後手 蓮津
部屋の中は明かりはあるものの仄暗く、雨風の音は峠を越えたように思えたが、いまだ静まってはいない。
──わたくしは、どうすればいいの?
蓮津は、目を瞑り一旦心を落ち着かせようとした。
信じるべきものが見えなくなってしまった今、ここで信じられるのは那津しかいないことだけがはっきりしていた。
──落ち着くのよ、蓮津。わたくしがここへ来た目的は何だったの?
わたくしのせいで亡くなった那津様を、今度はわたくしがお助けするためですわ。わたくしはどうなったとしても那津様をお救いしようとしてここに参ったのでは?
肝心なことは、那津様の意向に添うことですわ。
なればわたくしが、鯉の里で力のあるらしき成瀬様の側室になれば那津様のお力になれるのではないかしら? 側室話も悪きことばかりでは無い。
そうよ、もういいのです。わたくしのことなどどうなっても。
索はもういないのだから‥‥‥
自分の行く末など打ち捨て、あがくのをやめた蓮津は、冷静さを取り戻した。
──待って!
ふっと、今までのごちゃごちゃが蓮津の頭の中で整然と並び始め、何もかもが腑に落ちて来た。
──そういうことですのね‥‥‥
今、わたくしに起こったようなことが那津様にも起きたのですわ。
ここの鯉の里の婚姻は城の婚姻に似ている。姫は決められたことに逆らうことは難いのですわ!
那津様でしたら‥‥たぶん、前世のわたくしのように婚姻相手が嫌だからと渋ることもなく、ただ殿方に決められたままに従っただけなのですわ。
だって、那津様はお亡くなりになる前まで誰かと恋をなさっていたご様子は一切無かった。ならばなおさら、言われるがまま七瀬様と婚姻されたに違いないの。
まだ年若い那津様は、七瀬様をお慕いする赤い髪の女の方の悋気に触れて、七瀬様の知らぬ間に図らずも鯉の里から追い出された。
そして孤高なるキザシ様に偶然助けられて恋に落ちたのですわ!
だからこそ、キザシ様は那津様の髪で作られた印を持っていたのよ!
蓮津はここに来て、ひらめき、読み解いたこの筋立てに胸が高鳴る。
実際は那津はキザシに恋した訳でもなく、身寄りの無い娘が、頼れる二つの内の一方を選んだだけに過ぎなかったのだが。
自らの有能ぶりを実感し、自信を取り戻した蓮津は、自分の成すべき続きをするのみだった。
確か、七瀬様は‥‥‥
『那津は今、訳あって私の鰭袋の中で眠っている。今、頼んでいる薬効最仙人の薬が出来上がったら起こすつもりだ』
‥‥‥と、おっしゃった。
ならばいつでも那津様を目覚めさせることが出来るはず。
七瀬様によれば、那津様のお悪いところは心。キザシ様に触れた心。
那津様は病気では無いのだわ。キザシ様をお慕いしている那津様のお心を自分に向けさせられないから、眠らせて閉じ込めているの?
薬効最仙人の薬とは? キザシ様を慕う那津様の心を矯正する薬って、どんな薬なの?
おかしな薬を飲まされて手遅れになる前に、このわたくしが確かめなければなりませぬ!
七瀬の後手に回っていた蓮津の番が巡って来た。
自分が七瀬にもたれ掛かって肩を抱かれていることに今さらながら気づいた蓮津は、七瀬の横顔をチラリと見上げた。
──なんて、寂しげなお顔。
わたくしは幼少の頃から相手の表情を読み解いていた。母上のご機嫌を損ねぬように、周囲から寄せられる羨望と嫉妬、欲望をかわすために自然と身に付いた。
そして、すました顔で泳ぐ鯉の気持ちさえ推し量れるのです。
これは錦鯉が大好きな索の側にいたせいで‥‥‥
それにわたくしは、相手が今欲している言葉を差し上げながら、その人を絡操る術を知っている。
嫁ぐ時に備え、厳しく指南されて来たゆえに‥‥‥
城の姫など所詮、誰かの思惑のための道具でしかない。
七瀬様は先程からわたくしの肩にかけた腕を外そうともしていないのですわ‥‥‥
最高権力のあるお父上様の成瀬様に先んじて、どうしてもこのわたくしを妻の一人に向かえたいようですわ‥‥‥
ずいぶんと孤独を抱えていらしゃるご様子ね。わたくしごとき小娘にすがりたく思うほどの。
‥‥‥ふふっ
──わたくしはあくまで、那津様の意向に沿うまで。
「七瀬様、わたくし‥‥‥決められませんわ。どちらかの側室になれと急に迫られても‥‥‥」
蓮津は七瀬の肩に額を寄せて、一筋の涙を流してから七瀬の瞳を覗き込んだ。
「わたくし親子ほども年の離れた方の側室になるなんて耐えられませんわ。でも‥‥‥」
「でも?」
「那津様の夫であられる七瀬様の寵愛をわたくしが得るなど、耐えられませんわ。それは那津様の幸せを奪うという行為なのですもの」
「私は那津と蓮津だけで結構。おまえたち以外の妻は不要とする。それでいいだろう。私の寵愛は十分行き渡る」
七瀬は右手で蓮津の髪を一房手に取り、スッと撫でた。
蓮津は恥ずかしげにうつ向く。
──そうよ、わたくしをもっと欲するのです。七瀬様‥‥‥
次は上目遣いで遠慮がちに七瀬に問う。
「それでわたくし‥‥‥那津様にお薬など必要無いと感じますわ。人の気持ちなど時と環境に任せ、自然に変わり行くものですもの。いったい何の薬を用意なさっているのです?」
「蓮津、おまえは私が那津に惚れ薬でも飲ませようとしていると思っているのだろう?」
「‥‥‥ええ、そのような人の意思を弱めて腑抜けにさせて御するお薬があるらしきことは存じておりますが‥‥‥」
「そのような浅ましき薬は現世の人間の物。私が完成を待つのは‥‥‥忘却の秘薬よ」
「忘却? なんですの? そのような薬は噂にも聞いたことがありませんわ」
蓮津に震撼が走る。悪き予感しかしない。
「ある特定の者の事だけ忘れてしまうのだ」
「!」
「那津にはキザシのことを忘れてもらう」
そのようなことを淡々と話す七瀬に蓮津は青ざめる。
それは絶対に止めるべきだった。
──那津様のお幸せを壊されるわけには行きませんわ! わたくしの恋は那津様の恋を全うさせんがために終わらせたようなもの。
それなのに那津様にキザシ様のことを忘れられたら、わたくしは何のために索を失ったの?
そんなこと、許しませぬ!
「そ、そんなことはいけませんわ! 七瀬様。那津様がキザシ様に惹かれた訳は知らないのでは? キザシ様を選ばれたのは、ここの河原があまりに退屈だったのが大きな要因なのですわ。ですからたとえキザシ様のことを忘れてもまた同じことを繰り返すのみ。那津様はここの環境で、七瀬様のもとでは過ごせませぬ! 七瀬様はここから動くことはおそらく出来ますまい」
「ここが、つまらぬと? 私がいるでは無いか。私には那津が必要なのだ! 美しき心と姿を持つ者が。それこそが私の内を満たすもの」
平静を装っているが、苦渋がその顔に漏れ出しているのが薄暗き中でも見て取れた。
沈黙が二人の間に流れた。
雨垂のポツリポツリと落ちる音がやけに座敷に響いている。
沈黙を破る静かな響きの蓮津の声がポツリと落とされた。
「七瀬様、那津様をここで捕まえておくことは出来ませんわ‥‥‥」
その言葉は由々しく、七瀬の心を動揺させた。
「何っ?」
蓮津はするりと自分の肩から七瀬の腕を落とした。
さっと半身を返し、七瀬の前に膝立ちし、七瀬をたおやかにその袖に包み込んだ。
そのまま母が幼子をいとおしむように七瀬の髪を撫でる。
「たとえ那津様がキザシ様のことを忘れても、また新たな第二、第三のキザシ様があなた様の前に現れましょう。那津様に固執するのなら、七瀬様の孤独な心は永遠に満たされることはありませぬ‥‥‥」
「蓮津、おまえは‥‥‥では私にどうしろというのだ?」
七瀬の声が微妙に震えていた。
蓮津は、右手で七瀬の頬を優しく撫でる。
耳元にくちびるを寄せて、暗示をかけるがごとく そろりと囁いた。
「七瀬様は那津様を解放するべきですわ。那津様がいれば七瀬様の苦悩は増し、それが続くのですもの‥‥‥」
蓮津は、まだ恋も知らぬような幼さの抜けきらぬ那津にすがらねばならないほどの孤独を抱えた七瀬に同情しつつも、現実を説く。
それは自らを犠牲にすることでもあったのだが。
──夜明けが来る前に‥‥‥わたくしは‥‥‥
わたくし、本当にお慕いしておりました。これにて、あなた様をわたくしの心に留めるさえ憚られることになるのですわ。
ほんとうにさようなら‥‥‥索。




