上手(うわて)の上手
窓と戸が、ガタガタ音をたてた。
──ずいぶんと風が出て来たようですわ。急に薄暗くなって来た。ミツケさんは大丈夫かしら?
このような暗き座敷に一人は心細い。そろそろお部屋の灯りをつけましょう。
蓮津は部屋にあった雪洞の燭台に火を灯した。
──この庵には那津様が過ごしていた跡が見当たらない‥‥‥
ほとんど使われてはいないみたい。
風でカタカタ鳴る戸の音にも次第に慣れて来た。
いつ現れるとも知れぬというのに、余りに緊張して待ち構え過ぎて疲れてしまった。
──そうよ、わたくし、予告も無く突然訪ねて来たのに、そんなにすぐにここまで来て下さる訳がないじゃない。
成瀬様が取り次ぎをして下さったとしても本当に今夜中に来て下さる保証などどこにも無いのよ。
次第に気が緩んで来た。
チラチラ橙色の蝋燭の明かりが揺らぐ部屋で一人、いつしか物思いに耽っていた。
七瀬という恐ろしい人物を想像して心許無くなったが、那津との思い出の記憶をたどり、心を強く持とうと自分に言い聞かせた。
他にすることも無くて、今まで押し込めていた思いが顔を覗かせる。
──索。わたくしのことをとても酷い女子だと思っているでしょうね‥‥‥
いきなり姫として格式を振りかざすなんて。
もう、とうに嫌われてしまったに違いないの。
今頃は死者の道を旅しているのかしら? あの宿屋にいた女の方たちに囲まれながら。
これも運命なのですわ。わたくしたちは死しても真に結ばれることは叶いませんでした。
索はわたくしなどと出会っていなかったら良かったのに‥‥‥
離ればなれになっても諦めずに追い求めてくれる夫がいる那津を羨ましく思った。
──わたくしはもうたった一人。だから、たとえもうどうなっても構わない。
最期に、那津様にお詫びと感謝を示せたならば。
ふと、気づけばもう外は真っ暗で雨も強まっていた。
──ミツケさんが戻って来ない。遠くまで羽を伸ばしたのでしょう。今頃はどこか木の陰で雨宿りしているかしら。この分じゃ今夜は戻れませんわね‥‥‥
雨が振り込んでしまうかしら? でも、もしもということもありますもの。ミツケさんのために窓は少し開けて置きますわね。
七瀬様もこの酷い雨では今日は流石にいらっしゃらないでしょう。わたくし、ぶしつけに来てしまったのですもの。仕方がありませんわ。
外の様子をちらりと戸を開けて確かめた後、緊張が途切れた蓮津は、正座したまま眠ってしまった。
真夜中になって風が強まり嵐となった。
蓮津は、正座の姿勢から倒れるように伏して眠ってしまっていた。
ガタガタガッターンッ!
引戸や窓が、一段と大きく響いた音で、蓮津の意識が戻って来た。
──あ‥‥‥床の‥‥‥冷たく固い感触‥‥‥わたくしったら‥‥‥寝てしまって‥‥‥
薄く目が開いたその時、横向きに倒れた姿勢のまま恐怖で固まった。
仄かに燭台で照らされた座敷。見知らぬ男の顔が蓮津の顔の目の前にあった。
その男は、添い寝するかのように蓮津の横でひじをついて寝転び、蓮津の寝顔をじっと見ている。
蓮津は横たわったまま、恐怖で目を見開いた。
強ばる上身を必死で起こし、床に両手をついた横座りのまま叫んだ。
「何者ですッ!! ぶっ、無礼者は出て行きなさいっ。わ、わたくしに指一本触ることは許しません」
「‥‥‥‥‥‥」
男は動じることは無く、肘で頭を支えたまま蓮津の顔を黙ったまま見ている。
口許には、どことなく嗤いが透けて、こちらを小馬鹿にした雰囲気が見て取れる。
「きっ、聞こえぬのか? おっ、お前が出てゆかぬのならば、わっ、わっ、わたくしが出て行きますゆえ、そ、そこから動かないで下さいませっ!」
蓮津は、狼狽する余り、足をもつれさせ上手く立ち上がれずにいると、男が声を発した。
「‥‥‥お前が私を呼んだのだろう? それなのに出て行けだの出て行くだの‥‥‥おかしな女子だ。しかも外はひどい嵐だというのに」
男は、おもむろに体を起こした。
「!」
蓮津は一瞬で察し、さあっと青ざめた。
「も、もしやあなた様が七瀬様なのですの?‥‥‥わ、わたくし‥‥‥あの‥‥大変失礼を致しました。こんな嵐の中、来て下さるとは思いもしなかったのです」
顔が、かーっと熱くなり涙が滲む。
──ああ、わたくしとしたことが、なんという失態を‥‥‥
最初からこれではどうなって仕舞うのかしら‥‥‥
「ふっ、人を呼びつけておいて寝てしまうとは。さすが姉妹だな。よく似ている」
その長い黒髪の美しい男は、冷たい顔で薄笑いを浮かべた。
「あ、あの、わ、わたくし那津様の姉の蓮津と申します。わたくし、成仏の道へ行く前にぜひとも那津様にお会いしたいのです。こちらの鯉の里には年若い姫様が加わり、その名はナツという噂を聞きまして、もしやわたくしの妹の那津では‥‥‥と、一縷の望みを託して伺ったのです」
蓮津は平静を取り戻そうとしたが、一度乱れた心はなかなか静まらない。
余裕は無く、いっぱいいっぱいだったが、この機会を逃せば二度目は無いかも知れない。
目的を果たさなければ、蓮津が何もかも打ち捨ててここまで来たことすら無駄になる。
必死だった。
「所で、那津様はいずこにいらっしゃるのでしょう?」
余裕を無くした蓮津の口調には咎めがわずかに現れてしまっていた。
「‥‥‥那津は今、訳あって私の鰭袋の中で眠っている。今、頼んでいる薬効最仙人の薬が出来上がったら起こすつもりだ。作るのが難しい薬で時間がかかっている」
「鰭袋でずっと眠っていらっしゃるのっ! そのような得難いお薬が要るなんて! 那津様はどこを患っていらっしゃるのですかっ? どのような病なのですっ? 霊体でも病気になるなんて知りませんでしたわ! おかげんはどうなのでしょう?」
「ふっ‥‥‥やはりな」
「やはり?」
七瀬にしてみれば、黄金の鯉だけが持つ鰭袋の存在を、人であった蓮津が知っていて、当たり前のように話が通じていること自体 既に怪しいことなのだが、七瀬にまんまと心乱された蓮津は気づいてはいなかった。
主導権は七瀬のものだった。
七瀬の登場の仕方に加え、那津がまるで病に伏しているかように言われて、蓮津の心は冷静を失い、相手を密かに意のままに動かすなど出来はしない。
──まさか那津様の気配が感じられなかったのは病にかかって伏せっていたせいだったの? そのようなこと、考えもしなかった‥‥‥
「那津のことが心配なら、蓮津も私の鰭袋に入り確かめればよい」
七瀬が試すかのように蓮津の目を見た。
「わ、わたくしが、入るのですか?」
蓮津は当初の目的を、いきなり七瀬の方から突きつけられてキョドってしまう。
蓮津は最初から七瀬の手のひらに乗せられていた。
「ふっ、怖いのか?」
七瀬の口許に、かすかに嗤いが浮かんだ。
「い、いえ‥‥‥那津様に会わせて頂けるなら、も、もちろん鰭袋に伺いますわ」
七瀬という男にどことなく薄気味悪さを感じていたが、那津に会うために来たというのに、ここで怖じ気づくわけにはいかない。
キザシにも必ず那津を連れ戻すと言ったのに。
七瀬の鰭袋の中を確かめるこれ以上の絶好な機会はあり得ない。
「‥‥‥では、こちらへ」
七瀬は自分の右側に蓮津を座らせた。蓮津の肩に七瀬が右腕を回すと、蓮津のギクシャクした動きはカチンコチンへと変わった。
索以外の男に肩を抱かれるなど初めてのことだ。
「こ、これは、鰭袋に入ることと関係があるのでしょうか?」
「‥‥‥ほお‥‥蓮津は身持ちは固かったようだな。男に触れられることに慣れていないとは」
蓮津は、自分が固くなり怯えている様子を嗤われているように感じた。
「なっ、なにをおっしゃ‥‥‥‥」
蓮津はスッと七瀬の鰭袋に取り込まれた。




