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〈潜入〉蓮津とミツケ

「わたくし、清瀬川家の姫、蓮津と申します。どなたかおりませぬか?」


 蓮津の澄んだ声がせせらぎの音を越えて石原の藪に響く。


 誰の気配も感じられない。


 

「あら‥‥‥雨?」 


 手ひらをかざし空を見上げた。


 先程からどんよりした空模様だったが、霧のような雨が降り出した。



「‥‥‥いやですわ。わたくし傘は持っておりませんのに‥‥‥」


 雨宿り出来る木陰など無いか、辺りを見回していると、突然声をかけられ、びくっと振り向いた。



「娘さん、お一人でこんなところに? 物騒であられるな。‥‥‥ はて、見慣れぬ顔だが‥‥そなたはこの鯉の里に何か用なのですかな?」


 突然蓮津の後ろに現れたのは壮年の男だった。


「はい、わたくし、蓮津と申します。妹の那津という姫がここにいると噂に聞きまして、はるばる訪ねて来たのです。あなた様はこのお里のお方であられるのでしょうか?」


 蓮津の言葉に、男の目が驚きを表した。


「なんと! そなた、あの那津の姉上と申すか! そう言われればどことなく似ておる。‥‥‥ふむ、では私と共に鯉の里にへお入りなさい。死人の道からは相当遠いというのに、よくもここまで来られたものよ。さぞ難儀したことでしょう。雨まで降り始めたと来た」

 

「ありがとう存じます。ご親切なお方。いきなり那津様のお知り合いに会えたとは、なんと幸運なこと!」


 蓮津は、無事前に進めそうなことにほっとした。


 胸を押さえて小さく息を吐いてから、緊張した顔でお辞儀をした。



「私の手を取って。私と触れあっていれば結界は超えられるのですよ」  


 

 那津の知り合いのようではあったが、今初めて会った素性の分からぬ男と手を繋ぐなど、あり得ぬことであったが、ここで引くわけには行かない。


 

「あ‥‥‥では‥‥‥お願い致します」 


 男の差し出した手に、蓮津は戸惑いながら左手を軽く乗せた。


 蓮津の自分へのおどおどした態度は男にとって初々しく、好ましく映った。


 

 ──近頃には珍しき清純そうな乙女のようだ。私のような年上の男を恐れるのも無理はない。優しく扱わねばならぬな‥‥‥ 


 

「さあ、今から抜けますよ」 


 蓮津には結界の存在など、さっぱりわからない。


 蓮津の手を取りながら結界内に入った男は立ち止まり、すぐに蓮津の手を解放した。



「もう、ここは内側に入った。そなたは蓮津と申したな? 私は黄金の鯉族の成瀬と申す。ここまで来るのは大変だっただろう。どうやって娘一人で来たのだ? よくも無事に来れたものよ」


 成瀬は若い娘を労った。他に他意は無かったのだが、蓮津にとっては冷や汗ものだった。


 ──まさか、キザシ様とわたくしの姿を見られていたのでは‥‥‥?


 キザシに連れて来て貰ったことが露見しているのなら、この先どうなるかわかったものではない。ここはさりげなく探りを入れつつ話を反らし、切り抜けなければならない。



「‥‥‥ええ。那津様が未だ成仏への道に進んではいないことを門番を通し知ってから、わたくし、那津様の行方をずっと探していたのですわ‥‥‥クスン‥‥それからのことは長い長いお話になりますの‥‥‥」


 蓮津は潤んだ瞳で成瀬の目を見詰めてから、うつむいて指でちょんちょんと目元を押さえた。


「それはそれは! ご苦労だったな、蓮津よ。那津の姉というならば私の身内も同然。私が力になろう。霧雨も降っているし、落ち着ける場所を提供いたそう。私について来るが良い。詳しい話はそれからだ」


 成瀬が自分に同情し、心が動いたのがわかった。



 ──よかった。キザシ様との姿は見られてはいなかったようですわ‥‥‥



 念のため、だめ押しのもう一言を追加しておくことにした。


「‥‥‥わたくし、ずっと一人きりで‥‥‥ずっと心細くて。成瀬様と那津はどのような間柄なのでしょう? 初めて会ったわたくしにこんなに優しくして頂いて心に染み入りますわ‥‥‥」


 蓮津は涙目で成瀬と目線を一度会わせてから感謝を唱え、恥ずかしげに目を反す。



 成瀬が自分のことを、かなり好ましく思っているのが蓮津に伝わって来た。


 年甲斐もなく、その耳と首もとが照れて赤らんだから。


 

 ──確か‥‥‥キザシ様によれば、成瀬様とは七瀬様の父上の名前と同じ。わたくしを身内同然とおっしゃるのなら多分‥‥‥


 

 霧雨の中、蓮津は成瀬の後ろにつき、そのまま川沿いを歩いて行く。その間、成瀬は何度も振り向き、蓮津の足取りを気にかけた。


 川岸から少し離れ、一段高くなっている所に小さな茅葺きのいおりがあった。



「さあ、ここで少し休みなさい。好きに使ってよいだろう。私たちには雨は良いものだが、人の霊はそうではないだろうからね」


「はい。ご親切、痛み入ります。成瀬様、わたくし初めて尋ねた右も左も見知らぬ土地で雨にも降られ、成瀬様がいらっしゃらなければ途方に暮れていましたわ」


「そうか、そうか。それは幸いだ」


「あの‥‥‥成瀬様は、那津様とはどのような間柄に当たるのでしょう?」 


「ああ、肝心なことを言ってはいなかったな。私の七番目の息子の嫁が那津だ。えーとね、それで‥‥‥那津の事だが、私は去年の秋頃から全く会っていないのだ。七瀬が結婚の印を授けたのは聞いておるが、そう言えばそれから姿を見ていないな。七瀬は、私たちには構わず好き勝手に過ごしているゆえ、年に一、二回会うかどうかでな」


「‥‥‥まあ‥‥‥那津様は今どこにいらっしゃるのでしょう?」 


「七瀬と共にいるのだろう。那津には他に行くあてもなかろうし。この庵も那津に与えられたものだが、ここ最近は使われた様子も無いしのう。七瀬にはここに来るように使いを出しておくから」


 この様子では、成瀬は七瀬と那津の最近の様子は知らないようだ。那津が鯉の里を赤い髪の女に追われその後、キザシと印を結んだことも。


 その七瀬がキザシを死の直前まで追いやり那津を取り返したことも。



 ──いえ、知らない風を装っているのかも‥‥‥油断大敵ですわ。


 わたくしはただ、妹をはるばる訪ねて来た姉を演じればよい。



「あの、ならばわたくし、ここで待てば七瀬様と那津様にお会い出来るのですね?」


「今はもう昼時を過ぎておる。何時(なんどき)に来るか約束は出来んが、今夜までにはここに来るように申し付けておこう。しばしここで待つが良い。そしてそなたは今夜はここに泊まればよい。そうだ、後でこの私が蓮津の入り用な物を揃えて持ってこようぞ」


「え? えっと、ありがとうございます。でも、今夜一晩の準備は持って来ておりますゆえご心配は無用ですわ‥‥‥」

 

 蓮津としては、自分に下心があるやも知れぬ男に一人で訪ねて来られてはたまらない。 

 

「‥‥‥ふむ、そうか。ならば明日の早朝にでも差し入れを持って来よう」


「まあ、それは楽しみですわ。では、成瀬様、また明日‥‥‥」  


 

 蓮津は、入口に立ったまま深くお辞儀をして成瀬を見送った。 



「はぁー‥‥‥‥‥緊張した‥‥‥」


 

 辺りを見回してから戸を閉め、一人きりの庵でホッと息をついた。 


 

「そうそう、ミツケさん。お待たせね。この重宝なヨロズ袋の中は一体どうなっているのかしら? 本当に不思議よね」


 

 蓮津は、懐からヨロズ袋を取り出して紐を緩めた。


「ミツケさん、おいでなさい」


 蓮津が、袋の入口に囁いた。  


 

「ぴっぴー! やっと出られるぴっ!」


 

 ミツケが勢い良く飛び出して来て蓮津の肩にとまった。


「ぴよ~、オレ、この袋の中は苦手っぴ! ぴ~‥‥‥オレ、外を一回りして来るぴ! ここ、初めて来たとこだから探検して来るぴっ! わくわく」


 蓮津はミツケを手のひらに乗せ、目の前でそのかわいらしい姿を見た。


「そう? 気をつけてね。霧雨も降ってるし暗くなる前に戻るのよ」


 心配そうな眼差しを向けながら、左手のひらにちょこんと乗ったミツケの頭を、人差し指の指先でそっと撫でた。


「わかったぴ。オレ蓮津、大好き。ちゅっ」


 ミツケは蓮津のくちびるにくちばしを軽くつけた。


「うふふ、かわいいミツケさん、行ってらっしゃいませ」


 

 蓮津はキザシを窓から放った。



 ミツケの姿が見えなくなると、蓮津は上がり(かまち)に腰掛けて一人、考えに耽った。


 


 ──妻を他の男に奪われた‥‥という恥を、自尊心が高いらしき七瀬様が他に漏らすことは無いかも。


 ならばやはり成瀬様は本当のことを言っている。


 ──七瀬様は那津様にご執心ならば、那津様の身は無事なはず。だけど、身内の成瀬様さえ会ってはいないご様子。それは去年の秋以来というのならば、キザシ様との一戦以来のことですわ。


 キザシ様のおっしゃる通り、鰭袋とやらに閉じ込められている可能性が高いと言える。


 七瀬様が那津様とわたくしを簡単に会わせて下さるとは思えない‥‥‥


 単に体よくわたくしを追い返そうとするかも。


 ここに現れるのはたぶん七瀬様お一人。しかも、何時(なんどき)ここに訪ねて来られるか分からないのは難儀。



 

 ──このまま気は抜けない。今のうちに身支度をきちんと整えましょう。


 

 蓮津は、着物の着崩れを整え 薄衣をまとい、髪も整えた。人に会うための礼を尽くし、そわそわしながら待った。



 ──まずは、那津様の居どころを探り出さなければ。



 蓮津は、時折響いてくるガタガタ風が鳴らす戸の音にさえ反応してしまうほど緊張していた。




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