはようございます。朝からこのような所で会うとは。庵へ向かわれたのですね。昨日の父上の申し付けは確と講じてあるゆえご安心下さい」
ふふ‥‥‥供の者らが私を見て、青ざめている。
案の定、成瀬は私の姿を認めると、すぐさま絡んで来た。
「七瀬、お前! 蓮津に何て事をしてくれた!」
立ち上がった私の正面にて怒鳴り付けられた。
父上が私にこのように感情的に怒りをぶつけて来ることは初めてだ。
「成瀬様、落ち着いて下さいませ。七瀬様はご存知なかったのですから」
「そうでございます。後の祭りでございますが、恥ずかしがらずに先に七瀬様にだけはお話なさっておけば良かったのです。どうか、お静まりを‥‥‥」
従者二人が必死で私を庇っている。ここで父上に暴れられたら相当難儀だ。
「はて? どうなさったのですか? 私に何か失態でも?」
私は、困惑顔で皆を見た。内心は可笑しくてたまらないのだが。
「七瀬! なぜ蓮津に手を出したのだ! 私が生まれて初めて側室にと望んだ娘だったのに! お前というやつは!」
私は今知った風に、心持ち狼狽してみた。
「え? 父上が、側室を?」
真鯉の従者二人が、私を恨みがましく見ている。
くっくっ‥‥結婚印まで与えられてしまっていてはもう、どうにも出来まい。
「それは‥‥‥存じませんでした。それなら昨日私を呼び出した時にはっきり伝えておいて下されば良かったではありませんか」
「‥‥‥急な思いつきだったしな、あの娘の意向も聞いてはおらぬし、まだ何も決まってはおらんのに言うわけがなかろう!」
この男、本当に優しいお方。私はほぼ母上の血を引いてしまったようだ。
父上は、無理矢理蓮津を側室にしようなどとは、全く思ってはいないことくらい、私は知っていた。
ただ、あなたが望めばそれを叶えようとする人たちが周りにいる、ということ。
父上の信望の厚さと高き誉れのゆえに。
「私はただ、父上の言い付けを守ったのです。『今夜の面倒はあの庵で見てやってくれ』『丁重にもてなしてくれ』と、父上は昨日、私におっしゃったではないですか」
「はっ?! それがどうしたというのだ?」
「私は言い付け通り蓮津と夜を共にし、私の印を与えたのです。妻の那津の具合が思わしくなく、今眠りについているのを知った父上が、私に新たな妻に蓮津を迎えるよう暗に薦めて下さった言葉とばかり思っておりました」
わかりやすい父上は、沸騰しそうな顔色になってしまった。
「‥‥うむ、確かに言ったかもしれんが、そのような意味で言うわけなかろうがっ! わ、私がどれだけ勇気を出して流美に側室の話を持ち出したと思っているのだ! む、むむむッ」
そう、父上の弱点は母上のみ。
「私は父上の心遣いに感謝し従ったまでのこと。母上も昨日の父上の言葉は聞いていたゆえ、母上はどう捉えたのか確認なさってはいかがでしょう、父上」
「‥‥‥うぬぅ。屁理屈を並べて私を出し抜くとは! さては、おまえと流美が裏で話し合っていたのではないのか? 全くお前も流美も食えんやつらだ‥‥」
「それは勘繰り過ぎというものです。父上」
「ささ、成瀬様。もう我々は参りましょう」
供の二人が成瀬の背中を押す。
妥当だ。これ以上ここにいて良いことは一切無いだろう。
《流美が裏で七瀬に手を回していたのか?》
《いえ、そのようなお話は聞いておりませぬ。あれば必ず我らに伝わっていたはず》
《七瀬様のことですし、裏を読み過ぎて誤解なさったのかもしれませんよ》
《ぐずっ‥‥‥誠に惜しいことよ‥‥‥》
《逃した魚は大きく見えるものです》
《我が息子が恋敵となるとは‥‥‥》
成瀬は不機嫌にぶつぶつ言いながら帰ってゆく。
私は母上から感謝されることだろう。この計らいにより、父上の気まぐれを落とすところに落として差し上げたのだから。
私が庵に入ると、蓮津は窓辺に来たメジロと戯れていた。私の姿を見ると、
「おかえりなさいませ、七瀬様‥‥‥」
と、ぽっと頬を赤らめた。
蓮津の肩に乗ったうぐいす色の小鳥が、今度は私の肩に飛び乗り、耳元でビービー鳴いた。あいにく鳥の言葉はわからないが、耳障りな鳴き声だ。
私が払うと蓮津の肩に戻った。
「今しがた成瀬様がお見えになり、つい先程お戻りになった所でした」
玄関にて、美しい所作で指をつく蓮津。
私は今まで感じたことの無いくすぐったい感情に戸惑う。
このような状況は那津では望めなかった。
座敷には、七瀬の運んで来た貢ぎ物が積まれていた。
たぶん、蓮津の手の甲の印を見て、側室話は出せずに これだけ置いて帰ったのだろう。
「成瀬からの贈り物か?」
「はい、『困ったことがあれば何なりと申せ』と おっしゃって下さいました。わたくしの手の甲を見て驚いていらっしゃいましたが、祝福して下さいましたわ。成瀬様は優しき君子でいらっしゃいます」
「他に何か申してはいなかったか?」
「‥‥‥いえ、特には」
父上は何か私への憎まれ口でも叩いたに違いない。あの人はいまだ子どものような所があるし。
おや?
開け放たれた玄関から黒き羽が一枚、すーっと入って来て部屋を一周回り、私の目の前で止まった。
──信書羽だ。この黒き八咫烏の羽!
薬効最仙人からだ。
ようやく私の注文した忘却の秘薬が完成したらしい。いつでも取りに来てよいと。
ああ、これはなんと都合の良い時に来たものよ。
「メジロ、おまえは信書羽を使えるだろう? 普通のメジロの振りをしていてもばればれだ。先程も判らぬように私に罵詈雑言を言ったであろう?」
「うふふ、そうでしたの? ミツケさんたらお茶目さんね♡」
「ぴよ~ん」
メジロは蓮津の手のひらの上で ちょんちょん頭を撫でられ、私には嘯いている。
なにやらかわいらしい外見とは裏腹に、小憎らしい感のある小鳥だ。
蓮津に可愛がられるその姿が、私をイラつかせる。これは蓮津の飼い鳥なのだろうか?
私は、いつにも増して冷ややかな低い声になった。
「蓮津、知らぬふりは無駄だ。おまえがキザシと通じているのはお見通しだ」
「‥‥‥‥‥」
蓮津は顔色を失ったが構わず続けた。
「蓮津。そのメジロに命じ、那津が欲しければ薬効最仙人の所へ行き、私の頼んだ薬を受け取ってここに来るようキザシに言え。あいつならひとっ飛び。ここの結界まで来たら伝言を寄越せと伝えよ。メジロ、それが済んだら薬効最仙人に、私がキザシをそちらに迎えに出したことを伝えよ。速達で」
「ったくさー、おまえ、鳥づかい荒いっぴっ。これは別料割り増し料金ぴっ!」
蓮津の手のひらからこちらを向き、メジロが喋った。
「‥‥‥メジロ、話せるのなら最初から私にもわかるように悪たれ口を叩くがよい」
くぅー、いちいち気に触る鳥だ!
「つーん。オレ、おまえキライぴ。蓮津は大好きぴ♡ちゅ」
「まあ、ありがとう。ミツケさん」
このような可愛いげのない鳥をいとおしむ蓮津に、私はイライラする。
「蓮津ぅ。オレ、仕方ないから送ってくるぴ。七瀬、これはツケにしとくぴっ」
メジロは窓から外に出た。高き所から送った方が風に乗って速く着く。
性格に難があるが、それなりに使えるようだ。
私の周りの雰囲気が一夜にして激変した。そして、それは更に変わるであろう。
メジロが出て行き、私はやっと蓮津と二人きりとなった。
「さて、蓮津、おまえがこれを出来ないというのなら、那津の眠りを覚ますわけには行かぬ」
「な、何でございましょう? それは難しいことなのでございますか?」
蓮津は不安げな顔で私を見上げた。
「いや、容易いことだ。お前が本当に私だけを愛し癒そうと思っているのなら」
「わたくしの心を疑ってらっしゃるのですか? わたくしはあなた様の印を受けたというのに」
「そう、蓮津は私の妻となり、もうここから逃げることは叶わぬ」
「‥‥‥‥‥」
「蓮津よ、心の全てで私を受け止めよ」
「‥‥‥‥どういう意味ですの?」
「『さく』とは誰だ? 私に今ここで偽るのなら、おまえにはここで消えて貰う。那津も解放せぬ」




